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「炎暑」終わらない夏

作者: シグマ君

 三人の僧の声を揃えた読経が続く。

 これは諷経とはよばないのだろうなーー俺は対岸にいる者のように、低く、そして抑揚の無い声を聞くとはなしに聴いていた。


 あえて後ろの方に座ろうと時間間際に寺に着いた。遺族のそばに行きたくなかったからだが、通夜に集まった人の数は驚くほど少ない。


 高校を卒業してから10年が経ち、俺たちはいつの間にか20代を終えようとしている。時が流れるのが早い。それはまるでこの地方の夏のようにーー毎年7月の終わり頃になると、太鼓の響きを連れた夏祭りが脳裏に躍り、カレンダーに目を向ける回数が増すのだが、気が付くと蝉の声を探し、そして秋の匂いを嗅いだ。

 待つが祭りーーどこで覚えた台詞だったろう。それにしても夏祭りは何故これほど意識の深くに刻み込まれるのか。



 あと僅かで俺も30になる。7月になると今でも蘇る夏祭りは、無邪気に綿飴を持って走り回り、黒く大きな出目金を狙った頃の夏祭りだったはずが、いつの間にか変わっていた、あの年の夏祭りに。


 亀山珠紀ーー彼女は浴衣を着ていたはずだ。だが、何色でどんな柄だったのかを思い出すことは無い。ただ、水の入ったゴム製のヨーヨーの、ぼん……ぼん……ぼん……という一種独特でリズミカルな音が珠紀の横顔とともに思い浮かべる、過ぎてしまってから気付く夏祭りだ。


 人が溢れる祭りの夜は不思議な輝きを放ち、時間さえ流れるのを止める街を創り出す。それは、あえて人が意図的に作ったものでは無く、漂う空気が創り出すとでも言えば良いのか、人外のものが妖しく笑い、ゆらゆらと集まる大人も子供も、そして男と女を酔わせてしまう刻。

 俺は頭にお面を乗せて歩き、心が躍った。


 二人で何を観て、何を喋り何を笑い合ったのか、細かな事などまるで覚えてはいないが、無数の人とすれ違いながらも、互いの体温が伝わるほどに寄り添い、俺は石鹸の匂いを嗅いだ記憶が残っているが、あれは遠くに祭りが聞こえる誰もいない河川敷でのことだったかもしれない。


 まだあの時は元気だった。



 隣の見ず知らずの老婆から焼香が廻され我に返った。

 目を瞑り手を合わせると、河川敷で緊張した顔で身体を硬くしていた珠紀の姿が目に浮かぶ。彼女が手にヨーヨーをずっと持っていたのを不思議と覚えている。


 淡々とした読経が続く中、指で抹香を摘まみ香炉に落としてはみたが、やはり現実味が湧かない。俺の中では亀山珠紀は10年以上も前のままだ。

 手元の教本に視線を向けると色即是空の文字。たしか、後に如来となったシャカ族の王子が辿り着いた真理ーー実態はない。



 珠紀も俺も高校1年生だった。

 あの年の夏はいつもの夏より長く、そして雨が少なかった、そう記憶している。

 夏祭りが終わってからも秋はまだ来なかった暑い日に、珠紀の部屋で聞いた風鈴の音が今も聞こえる気がする。



 4月ーー

 高校の入学式が終わり、クラスはD組だった。

 初めて逢った奴が大半を占めるクラス、女子も男子も元の中学の顔見知りが固まる休み時間などは、もの凄い喧騒がどの教室からも溢れた。


 入学式の翌週、昼休みに突然教室に現れた数人の三年生。新入生への教育ーー上級生への挨拶の仕方等々ーーが伝統的にあって、毎年この時期に行なわれる恒例行事らしいが、一年生は男子も女子も震え上がった。


 一応は進学校だが不合格となる者が少ない、いわばストライクゾーンが随分と広いせいで生徒の偏差値に大きな幅がある。そのためか三年生の中にも極端な優等生がいたかと思えば、卒業式にヤクザがスカウトに来そうな輩もいる、ごった煮の学校だった。


