プロローグ
とある王国の辺境の端の端にある、山に囲まれた小さな領地。端的に言うとド田舎のそこは、地味で目立たず王国貴族の八割に名前すら覚えてもらえていないレイン男爵家が治めていた。
特産は派手さのない木材と染め物だけ。領民はのんびりとした気風で、犯罪は少なく平和そのもの。レイン男爵家も当主夫妻と年頃の二人娘が、貧乏ながら慎ましく生活していた。
しかし、そんなありふれているが尊い日々は、とある一通の手紙によってぶち壊される。
「な、なななんですってぇぇええ!?」
レイン男爵家次女のロゼッタは、驚愕の叫びを屋敷中に響かせた。
ロゼッタはふんわりとしたチェリーレッドの髪を持つ、十七歳の笑顔が可愛らしい少女だ。だが今は髪を振り乱し、怒りでギリギリと歯を噛みしめながら、食い入るように豪奢な装飾の施された手紙を見ていた。
「……許せないわ、カルヴァード公爵め。一発ぶん殴っても気が済まない!」
「まあ、ロゼッタ。いかに品性下劣で、王殺しを狙っている野心家と評判の公爵からの手紙だからと言って、ぶん殴るとかは言っては駄目だわ。腐っても筆頭貴族様なんですから」
長女のアリシアは、穏やかな口調と表情で言った。
アリシアはしなやかなハニーブロンドを持った淑女で、儚く妖精のように美しい容姿をしている。数年前までは竪琴の名手として、社交界でもそこそこ知られていたので、それがきっかけで目を付けられたに違いない。
「どうして落ち着いていられるのです、お姉様。この手紙には……病弱なお姉様を今すぐ侍女として寄越せと書いてあるのですよ!」
レイン領では見かけることのない豪奢な馬車が突然現れたかと思えば、若い執事にこの失礼極まりない手紙が届けられたのだ。
送り主は末端貴族のロゼッタでも知っている、カルヴァード公爵だった。彼の権力は王家に並び立つほどに強大で、裏社会を牛耳っていると聞く。王太子の側近として働きながらも、虎視眈々と王座を狙っているとの噂だ。
また女癖も悪く、数多の女性を弄び、飽きたら容赦なく捨てる鬼畜。領民からは多額の税を徴収し、屋敷で働いている使用人たちが少しでも気に入らないことをすれば殺してしまうのだという。そのため、カルヴァード公爵家は今、使用人不足で悩んでいるのだとか。自業自得だ。
「確かに酷い内容よねぇ。……身一つで我が屋敷に来られよ。決して悪いようにはしない。任せるのは屋敷を管理する仕事だ。これは純然たる契約である。契約を果たすことができれば、身の安全は保証しよう。明日、迎えを寄越す。良き返事を期待する……どう聞いても脅しねぇ」
アリシアは憂い顔で小さく溜め息を吐く。ロゼッタはますますカルヴァード公爵へ怒りを募らせた。
「お姉様は病弱で、侍女の仕事なんて不可能です。死んでしまいます! 弱小貴族だから、侍女にして弄んでもいいと思っているのかしら。最低だわ!」
貧乏な男爵家や子爵家の令嬢が、行儀見習いとして公爵家の侍女になることは珍しいことではない。だがアリシアは昔から身体が弱く、数年前から厄介な病に悩まされてきた。
軽い風邪のような症状が長く続く病で、人にうつる心配はないが特効薬がべらぼうに高い。しかも数ヶ月間毎日飲み続けなくてはならないのだ。レイン男爵家の財政ではとても買える代物ではないが、幸いなことに五年ほど静養すればほぼ完治すると言われている。
それなのに、カルヴァード公爵はアリシアを侍女に寄越せと言っているのだ。
「……お父様とお母様はどうしているのです?」
「ほら、ロゼッタ。お父様なら、部屋の隅で死んでいるわ」
アリシアの指差す場所を見れば、父が真っ青な顔で白目を剥き気絶している。母は静々と涙を流しながら、父の亡骸?を抱きしめていた。
