5話
ロゼッタがカルヴァード公爵家の侍女になって、一週間が経った。
日の出と共に目覚めると、まずは日課になった馬の世話を行う。馬たちは良い子ばかりなので、ロゼッタの厩舎での仕事は一刻ほどで終わる。
そして重い足取りで食堂へと向かうのだ。
「ぐふぇっ! マズい……でも、食べなくちゃ」
ロゼッタは深緑色をした泥のようなオートミールを、鼻を摘まみながら食べる。
初日に衝撃を受けたティナの料理に、まだロゼッタの舌は慣れていない。というか、慣れる気が一切しない。
しかし、ここで食事を抜けば残りの仕事をこなす体力がなくなる。ロゼッタは何度も吐きそうになりながら、オートミールをかき込んだ。
食事の時間がロゼッタは一番大嫌いだった。
「あはは、ロゼッタは頑張るねぇ」
「笑っていないで、少しは料理の腕を上げる努力をしなさい!」
ロゼッタが叱責するが、ティナは欠伸をすると眠そうに目を擦った。
「人には向き不向きっていうのがあるんだよ」
「わたしたちのために諦めないで!」
恐ろしいことに、ティナの料理はアーネストとフェイも食べているそうだ。
ロゼッタの味覚がおかしいのか、それともアーネストとフェイの味覚がおかしいのかは、まだ分かっていない。
「ちなみに、今日の夕飯はビーフストロガノフだよ」
「お願いだから、ありったけのハーブを鍋にぶち込むのはやめて」
「肉の臭みを取らないといけないから無理だね」
……質素でも良い。ロゼッタはまともな食事がしたかった。
☆
次の仕事に取りかかろうと、タライを持って廊下を歩いていたらアーネストと出会した。服は黒の正装に近い貴族服を着ているので、おそらく王宮へ行くのだろう。
ロゼッタは廊下の端に寄ると、深々と頭を下げる。
「おはようございます、旦那様」
「……まだいたのか」
アーネストはロゼッタの前に立ち止まると、心底嫌そうな顔で言った。
「わたしのことは、空気だと思ってください」
「こんな腹の立つ空気があって堪るか」
「新人侍女風情には勿体なきお言葉です」
侍女として雇用されてからというもの、アーネストとロゼッタは会う度に嫌みの応酬を繰り広げていた。
最初はビクビクしていたロゼッタだったが、いつしか開き直り、アーネストの真紅の双眸を真っ直ぐに見つめるようになる。
「……少し、痩せたか? 君のような小娘には、我がカルヴァード公爵家の仕事はキツかろう。意地を張らずに帰った方がいい」
心配げな物言いだが、アーネストはロゼッタの頬を思い切り抓った。
ロゼッタは手にタライを持っているため、それを払うことができない。イライラしながらも、ロゼッタは必死に平静を心がける。
「たひゃいなごはいりょ、ひょうえつしごくにしょんします」
「意外と面白くないな」
アーネストはつまらなそうな顔をすると、ロゼッタの頬から手を離した。
(わたしの頬が伸びて戻らなくなったら、どう責任を取ってくれるのよ!)
頬がジンジンと痛んだ。ロゼッタは痛みで涙目になりながらも、アーネストを睨み付ける。
「雇用契約がある限り、わたしは帰りません。やることがあるので!」
「……勝手にしろ」
冷たく言い放つと、アーネストはロゼッタに背を向けてスタスタと歩き出す。
「いってらっしゃいませ、旦那様。ちなみに今日の夕食は、ビーフストロガノフだそうです。ティナが心を込めて腕を振るうと言っていました。楽しみにしていてくださいませ」
「い、いってくる!」
アーネストは珍しく声を裏返させ、早足で王宮へと向かって行った。
ロゼッタは城の裏手にある井戸に向かうと、タライに水を張って洗濯を始めた。
石けんは高級で、ほのかにシトラスの爽やかな香りがする。アーネストの普段着を慎重にもみ洗いしていると、ロゼッタの横に洗濯物が山積みになった大きな籠が置かれた。見上げれば、フェイがにっこりと微笑んでいる。
「追加の洗濯物になります」
「かしこまりました、フェイ様」
ロゼッタは嫌な顔をせず、微笑んだ。
フェイはその後何も言わずに、城の中へと戻っていった。
残された洗濯物の山を見て、小さく溜め息を吐く。
「一人でやるには、すごい洗濯物の量よね」
ロゼッタは立ち上がると、靴下を脱いでスカートをたくし上げた。そして膝の辺りでスカートを結ぶ。とても貴族令嬢がするような格好ではないが、今はこの洗濯物を片付けるのが先だ。
「よっし! やってやるわ」
