第4話『鬼ごっこ、開始』
俺は今まで当たり前のようにその町で暮らしていた。
代わり映えしない日常を怠惰に費やし、たまに友人達に混じって馬鹿をやらかす。そんな毎日を過ごしていた。
俺はそんな当たり前の日々がずっと続くと思っていたんだ。
だけど違った。
退屈でありながらもどこか居心地がいいその場所は、俺が思っている程不変なものじゃなかった。そして俺が思っていた以上に大切な場所だったんだ。
――人は失って初めてそれが大切なものだったと気付く。
それは誰が言った言葉なのか分からないが、確かにその通りだと思う。俺は気付くのが遅すぎた。
未知の世界に憧れを抱き、現状を楽しもうと歩んだ道先にあったものは、意外なことに郷愁という想いだった。
あくまで想うだけで、わざわざ帰ろうとは思わないんだけどな。
とにかく決めたんだ。
俺が当たり前に感じていたものを取り戻そうって。
こんな世界でも“普通”を大切にしようって。
心からそう思ったんだ。まる。
***
昔の夢……久々に見たな。
心地いい温かみに包まれて、俺はまどろみの中から覚醒した。と言ってもまだ目は開けてない。あくまで「起きた」と実感してるだけだ。そして今の俺は視覚が断たれているから他の感覚が鋭敏になっている。
どうやら俺は今、柔らかい何かに抱きしめられているらしい。しかもやけに心が落ち着く良い匂いが俺の鼻腔を擽ってくる。そして俺の聴覚は静かな呼吸音を的確に捉えた。
もしやこれは……!
恐る恐る目を開けた俺が見たものは、予想通り隣で眠っているリーゼの姿だった。
この部屋にはきちんとベッドが二つ付いてあるし、俺はリーゼが使用しているベッドに入った覚えは無い。つまり、リーゼの方が俺のベッドに潜り込んだってことだ。
普通なら美少女が隣で寝ているという状況は男として喜ぶべきなんだろうが、相手がリーゼだとそうにもいかない。
夜中に目が覚めて甘えに来たり、寝ぼけて自分のベッドを間違えたというなら俺も笑って受け入れられる。むしろ歓迎してやる。しかし「変態が意図的に侵入してきた」という状況を考えたらぞわっと背筋が寒くなる。
俺はそっとリーゼの腕から逃れると、自分の体に何処か異常がないかを入念に調べた。
顔を舐められた形跡はない。服も脱がされてない。リーゼもちゃんと服を着ている。縛られてもいない。……良かった。俺は今日も無事だ。
リーゼは今も隣で静かな吐息を吐いている。俺は彼女を起こさないように、できるだけ音を立てずにベッドから抜け出した。
「……ん?」
窓から差し込む朝日を浴びながら背伸びをしていた俺は、机の上に作られた手紙の山を見つけて固まった。十通や二十通なんてものじゃない。下手をすると百は越えてるんじゃないか?
こんな馬鹿みたいに手紙を送り付けてくる奴は俺の知っている限り一人しかいない。
俺は死地に向かう武士のような気構えで、机の上に積み上げられた中から手紙を一通だけ取り出した。
『こんばんは。リーシャです。こんな夜中にもう一度手紙を送ること申し訳なく思っています。それでも聞かせてください。無視しないでください。
ねえもう眠ってしまったんですか? どうしてお返事くださらないんですか? ねえなんで? まさかとは思いますけど、あの女とイチャイチャしてるわけじゃないですよね。それとさっきから言ってますけどすぐに村に帰ってきてください。会いたい。あの女を置き去りにして一人で帰ってきてください。会いたい。これは村長の娘としての命令であり、逆らった場合には――』
俺は手に取った手紙の内容をそこまで読んで、ゆっくりと目を離した。ついでに手紙を折り畳んでそこに書かれた呪詛が見えないようにしておく。
一応確認したが残りの手紙の差出人も、最初に読んだ手紙と同じく「リーシャ」となっていた。
俺は村長宛に手紙を書いたつもりだったんだが、やっぱり返事を送ってきたのはあいつだったか。それにしても村長からの返事が一枚もないのはちょっと薄情じゃねーの? どうせリーシャのせいなんだろうけど。
なにせ送ってきたのが尋常じゃない数だ。どうせあいつが村長の分の『転移紙』まで使い尽くしたに違いない。まいったなぁ。村長から村の様子を聞きたかったのに。
何処かに村の様子について書かれた手紙が混じってるかもしれないと、俺は意を決してもう一通だけ手紙を読んでみることにした。
『拓也さんが村を出てもう五日目ですよ? いつまで私を待たせるつもりですか? 早く会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい――』
早々に諦めた。無理。これ以上は怖くて読めない。読みたくない。
俺は机の上で山積みになった手紙を全て処分することにした。だってここに置いとくだけで呪われそうなんだもの。
「むにゃ……マスター……? そんなに慌ててどったの?」
「な、なんでもねえでござんす」
リーゼが目を覚ましたのはちょうど俺が手紙を捨て終えた頃だった。
***
部屋を出た俺達は廊下でばったり会ったタウさんに従って朝食を取ることになった。昨日は気付かなかったが、この宿「竜の卵」には食堂があるらしい。しかも料理を作っているのはあのババアだという。なんてこった。
タウさんに連れて来られた食堂はそんなに大きなものではなく、厨房も食卓から見える位置にある。厨房にいたババアと目が合った。めっちゃ睨まれたんですけど……。
この食堂にはメニューがない。タウさんに聞いたらそれは全部ババアが献立を決めているから、という答えが返ってきた。なるほど。それは納得できる。
「ほらよ。今日の朝飯だ。食っていきな。残したらしばくからね!」
食卓で待っていると脅迫付きでババアが朝食を持ってきてくれた。どうして普通に渡してくれないのかね? 食欲無くすよ? 死にたくないから食べますけど!
