no.152
私は寝室を後にした。
お茶の用意を持って来てくれた赤城と階段の途中で会う。
「あら、お帰りになるんですか?」
「すみません。先生、お疲れのようだし、ゆっくり休んでもらったほうがいいと思って」
「そうですか。……あの……」
なにか言いづらそうに赤城は上目遣いで私を見つめた。
「な、なにか?」
「あの……お話があるんですけど、お時間よろしいでしょうか?」
な、なんだろう……。
「こちらへ」
私が返事をする間もなく赤城は私をキッチンに連れてきた。
「すみません、少しこちらでお待ちいただけますか?」
「は、はい」
勧められた椅子に座って待つこと5分。
赤城が戻ってきた。
「旦那様にはアリス様がお帰りになったと申してきました。こんなところで申し訳ありませんが、ここでしたら旦那様もいらっしゃらないから」
「はぁ~」
で、なんの話なのだろう。
大道寺に聞かれてはまずい話なんだろうけれど、一体……。
「アリス様は旦那様をどう思っていらっしゃるんでしょうか?」
「はい?」
「お嫌いですか、旦那様のこと」
「き、嫌いだなんて、そんなこと、ない、ですけど……」
なんと答えていいのか、少し迷った。
嫌いではない。
嫌いだったら、こうして会いに来たりはしない。
でも「嫌いじゃない」イコール「好き」ととられても困るかなぁと。
思っていた通り、どうも赤城はしっかり勘違いしたようだった。
ぱっと明るい顔をした。
「それでは、モデルのお話もOKされたことですし、差し出がましいんですが、こちらに引っ越していらしていただけませんか?」
「え、え~~~~~?!」
「そ、そんな大きな声を出されないで!」
「あっ、すみません」
慌てて口を押さえたけれど、出してしまった声はなんとも……。
それにしてもいきなりな話だ。
「ダメですか?」
「あの、あのですね……。引っ越してって言われても。私は先生を……」
愛しているとかじゃないと言いたいんだけれど、どうもそれって直接的に言葉にするのは気が引けるものなのだ。
「もう私一人では荷が重過ぎるんです。私ももう60を超えまして、体も衰えてまいりましたし、主人も寝たきりに近い状態で」
それは大変だと思えた。
「あっ、主人のことは、旦那様には内緒にしてくださいませね。旦那様の重荷にはなりたくありませんので」
「はぁ」
「こんな状態で、旦那様のお世話をするのも……。アリス様なら、旦那様も心を許しておいでですし、お任せできると思いまして。お願いできないでしょうか?」
赤城は身を乗り出して、懇願する。
「でも、私なんか、何もできませんし。お世話なんて……」
自分のことさえ満足にできずに基樹に頼りっぱなしの私が、人の世話をできるわけがない。
「全部お願いするということではありません。アリス様がまだ学生さんでいらっしゃるのも分かっておりますから、少しずつでいいのです。旦那様の側にいてくださって、できることからで」
私が返事を考えあぐねていると、赤城は話を続けた。
「私には、娘がおりましたが、10歳の時に亡くなりました。それからは旦那様のお世話をすることで、私もなんとかやってこれました。ですが、この年で、無理もききません。旦那様も年頃ですし、そろそろいいお相手が現れないかと思っていたところなんです」
いいお相手って……。
困ったなぁ。
「そんなところにアリス様が現れたのです。旦那様がこんな風に気をお許しになるお相手は今までにおりませんでした。ですから、アリス様になら、お願いできるんじゃないかと思いまして」
「あの、でも……」
こういう時、どうしたらいいのだろう。
「あっ、お返事はすぐじゃなくて構いません。考えていただけないでしょうか。よいお返事をいただけることを願ってます」
「はぁ……。あの、それじゃ、私、この辺で失礼します」
いたたまれずに私は席を立ち、大道寺家を後にした。
困ったことになった。
まさか、赤城からこんな話が持ち出されるとは思っていなかった。
確かに年齢から言ったら、そろそろ引退したい気持ちもわかる。
ご主人の状態もあるらしいし。
だからと言って、私がというわけにはいかない。
頭を抱えながら、家に帰った。
しんと静まり返った家の中は、落ち着かなかった。
気を紛らわしたいけど、どうしたらいいものか。
RRRRR……。
電話の音で心臓が飛び出しそうなくらい驚いた。
「はい」
『おー、不良娘。今日はいたか。昼飯食ったか?』
基樹だった。
そういえば、今朝出かける前に、昼食も作ったから、食べるように言われたんだった。
「えっとまだ……」
『一人だからって、寂しいなんて言ってんじゃねーぞ。ちゃんと食べろ』
「わかってるよ」
『よし。今日は夜、何が食べたい?』
「う~ん、パスタ」
『それじゃ、帰りに買い物して帰るから』
こうして私は基樹に頼り切りだ。
こんな私が大道寺の世話をできるわけがない。
赤城には悪いが、ことを意外にないことは明白だった。