「何を呆けているのですか、お父様。さあ、レイン男爵の責務を果たしてくださいませ!」
ロゼッタはズカズカと父に近づくと胸倉を掴み、容赦なく両頬を叩く。すると父はビクッと一度痙攣して、勢いよくカッと目を見開いた。
「か、可愛いアリシアは渡しませんぞ、執事殿!」
「……手紙を受け取った時に言わなくて良かったのか、いっそ言った方が良かったのか……」
ロゼッタは小さく呟くと、父を立ち上がらせた。
「お父様、カルヴァード公爵からの招集命令をいかがするおつもりですか?」
「ロ、ロゼッタ……いきなり核心を突くのはやめてくれ。残念ながら父様の心は繊細なガラスでできているんだ。悲しくて死んじゃう」
「死にません」
ロゼッタが睨むと、父は肩を縮こまらせた。
「良いですか、お父様。権力も財力も名声もない、弱小貴族の中の弱小貴族であるレイン男爵家の危機なのです! 悠長に寝ている暇などありません。早急に対策を取
とらねば。我が家は、カルヴァード公爵の指先で気まぐれにプチッといつ潰されるか分からない状況なのですよ。お家断絶されたくなかったら、シャキッとしてください!」
「……そこまで言うのかい、ロゼッタ……」
「言います。事実ですから」
ロゼッタがそう言うと、アリシアは頬に手を当てて困った顔をする。
「あらあら、ロゼッタ。大丈夫よ。わたくしがカルヴァード公爵の侍女になれば解決する話だもの」
「お姉様をカルヴァード公爵へ行かせるなんて論外です!」
「そうね。アリシアは身体が弱いのだから、侍女なんて無理よ。断りましょう?」
ロゼッタと母がアリシアを止めようとするが、彼女は儚げに微笑み首を横に振った。
「刺し違える覚悟を持って行くから大丈夫ですわ。弱小貴族の中の弱小貴族、レイン男爵家の意地を見せつけてやるの。ウサギだって、狼の喉笛を咬み千切れ――ゴフォッゴフォッ」
アリシアは突然咳き込むと、バランスを崩して倒れそうになる。ロゼッタは慌ててそれを受け止めた。
「皆を安心させるために、強気なことを言うなんて……優しすぎます、お姉様」
ロゼッタはアリシアを抱きしめると、決意に満ちた瞳で父を見上げる。
「……わたしが、お姉様の代わりにカルヴァード公爵へ行きます」
「そんな……それではロゼッタが殺されてしまうかもしれないわ!」
母は涙混じりに叫んだ。ロゼッタは安心させるように、気丈な笑みを見せる。
「大丈夫です、お母様。弱小とはいえ、わたしは貴族の娘です。そう悪い待遇にはしないと思います。病弱なお姉様よりは、不興を買うことも少ないでしょう。それに、公爵家からの命令に男爵家如きが逆らうことはできません」
本当はとても怖い。恐ろしい噂の絶えないカルヴァード公爵の元でやっていける自信などなかった。
しかし、ロゼッタはこれでも貴族の娘だ。家を、領民を、家族を守るためならば、自分のできる精一杯のことをしたいと思う。
「……ロゼッタに任せよう。私たちの娘とは思えないほどのしっかり者だ。カルヴァード公爵にだって負けないさ」
「……そうね。ロゼッタは手のかからない良い子だったものね」
沈痛な面持ちで両親は言った。
ふたりも分かっているのだ。カルヴァード公爵からレイン男爵家を守るには、娘の内どちらかを犠牲にしなくてはならないことを……。
「ごめんね、ロゼッタ。わたくしが不甲斐ないばかりに……」
アリシアは朦朧とする意識の中で、涙を零す。ロゼッタは強く彼女の手を取ると、自分を鼓舞するように宣言する。
「いいえ、お姉様。これは誇るべき任務です。レイン男爵家はわたしが守ります……!」
翌日、ロゼッタはカルヴァード公爵家の上等な馬車に、貴族令嬢とは思えない着古されたドレスで乗り込むのだった。