幸いなことに、フェイが持って来た洗濯物はシーツやタオルが中心だ。
それらを、石けん水を張った大きなタライの中に入れた。そして、ロゼッタはタライの中に入ると、ジャブジャブと音を立てながら洗濯物を踏んでいく。
「洗濯している時が一番平和な気がするわ」
汚れを落とした洗濯物を何度か水で濯ぎ、手動の脱水機のローラーで挟んで水気を切る。そして、一枚一枚皺を伸ばしながら、洗濯物を干していく。
「よしっ、終わった!」
額の汗を拭い、ロゼッタは満足げに笑う。
太陽はまだ空高く輝いており、思っていたよりも早く洗濯が終わったようだ。
ロゼッタはテキパキとタライを片付けると、仕事の報告をティナにするため城へ戻った。
城の廊下を歩いていると、突然パリィンッと何かが割れる音がした。
ロゼッタは音のした方向へと一目散に走り出す。
「何事!?」
そしてアーネストの部屋の前で佇むティナがいた。彼女は大理石の床の上にぶちまけられた陶器の破片を見下ろしている。
「ティナ、怪我はない?」
ロゼッタが駆け寄ると、ティナは苦笑しながら頭をかく。
「いやぁ……うっかり、うっかり」
エプロンの裾が切り裂かれているが、陶器の破片で怪我はしていないようだ。
ロゼッタはホッと安堵の息を漏らすと、廊下に置かれた木製の装飾が施された美術品を飾る台座を見る。そこには昨日まであった美しい異国の陶磁器が消えていた。
「うっかりじゃ済まされないわ、ティナ。この花瓶はわたしたちが逆立ちしても買えない代物よ。クビになってしまったらどうすの」
「大丈夫、大丈夫。この花瓶はカルヴァード公爵家じゃ安物の部類だし、旦那様も割れたことになんて気がつかないよー」
「いいから掃除をしなさい!」
「つーかーれーたー」
危機感のないティナに、ロゼッタは呆れた目を向ける。
そして大理石の床を見て、あることに気づく。
「……ねえ、ティナはここの廊下の掃除をちゃんとやっていたのよね?」
「箒で掃いたけど?」
「隅に汚れが溜まっているじゃない! また適当に掃いたでしょう。それに掃き掃除だけじゃなくて、モップで綺麗に磨かないと駄目よ」
「ええー。別にいいじゃん。廊下なんて誰も見ていないんだし」
「そう言って、昨日は客室の掃除も疎かにしたわよね」
「うん。だって、旦那様が客人をこの城に泊めるなんて滅多にないし」
この一週間で気がついたが、ティナは公爵家の侍女とは思えないほど仕事が適当だ。使用人もロゼッタ以外にティナとフェイしかいないし、絶対にこの公爵家は何かある。
「それでも掃除はきちんとしなさい! 埃は病気を運んでくるのよ」
姉のアリシアは病弱で、少しでも塵や埃が部屋に舞っていると、すぐに咳をして寝込んでしまう。
そんな姿をずっと見てきたロゼッタは、掃除に関して厳しいのだ。
「ごめん、ロゼッタ」
「ここは旦那様の過ごす場所だから、しっかり掃除をしないとね。わたしは信用されていないから、ここの掃除は手伝えないもの」
「あーあ、早くロゼッタも旦那様の部屋を掃除できるようになれば良いのに」
「そういう訳にはいかないでしょう」
ロゼッタは箒とちりとりを持ってくると、陶器の破片だけ片付ける。
「ありがとう、ロゼッタ」
「どういたしまして。それじゃあ、ティナ。わたしはエントランスホールの掃除をしてくるわね」
「うん。お願いねー!」
ロゼッタは小さく笑うと、ティナに背を向けてエントランスホールへと向かう。
ティナはいつも通りけらけらと笑いながら、ロゼッタの姿が見えなくなるまで手を振った。
「ロゼッタの言う通り、ここだけは掃除をしっかりとやらないといけないよねぇ」
ティナの顔からは笑みがなくなり、氷のように冷たい無表情となっていた。
そしてアーネストの部屋の扉を開けると、入り口に倒れていた男を掴み上げる。
その男は血で顔を真っ赤に染め上げ、衣服は引き裂かれ、腕があらぬ方向に曲がっている。僅かに意識があるのか、男は小さく呻き声を上げていた。
「不法侵入した鼠を駆除するのに花瓶を割っちゃうなんて、うっかりだったなぁ」
ティナは男を引き摺ったまま歩き出す。すると、真っ赤なラインが大理石の床に描かれた。
「うわぁ、掃除が大変じゃん。尋問もしなくちゃいけないし、夕食作りに間に合うかなー」
そしてティナは、欠伸をしながら男と共に城の奥へと消えていった。




