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三月五日(月曜日)


病室には私と医師と母と看護師の四人がいた。 

私はベッドから足を下ろし立ち上がる。

一昨日とは大違いだ。違わなければ困る。 

本番はこれからだ。 

私は深く、一歩を踏み出した。             



 ○


筋肉が無ければバランスで歩けばいい。

何度も何度も何度も。

躓き転んで膝をつくにつれ、次第に歩行のコツを理解していた。

たぶんまだ、私の体は以前の状態を取り戻していない。それどころか昨日リハビリ室が閉まるまでリハビリを続けていたせいで、筋肉痛で足はより重くなっていた。


でも……。


看護師が私から手を放す。

足の指で床を掴むように立つ。

重心をぶらさずに片足を上げ、上げた方の足に少しずつ重心を動かし、歩む。そして、それを反対側も行う。交互に、行う。歩けた。


――歩けた!  


足はボロ板のように軋んでいたが、私はついに歩いた。 

自分のことのように喜んでくれている看護師に感謝とともに、医師を呼んでほしいと伝えた。



                    ○   



 病室を出て、廊下を歩く。すぐ傍では母が触れない距離で寄り添ってくれている。 

 だから、転んでも大丈夫だ。心の中で呟くと、私は一層強く踏み込む。だから、この階段もきっと乗り越えられる。 

 廊下を少し歩いてすぐのところにそれがあれはある。

『学業に復帰するためのリハビリ』のため、当然エレベーターは使ってはならない。それは納得している。 


だが。

 

 いざ間近に直面すると、恐怖がにじみよってきた。 

 幸い、さすがにと階段の手すりを握ることは許されている。 

 まず一歩と、進む足は震えていた。それでも重力に任せるように足を出す。 

 一歩一歩と進んでいく。 

 上の階段が突然箪笥のように前に出て私を押すのではないかと被虐的な妄想をしてしまうが、頭を振って思考を遮断する。 

 そして私は汗だくになりながらも、なんとか一階まで降り切った。 

 母が不安そうに見つめてくるが「大丈夫」と短く告げた。 

 あとは、病院から出るだけ。 

 出入り口の自動ドアは人の往来の度に開閉を繰り返していた。 


――もう少し。


 私は棒のような足に喝を入れ、歩いていく。 


 きっと変な歩き方をしているんだろうなあ。 

 と、ぼんやりとうわごとを考えたのが失敗だった。 

 摺り足になったせいでバランスが崩れる。重心が前のめりになり早足になる。つまずきかけた時の挽回の仕方が思い出せない。 

 このままだと必ず転ぶ。遠くない未来が見えた。 


――なら。 


 転ぶなら、せめて病院に出てからだ。 

 その覚悟で私はさらに歩みを速める。ゴールが無ければただの暴挙だ。ゴールがあっても失敗すればただの暴挙だ。 

 でも、今の私は前に進むことしか知らない。 

 失敗したら医師に説得されて退院の先延ばしが確定するだろう。 暴挙で終わらせるわけにはいかなかった。 

 歩調が速くなったおかげで出口がぐっと近くなる。 

 自動ドアが開き、いつ以来かの直射日光を受ける。すっかり白くなった肌に、ちりちりと心地良い刺激が走る。 

 どこまでも歩き続けたくなるような気分の中、私はついにバランスを崩し、母に抱きかかえられながら倒れた。 

 すぐさま医師を見やる。 

 医師の白衣は真昼の日差しをまばゆく照り返していた。


……それでも、


あの日の夕焼けに比べれば全然見られるものだった。

 

「現に倒れてるしな」 


 医師はぼそりと呟く。その言葉に看護師までもが不安げな表情をした。


「お母さんは、どうですか」 


 医師は母にそう訊ねる。母は私を見てわずかな間思惟すると、


「この子が、いいのなら」 


 今にも抱き着きたくなった。 医師は後頭部に手を置き思案する。私に浮かぶ汗は日差しのせいではないだろう。

 

「病院にいる患者を見守るのが医師の仕事です」

 

 後頭部を叩き、話を続ける。


「でも、院外の患者の管理まではできません」 


 医師の目が細まる。 

 それはきっと、日差しのせいではないだろう。

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