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少し前にエブリスタにあげたものです。
8000文字以内のイベントに参加だったのでやや窮屈な感じになっております。
言い訳は以上です!
一二月三日(金曜日)
師走の朝の、凍てついた空気が私の肺を締め付ける。
比較的アウトドア派な登山部部員とはいえ、全力で廊下を走ればさすがに息は乱れ鼓動はその速度を増す(いや、そもそも登山部というのは全力疾走のような無酸素運動は少ないから至極当然なのかもしれないが)。
朝のホームルームの後、昨日部室に忘れた筆箱を取りに行った私は、なんとなく、机の上に置いてあった登山雑誌に目がいった。
部活の備品という扱いのそれは、下っ端の一年である私が勝手に教室に持っていって良い代物ではない。一時間目にはまだ時間があったため私はギリギリまで読もうと思ったのだが、それが失敗であった。
ホームルームから一時間目にかけての、緩慢な時間を『登山ジャケットのカタログ鑑賞』という有用性の(わずかに)高いものに変えた罪は重く、移動時間を圧縮するために私はこうして運動部の本領を発揮せざる負えなくなっていた。まんざらである。
一段飛ばしに階段を渡っていく。コツンコツンと小気味良い音が、喧騒よりわずか外にある階段という空間に響き渡る。
――間に合う、間に合う。
私は自分に言い聞かせる。そうやって念じると不思議と間に合っているものだ。
登校の時も体育の時も毎日遅刻間際の私にとって、校庭をことは日常茶飯事で、ある意味得意分野といっても良いだろう。
だからといって乾いた冷気が肺を満たすのも、血流が過剰に活性化して心臓を締め付けるのも、それらがもたらす苦痛も無くすことはできないのだけど。
こういう無計画な性格を直したくて、建設的に登山経路を考える必要のあるため計画性を獲得できると謳っていた登山部に入ったのに、基本的に経路は先輩たちが決めるので結局養えていないのが非常に残念である(そんなのは所詮建前的キャンペーンだと薄々気がついてることは自分にも秘密である)。
手すりを利用して二階の踊り場を曲がる。
三階まであと二六段まで差し掛かり、スパートをかけると、「……ッ!」 私は恋に落ちた。
唐突すぎるだろうか。唐突すぎるだろう。
二階と三階の繋ぐ踊り場で、抱え込むように教科書を持つ男子生徒に、私は不意に不覚にも、一目惚れしてしまったのだ。
緩く結ばれたネクタイの色は三年生を表す深緑をしていて、肌はアウトドアで日に焼けた私とはくらべものにならないほど白い。短い髪は天然パーマか無造作にくるくると巻かれているのに、粗雑さや無精さのようなものが微塵も感じられないのは、細く整った顔立ちのおかげだろうか。
彼を瞳に映したとき、目の前に閃光が走り、貧血のようにくらりとするような感覚に陥った。それでいてふわりと体が宙に浮くような感覚も襲ってきた。
第一印象でかっこいい人とか優しそうな人だなとか、異性にそう思うことはこれまでにもあった。一目惚れというのは、そういった好印象の延長線上にあるものだと思っていたが、間違いだったようだ。
かっこいいとか優しいとか、意識や思考といった脳の信号に因るものではなく、もっと生物的、生理的な衝動としてそれは私に訪れた。今すぐ飛びついて好きですって言いたくなるような情動にも襲われた。 そんな彼は私と目が合うと突然瞳孔を大きく開き、
「危ないっ!」
教科書を放り投げ私の手首をつかんだ。
手ではない手首だ。パタパタと重力に負け教科書が床に落ちる。
先輩は右手で私の手首をつかみ、左手では階段の手すりを握っていた。
状況が飲み込めてくる。私は恋に落ちるとともに、階段から落ちかけたのだ。くらりとしながらも宙に浮くという二律背反の理由がわかった。物理的に宙に浮いたからだ。
体中から嫌な汗がにじみ出る。足に軋むような痛みが走る。
間一髪、先輩のおかげで転落という災難は逃れたものの、どうやら足を変な風に曲げてしまったらしい。
こういう時こそ焦らず冷静に対処すべきだ。
たぶんこのまま手前、先輩側に倒れれば万事解決するだろう。要は後ろに倒れなければいいのだから。 私がそう実行しようとした瞬間。
体重が均衡してきたのを見計らった先輩が左手を外し両手で一気に引き上げようとした。
均衡していた体重は二人の重心の変化で乱れ、一度先輩側に流れるが、位置エネルギーで劣っているこちらへ再び襲い掛かる。
すなわち、落下だ。
足場を失った私と先輩は、万有引力にしたがって階段へ落ちる。 私は別に落ちても良い。当然の成り行きだ。
――でも
先輩が巻き込まれているのはおかしいのではないか?
――だったら!
間に合うかはわからない。でもやるしかない。
私は先輩に掴まれている方の腕を思いっきり後ろに引く。階段とぶつかるのを感じた。でも不思議と痛くない。
先輩と私の体が密着する。そのまま私は先輩を抱え込んだ。
背中をなにかで刺されたような感覚が襲う。両断されたような感覚とも近いかもしれない。とにかく痛くて熱い。
そのままがくんがくんと何度か視界が歪み、とどめと言わんばかりに頭の上で爆音がすると、私の意識は一気に遠のいた。
……これだけ私が痛かったらきっと先輩の痛みは、少しは和らいだはずだろう。
――よかった。
希望的、いや、楽観的観測を最後に、私の意識はついに途切れた。
○
見知らぬ天井。
半覚醒の私の第一考はそれだった。
鼻孔を突き抜ける消毒液の匂い。目に毒なほど純白な内装。むき出しの蛍光灯。
保健室……いや、病院? 曖昧な思考回路をなんとかつなぎ合あわせ、私は結論に至った。
はて? なぜ私は病院に? そうだ、階段から落ちたのだ。 朝、筆箱、先輩、一目惚れ……。芋づる式に記憶が甦っていく。
そうだ、学校へ行って、あの先輩を探し出して、謝って、好きって言わないと。私はそう決心し、体を起こそうとするが、上手く力が入らなかった。
……それに。
なにやら私に管が沢山繋がっている。管は心電計へと繋がっていた。
…………それに。
体に怠さのような重さのようなものを感じても、痛みのようなものがほとんどなかった。
どこかおかしい。
じりじりとつま先から火で炙られるような恐怖が、体まで侵食していくのを感じる。
病室にはナースコールなるものがあるはずだ。縋るような思いで私はベッドを這いまわっていると、その音に気が付いたのか部屋の外から誰かが駆け寄ってくる。カーテンが開かれるとともに若い看護師が私の様子を見て目を丸くした。
「あ、気づかれたんですね! 今、医師を呼んできます!」
私の様子を見るや否や、看護師は部屋から飛び出ようとする。
「待ってください!」
私は、彼女を呼び止める。
「今……今日って何日ですか?」
再び駆け寄ってきた看護師が、はたりと止まる。
深呼吸をすると、
「落ち着いて聞いてください」
さっきまでの慌ただしげな印象を隠して、彼女は私を見据える。
私がこくりと頷くと、彼女は生唾を飲み、そしてゆっくりと告げる。
「三日、です……。今日は、三月の三日です」