no.70
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ふっと視線を上げると窓の外がオレンジ色に染まっていた。
綺麗な夕焼けなんだろうな……。
うっ……うっ……。
涙が一気に溢れてきた。
池上にキスされた。
目に入った制服の袖も泥だらけだった。
水道の近くで地面が濡れていたのが思い出される。
汚い……汚い……私、汚い……。
くちびるをごしごし手の甲でやりながら涙が制服のスカートにどんどん落ちる。
「アリス。おい、アリス! 帰ってるのか、アリス」
「ほら、鍵かかってるでしょ。中にいるのは確かなのよ、宮川君。でもいくら呼んでも返事がなくて」
「アリス、いるんだろ、鍵開けてくれ」
いや、いやだよ。
開けられない。
先輩に会いたくない。
私、汚れてるのにこんなんで会いたくない。
「どうしたんだ。アリス。なんで今日来なかったんだよ。探したんだぞ、アリス」
「アリスちゃん、お願い、ここ開けてちょうだい」
「アリス、頼む。開けてくれ」
だめなんだよ、先輩。
開けられない。
開けられない……。
「池上になにかされたのか……」
いやっ、その名前、聞きたくない。
「アリス……なぁ、アリス。池上の奴、なにかしたのか……」
「いやぁ~~~~!!」
その名前聞きたくないよ、いやだよ。
「アリスっ!! っきしょー!!」
「宮川君、一体どういうことなの、ね、アリスちゃんに何があったの」
「俺、部屋行ってますから、お母さんだけで話してもらえませんか。もしかしたら俺じゃもうだめなのかもしれない……」
「宮川君!!」
隣でドアが勢いよく締る音がして、ビクッとした。
「アリスちゃん、お願い、鍵をあけてちょうだい。ママだけよ、ねぇ、アリスちゃん」
しばらくママの声が聞こえた。
でも体動かないんだよ。
震えて頭痛くて、動けないんだよぉ。
静かになって、ベッドに寄りかかって座ったまま、視線は宙を泳いでいた。
涙は頬を流れ落ち、いくつもいくつも流れ落ち、途切れない。
「……アリス……私よ、沙耶……」
小さな声がドアの向こうから聞こえた。
「俺はあいつを守れなかったのかもしれないんだ。今は俺じゃ何もしてやれないのかもしれない……。頼む、沙耶。アリスを助けてくれ、たの、む……」
ドアの向こう側から聞こえてくる、搾り出すような低い宮川の声が胸に突き刺さる。
私は先輩を苦しめてる。
こんな私を好きだって大切にしてくれた先輩を。
自分の浅はかな行動で壊しちゃったんだ。
すべてをなくしちゃったんだ。
「お兄ちゃんはあっち行ってて。もしそうならアリス、今お兄ちゃんに会えないよ。私、ちゃんと話すから。アリスとちゃんと話すから」
静かな間があって、ドアをノックする音がした。
「アリス、沙耶だよ。開けて。沙耶だけだから。一人でいちゃだめだよ。私、一緒にいてあげるから」
沙耶……沙耶……。
錘をつけたような重い体を動かした。
私は鍵を開けるとすぐにドアから離れてベッドに座った。
「鍵、しめて……沙耶……」
「う、うん」
鍵がかかる音……。
「うっ、うっ……」
「アリス」
沙耶が抱き着いてきた。
「どうしたの。額から血が出てるよ。制服も……ねぇ、アリス、まさか池上君に何かされたんじゃないよね?」
「うぇ、うわ~~~~ぁ~~ん」
「アリス、ねぇ、アリス落ち着いて、よく聞いて。池上君なの?」
沙耶の肩に置いた頭をコクンコクンとした。
「なにされたの? あいつ、アリスに何、したの……」
涙の向こうの沙耶が泣いているのがわかった。
ごめんね、沙耶。
沙耶まで泣かせてる。
「ね、ちゃんと話して。黙ってたらいけないんだよ。ちゃんと話して。もし誰にも聞かれたくなければ誰にも話さないよ。だけど私にはちゃんと話して。アリス」
「……キスされて……うっ……」
「アリス……」
「逃げようとしたんだよ。でもいきなり抱きつかれて、全然離れないんだよ。離れないんだよぉ~っ」
「うん、うん」
沙耶は私の髪をなでた。
「ね、アリス、聞きにくいけど聞かなくちゃ。キスされて他には? 他には何かされたの?」
私は思いっきり頭を振った。
「キスされただけ? 他に何かされてない?」
「……うん……」
「逃げようとして……倒れて……それで……」
「何かされたの?」
また思いっきり頭を振った。
くらくらする。
「キスだけなんだね、キスだけ……」
「……うん……」
と答えながら体がくらっとなってそのまま意識は遠のいていった。
沙耶の叫び声が遠くで聞こえていた。