 背が180ちかくあって、肩幅も広く筋肉質な俺は、目が悪いせいで目付きも悪い。当然のように上級生に目を付けられ、いつでも返り討ちにしてやろうと全身から異様なオーラを絶えず発散していた。その甲斐あってーー相手が3人までなら勝てるとか、相手が大勢いても逃げては戦いまた逃げるを繰り返せば勝てるはずだとか、妙な自信に溢れた生意気な俺に手を出し渋っている上級生と、どんどん対立を深めていった。


 毎日のようにクラスに現れる3年生と堂々と睨み合うものだから、1年生の誰もが巻き添えになるのを恐れ、俺を避けた。そんな、クラスで孤立していた俺だった。


 昼休み、周りが騒がしく昼寝から目を覚ますと、窓際で一人ポツンといる女の子に目が留まった。他の女子とは線を引いたように自ら進んで交わろうとはせず、窓から見える中庭に目を向けてはいるが、何かを積極的に観ている風でもない横顔に影を感じた。

 おやっと、無遠慮に見続けていると視線を覚えたのだろう振り返った彼女の白い歯と、目が無くなる笑顔が印象的だった。



 読経が続く中、教本に視線を落としたままで、あの年のことを思い出していたが、見覚えのある顔ーー元同級生の誰かが通夜に来てはいないだろうかと、俺は顔を上げた。




「珠紀、死んだらしいよ」


 そう電話で告げられたのは一昨日のことだ。

 何年もの間、逢うことも無く、電話もメールも一切のやり取りが無かった、高校を卒業してから本州の大学に行った奈緒からの突然の電話に、どう返事をしたのか覚えていない。


「死因、分からないけど……どうなんだろう……」



 どうやら、奈緒は地元に戻って来ているようだ。

 従業員30人程度の会社の社長を父親に持つ奈緒は、あくせく働くもせずに優雅な独身生活をおくっているらしく、妙にそれが似合う。


 亀山珠紀を覚えている元同級生はあまりいない。だが、奈緒は俺と同様に珠紀を覚える数少ない一人だ。父親に似たのか姉御肌で、自分から群れたりはしないが周りが寄ってくるせいか不思議な情報通が奈緒だった。


「ローカル新聞のお悔やみ欄にすら載ってないのって……遺族がそれを断固として望まないって意思表示しなきゃ載るもんだよ」


 亀山珠紀は何処で、そして何故死んだのだろうかという疑問に対して、言葉に出さない奈緒だが、俺もそれを口にするのは憚られた。


「何処に住んでたのか知らないけど、こっちでお葬式あげるんだから、きっと独身だったんだろうね」



 クラスの中で初めて亀山珠紀の存在に気が付き、そして視線が絡んだ後、どちらの方から話しかけたのだったろうと、今更、初めて考えたが向こうだったような気がする。



 5月ーー

 4月の終わりに何故だか1年生だけの学力テストを毎年実施するのがこの高校の慣わしで、科目毎、上位30までが廊下に貼り出された。


 俺の成績は極端にバランスが悪く、理科系は全くもって小学生レベルなのに、不思議と数学だけはずば抜けて良く、貼り出された一覧の中で数学のが一番左端に俺の名前があって、二番目の奴とも随分と差があった。

 俺も驚いたが、中学の頃の俺を知らない奴らは、「あのとんでもない不良が数学で一番?」とカンニングを疑ったらしいが、数学の教師は違った。


「天才だ。中学では絶対に教えない関数を使わなければ解けない問題を……お前は凄い、まさにΣだシグマ」と、気でも狂ったかのようにシグマを連呼したせいで、それから俺は誰からもシグマと呼ばれ、本名は忘れ去られた。


 相変わらず3年生と敵対していた俺だが、兄貴が柔道の黒帯だった奈緒はまるで上級生など意に介さず、俺が学校で喋る相手はそんな奈緒と、クラスでは珠紀だけとなっていた。



 6月ーー

 宿泊学習がちかくなった頃、珠紀と初めて二人で帰った。

 てっきり別の街から通っているのだろうと思い込んでいた俺だが、予想に反して珠紀が地元に住んでいるのを知り、自然と彼女の家庭環境を本人の口から聞くこととなった。


 道南の聞いたことの無い街で生まれ育った珠紀は一人っ子らしく、中学3年まではその街で両親と暮らしていたと聞いた俺が、父親の転勤かと尋ねると、「違う……」と言ったきり立ち止まり押し黙ってしまった。

