20話
グラエムが去った後。ロゼッタはいつものように侍女の仕事を終えると、自室のベッドに飛び込んだ。体力にはまだ余裕があるが、精神的に疲れた。サラサラしたシーツを撫でながら、俯せで枕に顔を押しつける。
「……訳ありだと思っていたけれど、想像以上だわ」
王家打倒を狙う叔父との確執なんて、田舎貴族のロゼッタには縁遠い話だ。けれど、アーネストの力になりたいと思ったからには、微力でも自分にできることはなんでもやろうと心に誓う。
気合いを入れて両頬を叩き、ロゼッタはベッドから起き上がる。するとタイミングを計ったかのように、規則正しいノック音が部屋に響いた。
「失礼します、ロゼッタ嬢」
現れたのはフェイだった。夜に彼が訪れたことはなく、ロゼッタは首を傾げる。
「こんな時間に珍しいですね。もしや、至急の仕事でもありましたか?」
「侍女の仕事のことではありません。こちらを受け取って欲しくて」
差し出されたのは、上流階級の人間が好みそうな黒い革張りの分厚い本だ。ロゼッタは本を受け取ると、金糸で縫われたタイトルを読む。
「えっと『実例から学ぶ悪女育成本 初心者編』って……なんですか、この物騒なタイトルは!」
「私の愛読書です」
「……愛読書」
ロゼッタの背に、ぞわりと恐怖の波が押し寄せる。
人の趣味をとやかく言うつもりはないが、フェイという人間の知りたくもない深みを覗いてしまったような心地だ。思わず真顔になってしまうのも致し方ないだろう。
「ロゼッタ嬢には明日までにこの本を読んでいただき、立派な悪女になってもらいます」
フェイはロゼッタの態度など気にした様子もなく、淡々と告げる。
「あ、悪女って……どうしていきなり……」
「おや、乗り気ではないのですか?」
「乗り気になる女性は、大変希少な方だと思いますが……」
「ですが、是が非でもロゼッタ嬢には悪女になってもらいます。崇高な目的のために」
拳を握り、熱の篭もった視線をフェイはロゼッタに向けた。
「……崇高な目的、ですか。わたしが悪女になることにどんな関係性が?」
話が頭の中で繋がらない。頭の良い人ならばフェイの考えが理解できるのだろうか。もしもそうならば、ロゼッタは今のままの頭の出来でいい気がしてきた。
「諜報活動と言えば分かりやすいでしょうか?」
「わ、わたしにそんな大それたことをやれというのですか!?」
専門的な訓練も受けていない、ずぶの素人であるロゼッタに諜報活動なんてできる訳がない。
「ええ。城下街には検問を敷いてあり、アーネスト様の敵を侵入させないように、警戒態勢を敷いています。ですが、グラエム様は検問に見つからず、難なくカルヴァード公爵家まで侵入なされた」
「侵入経路は分からないのですか?」
「……残念ながら、分かっておりません。あの様子ですと、明日もグラエム様がカルヴァード家に来る可能性が高いです」
「諜報活動というと……物語に出てくるスパイのようなものですよね? わたしは格闘術も使えませんし、盗聴もしたことがありませんよ」
動揺するロゼッタを見て、フェイはにっこりと作り物めいた笑みを浮かべる。
「安心してください。囮役です。私とアーネスト様がここを離れている間、グラエム様を引きつけていて欲しいのです。敵の居所が分かっているのも好都合ですね。侵入経路を聞き出せれば尚良いです。おそらく、アーネスト様も知らないカルヴァード公爵家の秘密通路でしょうが」
「だから……その……あっ、ああああ、悪女になってグラエム様を聞き出せと言うのですか!? 無理です!」
今日の偽婚約者役でもボロが出ないように気を張っていっぱいいっぱいだったのに、悪女要素をプラスするなんて、完全にロゼッタの許容量を色々と超えている。
正直に言って、今までやってきた仕事の中で一番やりたくない。これなら、城中のトイレを顔が映るまで綺麗に磨けと命令された方がマシだ。
「あの方は好奇心旺盛ですから。悪女になったロゼッタ様を見れば、面白がって絡んでくるに違いありません」
「いえ、普通は気味悪がって相手にしないのではないですか?」
「そこはあなたが気にすることではありません。さあ、読んでください」
フェイは笑顔でページを開くように薦めてくる。ロゼッタは引きつった笑みを浮かべた。
「いや……その……レシピ本以外の本は苦手で……」
最後の抵抗をするが、やはりフェイには意味はなかった。ひょいっとロゼッタから本を取り上げると、パラパラとページを開く。
「それならば、私が読み聞かせてあげましょう」