 きっと言い難い事情でもあるのだろうとは感じたが、どう言葉を繋いだり、別の話題に変える器用さも無い俺は、下を向いた珠紀を振り返って見ていたのだが、急に顔を上げて睨むように珠紀が言った台詞に、直ぐには意味が分からなかった。


「お父さんと私を捨てて男と逃げて死んだ」


 母親の事を言っているのだと分かるのに、ちょっとの間が空いた。

 後から思えば、お母さんとは絶対に呼びたくないのだろう、珠紀の口から語られる過去の出来事は主語の抜けた分かり難いものだった。


 珍しくもない共働きの両親。ただ、母親が一人の妻子持ちの男と駆け落ちのように逃げ、事故なのか心中なのか分からない死に方をしたのだという。

 今の世の中、心中するほど一途な男女などいるのだろうかと、何となく違和感を覚えはしたが、死んだ二人のどちらの家庭も遺体を引き取るのを拒み、年老いた互いの親が弔ったと聞いた。

 しかし、事件性があると司法解剖に廻されてもおかしくないように思えると、それを言うのはさすがに躊躇われた。


 同じ北海道で生まれ育った俺ですら聞いた事の無い街での出来事。おそらく、そうとうな田舎だったのだろう。であれば町中が死んだ二人に唾を吐きかける環境は想像できるし、警察も同じだったろう。あえて遺族の傷口に塩を塗り込む捜査を職務だろうが行なわなかったとしても不思議はない。


 父親はその街に住んでいられなかったのだ。全てを忘れ、全てをやり直したかったのだろう。それまで勤めていた会社を辞めてまで、全く縁もゆかりも無いこの街での新たな生活を選んでいた。

 同情した元の会社の役員の紹介で、今の仕事についたという。ただ、高校受験も済み、進学する高校も決まっていた珠紀は、もう一度、転入試験なるテストを受けたらしいが、何を書き込んだのかも覚えていないという。


 妙に重い話題をポツリポツリと語るのを耳にしながら、ある住宅街の端に着き、「ここが私の家」と珠紀が指を差した方に目を向けた。2階建で西に向いた家だった。そして別れ際に彼女が言った。


「お父さん、もう再婚するの」



 宿泊学習に珠紀は来なかった。

 そこが何て名前の施設だったか覚えていないが、その施設の体育館で妙にはしゃぐ同級生たちを尻目にぼうっと突っ立っていた。


「シグマ、あんた、あの……なんだかって子と付き合ってんの?」


 そう話しかけてきたのは奈緒だ。


 入学式から三ヶ月が過ぎようとしていた頃に行われた宿泊学習。どの同級生もクラスに馴染み、もう、元の中学校同士で固まったりはしていない。そんな中で俺と珠紀の二人だけが浮いた存在だ。

 3年生と絶えず殴り合う寸前だった俺には誰も近寄ろうとしないのは分かるが、相変わらず珠紀はバリアを張ったように俺意外との接触を拒み一人だったせいで、奈緒も珠紀の名字すら知らない。


 突然に聞かれた問いに、付き合っていると言えばそうかもしれないと改めて思い、言い淀んでいると奈緒が続けた。


「ーーあの子、いい感じしないよ。私、けっこう感じるんだよね」


 意味が分からない俺の素振りに気が付いたのか、奈緒が更に説明をするが余計にストンとこない。


 入学当初はそうでもなかったと奈緒は言う。

 勘の鋭い奈緒は別のクラスながらも一人浮いている珠紀に気付き、そして、どこか遠くの街から来たのだろうと、何とはなしに気になっていたらしい。

 それがいつ頃からかハッキリしないが、厭な何かを漂わせるのを感じるようになり、今でもそうだと続けた。


「あの子、いっつも一人でしょ。それって周りが避けちゃってんだよね、無意識に。誰だってあるでしょ、何だか分かんないけど、そこに近づいたら妙に気持ち悪くなるのって。あの子、それ持ってるよ」


 更に奈緒はこうも言っていた。


「シグマってさ〜、強烈に強いよ。それ、自覚無いの? ふ〜ん……そうなんだ。いろんなものが寄ってくるんだろうけどさ、肝心な部分には入れないんだよね。あの毎日来る3年生いるでしょ。あいつらも同じ。バッカみたいだよね、笑っちゃう」



 7月ーー

 珠紀との距離はますます近くなった。

 会話をすればいたって明るい普通の女の子が珠紀だが、一人窓際で外を眺める姿には影がある。

 昼休みに俺がトイレから戻り騒がしい教室に入ると、珠紀が片肘をついて座る机の周りだけがポッカリと空いて別の空間に感じた。クラスメイトの誰かが陰湿な虐めを仕掛けてる風でもない。いったいどういう事なんだろう。

 教室に戻った俺に気が付き、目を無くす笑顔を向ける珠紀だが、俺は相も変わらず全身から数え切れない棘を出したっきりで、それを収めるのを忘れてしまったハリネズミ。

 そんな俺の顔を覗き込んで珠紀が言う。


「どんどん精悍な顔になってきてるね」



 通夜に来ていた子供の声で現実に戻った。まだ読経は続いている。


 通夜の会場となった一室は畳の部屋で皆が正座をする中、俺は胡座をかいて何度も足を組み替えるが、それが出来るほどに人の少ない通夜。

 祭壇には、きっと珠紀の写真があるのだろうが、椅子に座りながら経を読む住職なのだろう、その背中で見ることができない。

 いつ頃の写真を使ったのだろう。10数年も前の俺が知る珠紀であるはずがない。セーラー服を着た少女が、どんな女になったのか知りたいようで、それでいて見るのが怖い気がする。


 通夜の人数が少ないせいか、廻していた焼香が住職の横に戻っていったが読経は続いた。




 夏休みが後一週間ほどで始まろうとしていた。

 その日も二人で帰り、珠紀を家の前まで送る途中だった。


「先週から一緒に住んでんだ。籍も入れたみたい」


 唐突にそう切り出した珠紀。

 そう言えば、父親が再婚すると言っていたのを思い出したが、あれ以来、その話題に触れる事もなかったせいで俺は忘れていた。


 まだ30代の若い女だと珠紀が言い、新しいお母さんとは言わない。俺にはそんな経験などないが、「女」との言葉に思わず珠紀の顔を見ると、視線を落としたままで顔を上げようとはしなかった。


 いつも通り、彼女の家の前に着いて俺が帰ろうとした時だ。


「ーーキスして」


 少しのあいだ視線が絡み、ことさら自然に両肩を掴んで唇を合わせていった。

 さほど背の高くない珠紀に合わせた口付けは僅かな時間で終え、ゆっくりと離れていった俺に再び珠紀が口を開いた。


「もっと……もっと大人のキス」


 そう自分から言い出したくせに抱きしめると身体を硬くしていた。

 少し開いた珠紀の唇をから入れた舌を絡ませる長い口付けは、ドライヤーをかける時にする空気が焦げるような味がした。


 もっと続けていたかった。

 珠紀の柔らかな唇と舌を感じていたかった。

 だけど俺の方から離れた。


 ーー視線を感じる


 振り返ったが誰もいない午後4時頃の細い道。

 驚いたように俺を見上げる珠紀の頭越しに、彼女の家の窓が見えた。


 ーー誰かいるのか


 聞くと父親は、当然、仕事に出ている時間帯で、新しい母親もフルタイムの仕事を持って、午後6時前に帰って来ることなどないと言い、「私も初めてで緊張したけど……緊張した?」と、目を無くすように笑う珠紀は、気のせいだろうと付け加えた。



 読経が終わった。

 振り返った住職が説教を始めるが、やはり珠紀の事をあまり知らないのだろう、仏の教えについてを語り始めるが、故人の人柄に触れることをしない。



 8月ーー

 あの日、夜の8時を過ぎていた。

 人の熱気が溢れる街の一角。大勢の人がーー子供も大人も女も男も、なにかに酔ったように、いや、憑かれたような顔で、年寄りまでもが子供にかえって全部を忘れ、「今」の空気に身を任せる夏祭りの夜。