「え、遠慮させていただきます!」
逃げようとするロゼッタだったが、それよりも速くフェイが扉の前に椅子を置き、腰掛ける。そしてロゼッタをベッドの縁に座るように指さした。……残念ながらここは三階で窓から飛び降りることはできない。
「そうおっしゃらずに。これでもティナが小さい時に絵本を読み聞かせていたので、自信があります。さあ、悪女になりましょう」
「嫌ですぅぅううう」
涙混じりで拒絶をするが、フェイは笑みを崩さない。
こうして、ロゼッタの眠れない夜が始まった。
☆
翌日。睡眠不足になりながらも、ロゼッタはティナと共にグラエムを迎え撃つための準備をしていた。
フェイの悪女講義は明け方まで続き、結局「初級編も碌に覚えられないとは、ロゼッタ嬢は才能がないですね。失望しました」という、悲しいのか嬉ばしいのか分からない評価をいただいた。それでも悪女役を降りることは許されず、ロゼッタの胃はキリキリと痛む。
「……悪女……いいえ、フェイさんが恐ろしいわ」
「もしかしてロゼッタ、フェイの本を読み聞かせられたの?」
ティナは器用にロゼッタに深い菫色のドレスを着せながら問いかけた。
ロゼッタは背筋を振るわせると、鳥肌が立った両腕を擦る。
「ええ。ある意味、忘れられない夜になったわ。もう、トラウマものよ!」
「分かるよー。親同士の仲が良かった関係で、あたしもフェイの読み聞かせの被害に遭ってるんだよね。嫌だって言っても止めないし、親にはフェイのおかげで馬鹿娘が賢くなったって喜ばれるし。こっちは童話のお姫様よりも、魔女や意地悪な姉ばっかり印象に残って……今じゃ本を見ると寒気がするんだよ」
「……わたしより重傷ね」
夢見る幼子に対してなんて鬼畜すぎだ。ロゼッタは心の底からティナに同情した。
「あの臨場感と叫び声、それに怨念と恐怖の込められた悪女の演技……フェイは職業を間違えたね。舞台役者になればいいのに。絶対に見に行かないけど」
「同感だわ。悪女になりきってグラエム様の注意を引きつけろと言われるし、フェイさんは無茶苦茶よ」
「フェイからロゼッタの服装は可愛い系じゃなくて、キツいお嬢様系にして欲しいって言われたのは、そういうことだったんだ」
ティナは白粉やアイシャドウのパレットを取り出すと、ロゼッタの顔に丁寧な動作で塗りつけていく。昨日とは違って目元は青色のアイシャドウでキリリと引き締め、口紅は暗めのボルドーだ。仕上がりに一抹の不安を感じなら、ロゼッタは目を瞑る。
「そうなのよ。一夜漬けで悪女なんて演じきれるかしら。でも仕事だから失敗はできないし……」
「ロゼッタは律儀だよねー。そういうところが、フェイみたいな真面目系いじめっ子に遊ばれる原因だよ」
「……わたし、遊ばれているの?」
怪訝な顔で問いかけると、ティナはケラケラと笑い出す。
「遊ばれてる、遊ばれてるー! でも安心して。ロゼッタの性格はフェイの好みとは違うから、ねちっこくはされないと思うし」
「ちなみにフェイさんの好みの女性って?」
恐る恐るロゼッタはティナに訪ねた。
「気が強くて矜持の高い陰湿な人かな。それをいじめるのが大好きなんだよー。歴代のフェイの恋人もそんな感じ。それで耐えきれなくなった彼女にフェイが振られるのがいつもの流れだよ。ぷぷっ、馬鹿な奴」
「……それが都会の普通の恋愛なの?」
「そうだよー」
ティナは何度も頷く。
ロゼッタは化粧されていることも忘れて飛び上がった。
「え、嘘でしょう!? そんな恐ろしいこと……」
「うん、嘘だよー」
「ちょっと、ティナ!」
ロゼッタが詰め寄ると、ティナがお腹を抱えて笑い出した。
「あはは、怒らない怒らない。話を戻すとね。あの御方の注意を引きつけるという点では、フェイの策は有益だと思うよー」
「わたしが悪女になる作戦が?」
失礼ながら、有益な作戦には思えない。
ロゼッタは訝しげな視線を向けるが、ティナは自信満々に頷く。
「そうそう。悪女になれば、確実にあの御方の関心を引けるね」
「ごめんなさい。やっぱり理解できないわ」
「うーん。簡単に言うと『茶番』かな?」
「ねえ、本当はわたしのことをからかって遊んでいるじゃないの?」
「ええー、被害妄想だよー」
ティナは不服だと言わんばかりに頬を膨らませる。
ロゼッタは頭が痛くなった。そして床の木目を見ながら乾いた笑いを漏らす。
「……わたしには無理よぉ。もう家に帰らせて……」
カルヴァード公爵家に来て初めて、人前でロゼッタは弱音を吐いた。