 お面を頭に乗せた俺の隣には、浴衣の珠紀が身体を擦り付けるように腕を絡ませ、軒を連ねる夜店の前の人だかりを縫って目的も無く歩いた。


 幾度も珠紀の身体が正面から俺に触れる。胸やおなかの柔らかさが浴衣の上からも伝わり、彼女の鼓動が俺の脈と重なった。


 輪投げーー離れた台の上に並ぶ安物の玩具めがけて輪を投げ込む。シンバルを持った猿や太鼓を叩く熊が、僕を狙えと誘っていた。

 珠紀はピンク色の象を狙っているようだ。身を乗り出して何度も輪を投げる仕草を繰り返す。後ろから抱くように身体を支える俺の手が珠紀の女を押さえた。

 一瞬、ビクっと身体を硬くさせた珠紀だったが、そのままの姿勢で小さく笑う。暖かだった。


 ヨーヨーの音をたてながら歩き、いつの間にか人混みを離れ、どちらかが口にするわけでもなく河川敷に向う。

 遠くの祭りを聞きながら見た、月明かりに輝く珠紀の身体は綺麗だった。




 俺と珠紀の付き合いは僅かな期間で終わる。

 いつから付き合い始めたのかハッキリとしない。あの夏祭りの夜からだと計算すると、数日で終えてしまった関係だが、それはきっと違う。


 説教が終わり立ち上がった住職の気配で顔を上げると、祭壇に飾られた黒い額縁の写真に目がいった。


 ーーあれはセーラー服か


 目のあまり良くない俺には、写っているだろう珠紀の顔はぼやけていたが、着ている服はセーラー服のように見えた。どうしてとの思いと、やっぱりかとの思いが複雑に交差する。




 残り僅かとなった夏休みを惜しむように、俺と珠紀の二人は、毎日、何度も肌を合わせた。

 雨の少ない暑い夏で、風鈴の音がする珠紀の部屋で抱き合う二人に風が心地よかった。


 さほど大きくもない胸から顔を離し、視線を下にずらしてゆくと、あばらが浮いていた。痩せたのかと尋ねると、少し困った顔で、上に乗った俺の首に腕を廻した。



 今日で夏休みも終える午前中、珠紀を抱きながら部屋にあった鏡台に何気なく視線が向いた途端、息を飲んだ。

 部屋の扉が僅かに開いているのが鏡に映っている。そしてその扉の隙間に人がいた。

 こっちを見ているらしいスカートを穿いた女の下半身。ストッキングを履いていない足から、青い血管が何本も浮き出ているのが妙に生々しく見え、俺は動けずにいた。


 振り返ろうとしたが、俺が気が付いたのを知ったように、その鏡がゆっくりと動き角度を変えてゆく。

 鏡は、少しずつ、少しずつ、上を向くように動き、それは扉の隙間から見える女の姿を俺に見せたがっていた。


 白いブラウスを着た胸の大きな女。

 まだ動くのを止めない鏡。

 首が見えた。

 幾本もの筋が走った、重いものを持ち上げたように力んだ首。

 顎も見えたが、その顎から水滴が糸を引いて滴り落ち、それが涎だと判った時にはカサカサに乾いてひび割れた唇を大きく開いて剥き出しにされた尖った歯が憎悪をぶつけてきた。


 珠紀の身体から跳ねるように飛び降り振り返ったが、確かに扉は僅かに開いている。

 驚いた珠紀も上半身を起こし、俺の視線の向こうに身体を捻って顔を向けた。


「あれ? 風かな? 確か閉めたはず」


 俺は裸のまま僅かに開いた扉の前に立ちノブを掴んで一呼吸おいた。振り向くと、赤みを帯びた肌を汗で光らせる珠紀が、斜めに座って怯えた顔で俺を見ていた。


 一気に押し開いた。


 誰もいない。しかし、薄っすらと生臭い臭いを俺は嗅いだ。


 その日はいつになく暑い日だった。

 午後の気温は既に30度を越し、まだまだ下がる気配を見せようとはしない。

 涼みに行った喫茶店で、俺と珠紀が座ったボックスの前に、突然、奈緒が立った。偶然、友人二人と来ていたらしい。

 距離をとって座ろうとしない奈緒が唐突に言う。


「あなた、私のこと知ってるよね」


 驚いて口を開こうとしない珠紀だが、僅かに頷いた。


「悪いこと言わないから、今日、今すぐにここに行って」


 そう言って珠紀に手渡された紙切れ。見ると手帳を乱暴に引きちぎったのだろう、酷く歪な小さい紙に殴り書きのような文字が躍っていた。


「場所わかる? 高校の向こうのお寺」


 何も言おうとせず、じっと手渡された手帳の切れ端に視線を落とす珠紀。

 いきなりどういう事だと俺が問い質すと、奈緒は、先ず珠紀にここで言っていいのかを聞いてから説明を始めた。


「急にこんなこと言われてもあまり驚いてないようだね。心当たりあるんでしょ。夏休みに入ってから、あなた見かけたの今が初めてだけど、変なのが後ろにいる。前からイヤ〜な感じしてたけど、そんなのいなかった。どう見てもヤバイよ。悪いけどそばに寄りたくない。シグマ、あんた強いって言うか鈍過ぎ。あのお寺の住職ならなんとかしてくれるはず。今直ぐ行って」




 通夜の席での説教を終えた住職が遺族の前を通り廊下へ出ようとしていた。

 静かに、音をたてないすり足で進む住職の足が止まったのに気が付いた。そして最前列に座る遺族の誰かを見て驚きの表情を隠さなかった。

 ほんの僅かな一瞬の出来事。誰もが見逃してしまったとしても不思議ではないが、偶然だがしっかりと俺には見えた。その後、不自然なほど足早に襖の向こうに消えて行った様子も。




 夏休みが明けると、珠紀は一度も学校に姿を見せることをしない。何度か学校の帰りに珠紀の家のチャイムを鳴らしたが返事は無かった。

 一週間が過ぎた頃、担任が告げた。


「亀山珠紀は家庭の事情でこの学校を去ることになったーー」


 その後も担任の話は続いたが俺の耳には届かなかった。



 長かった暑い夏が終わり、風が吹くたびに秋の匂いを運び、空が高くなった頃、一通の差出人の無い封書が届いた。



 どこから書けば良いのか分かりませ。

 あの夏休みの最後の日に、喫茶店で会った同級生に言われた通りに、学校の向こうにあるお寺に行きました。

 最初に出て来たのは、きっと奥さんだと思いますが、私は、ただ、助けて下さいお願いですと繰り返しました。

 この手紙を読んでいるあなたは、きっと驚かれたと思いますが、私は助けを求めてました。

 あなたは自分では気付いていないようですがとても強い人。それは初めてあなたを見かけた入学式の時に分かりました。でも、あなたとのお付き合いは、本当にあなたが好きだったから。

 今でも好きです。大好き。

 喫茶店で会ったあの同級生も、あなたのことが好きですよ。あなたを見る目が違ってました。だから私は一度も喋ったことの無い別のクラスのあの人のことを知っていました。あなたと付き合う私に嫉妬して、いつも私を睨んでましたから。でも、お寺に今直ぐに行きなさいと言ってくれて、本当に感謝してます。あの人が背中を押してくれなかったら、私、どうなっていたか分かりません。


 原因はあの女だと分かってました。父が再婚したあの女。

 あなたも見たんですよね、そこにいるはずの無いあの女を。私も何度も見ました。誰もいない家の中で、目の端に映った事が何度もあります。手だったり足だったり、顔が見えた事は無かったけど、あの女が現れてからですし、服は間違いなくあの女が着てた服です。

 そして、あの夏祭りの夜、あなたと一つになってから、夢に顔が出てくるようになりました。あの女の顔が目の前に現れるの。とても大きな顔で。

 凄く怖い。急に息が出来なくなって苦しいの。さっきは夢だって書きましたが、現実なのかもしれなくて。


 あの女は祭りの日、夜中過ぎに帰って来た私を起きて待ってました。何も言わなかったけど分かったんだと思います。私があなたと一線を越したって。


 家に一人でいると絶えず感じるようにもなりました。酷い時には起きているのに金縛りみたいに動けなくなった事もあります。

 ただ、あなたが私の部屋にいる時だけは入って来れないみたいでした。

 でも、誤解しないでください。あなたを巻き込むつもりなんてなかったし、守って欲しくて抱かれたんじゃない。

 私、初めてだった。大好きな人で良かった。


 お寺の奥さんは玄関までお坊さんを連れて来てくれました。そうしたら、私が何かを言う前に、凄く慌てて、早く本堂に入りなさいって。

 私が中に入ると玄関で一生懸命お経を唱えてました。


 本堂で今までのことを全部言いました。あなたのことも。

 そうしたら、そうか、そうか、危なかったなあって。


 お坊さんが言うには、世の中には、稀に毒を持って生まれる人がいるそうです。その人は当たり前にその毒を撒き散らして周りを黒く染めながら生きているらしくて、そんな人の側にいたら、おかしくされるって言ってました。

 お坊さんは、私の後ろに、私のことを心底憎んでいる女の姿が見えたようです。そう言えば、喫茶店で会ったあの同級生にも見えたみたいですね。お坊さんは、見えたその女は鬼だと言ってました。


 私はあの女のことは最初っから好きじゃありませんが意地悪なんかしてません。そんなに憎まれる理由が分からなくて、それをお坊さんに聞くと、毒を持った人間というのは絶えず憎しみの感情を垂れ流していて、理由なんかないそうです。嫉み、怨み、憎しみしかなくて、とにかく、それをいつも誰かに投げつけていて、どうしようもない人間で、だから鬼なんだそうです。


 お坊さんは霊なら落とせるけど、私の後ろに見える女は生きてる、そして強いって。

 今直ぐに逃げなさい、鬼の側から出来るだけ遠くに行きなさい。そうでなければ殺されるって言われました。


 みんな笑うかもしれないけど、私はお坊さんの言葉を信じます。

 あの日は、お寺に泊めてもらいました。

 朝、これを持って行きなさいって、お坊さんが一玉一玉念を込めた数珠と一緒にお金を20万円もくれました。私、絶対にいつか返しますって借りました。


 今は、母方の親戚の家にいます。ごめんなさい、もう戻りません、探さないで。でも、あなたの事は一生忘れません。愛してます。




 葬儀委員長がマイクを使って挨拶を始めたが、故人の略歴を紹介すること無く、ただ、これからは近親者のみとするので順次お引き取りをとの案内だけだった。

 横に立った珠紀の父親なのか、酷く精気のない、老人としか見えない男が深々と頭を下げる姿が痛々しくもあったが、寒気を覚えた。


 俺もこのまま帰ろうかーー

 だが、親族が、帰る人たちを見送りに玄関に行くのが見え、俺は祭壇の前に立った。

 黒い額縁の中には、俺の知ったセーラー服を着た珠紀が、目を無くすような顔で微笑んでいた。

 俺たちが卒業した高校の女子の制服。僅か三ヶ月しか高校には通っていなかった珠紀。卒業アルバムには彼女の写真も名前も無い。

 あの後、どこに住んだのかは封書の消印で何と無くだが分かっていた。別の高校に行ったのだろうか。

 目を瞑ると風鈴の音が聞え涙が溢れた。


 寺の玄関に行き、来てくれた人に頭を下げて見送る親族の側には寄らないように靴を履いた。


 痛いほどの視線が背中に突き刺さる。


 振り向きたくはなかった。

 だが俺は振り向いていた。


 あいつが俺をじっと見ている。


 夏休みの最後の日、珠紀の部屋で最後とも知らずに抱き合った暑い日の午前中、鏡の中のあいつが、今、僅かな距離の向こうで俺から目を逸らさない。


 やっぱりだ。あいつは俺を知っている。

 俺もあの時、あいつの顔を見た。


 目を吊り上げ、唸り声が聞こえるほどに歯を剥き出したその顔は、酷く干からびて幾本もの皺が深く刻まれたどす黒いもので、とても人間のそれでは無かった。

 随分と人らしい表情の今のあいつは、それでもあの時に見たあいつだ。

 ゆっくりと俺に頭を下げたが、片時も視線を外そうとしない。


 そしてあいつの口が、ゆっくりと、ことさらゆっくりと、俺に意思を伝えるためだけに動いた。



 つ……ぎ……は……お……ま……え……だ……




「炎暑」終わらない夏ーーー『完』

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