「「いただきます」」
俺とリーゼは食べる前に両手を合わせてそう唱えた。
「それって何なのかな?」
「食べる前の挨拶みたいなもんだよ。自分の血肉になってくれる食材と食事を作ってくれた人に感謝の意を表してるんだ」
当たり前のことかもしれないが、異世界と元いた世界では似たような文化や全く異なる習慣が存在している。そしてこの世界では「いただきます」と「ごちそうさま」の概念がない。だからこうして初めて一緒に食事をする奴に質問されることは何度もあった。おかげで最初の頃に比べて俺の説明スキルは上がっているように思える。
「ふーん。よく分かんないけど何かいい感じだね!」
だからそんな風に笑顔で言われると傷付くんだよこんちくしょう!
俺は目の前に用意されている、肉を挟んだパンを乱暴に口の中に頬張った。
悔しいことにババアの作った朝食は絶品だった。見た目はハンバーガーによく似ているがパンは柔らかく、ふんわりと口の中で甘さが広がるし、元の世界で食べるものよりもずっと美味しい。え? 肉? ああ、うん。普通に美味いよ。
「やるな、ババア」
誰にも聞こえないようにぼそっと小声で褒め称えたら、厨房の方からおたまが高速で飛んで来た。なんとか避けることに成功したが、壁に突き刺さったおたまを見ると全く安堵できない。この威力、もし当たってたら死んでたぞ……。
俺はもうババアがいる場所で、ババアという言葉を口に出さないと心に決めた。
***
食事を終えた俺とリーゼは早速パリーニュの中を堪能しようと外をぶらついていた。
本当にぶらつくだけで、何かをしようとか、何処かに行こうとか考えてるわけじゃない。「とりあえず観光しようぜ!」ぐらいにしか考えてなかった俺達の予定は空白である。
リーゼなんか「マスターの行く所なら何処でも構いません。あ、だとしても行き先は花街以外じゃないと駄目ですよ!?」とか言う始末だもんな。花街は後でこっそり顔を覗かせるとして、何処に行けば良いのやら。
「観光するのを楽しみにしてたけどさ、目的がないと案外退屈だよな。人多くて酔いそうだし」
「そうですか? 私はマスターと一緒にいるだけで楽しいですよ?」
「お、今のは普通の女の子っぽくて良かったぞ」
「……まるで私が普通じゃないみたいに聞こえるんですが」
拗ねたように頬を膨らませるリーゼは素直に可愛いと思えるが、自覚して無いことに溜息が出そうだ。普通の人間は興奮する時に「ぐへへ」なんて笑わないと思うぞ?
会話に夢中で足を止めていたせいだろう。俺達は正面から走ってくる小柄な少女に気付かずにぶつかってしまった。
「きゃんっ」
「おっと」
少女は俺にぶつかった反動でバランスを崩し、尻餅をついてしまった。ああ、俺は子供になんてことを……!
俺は彼女に軽く回復魔法を掛けて手を差し出した。
「すまん。前を見てなかった俺が悪い……立てるか?」
「えへへ……大丈夫。ありがとう、お兄ちゃん!」
「お兄ちゃん!?」
少女の何気ない一言に俺は動揺してしまう。やばい。今のは破壊力があり過ぎた。一気にシスコンに目覚めそう……俺に妹なんていないけど。
少女は笑顔でお礼を言った後、金髪のツインテールを軽く揺らして去っていった。
そんな彼女の背中を俺はじっと見つめ、深く溜息を吐いた。
隣を見るとリーゼの体からドス黒いオーラが立ち昇っていた。それに光の宿っていない藍色の瞳は暗くなりすぎて闇色に見える。
「マスター……。あの女は大切なものを奪っていきました」
「それは俺の心ですってか?」
「やっぱり!? あーあー! マスターのロリコン! って、そうじゃなくて!」
「分かってるよ。お前の平常心も奪っていったんだろ?」
「そうだけどそうじゃない! あの女……!」
俺もそろそろふざけるのは止めようか。流石にこれ以上離されると追いつけないかもしれない。速度的にはノープロブレムだが、地の利は向こうにあるからな。入り組んだ路地とか逃げられると厄介だ。
俺の腰は一段と軽い。それはやっぱり開けられたポーチの中から比較的重い物が消えたせいだろうな。例えば昨日受け取った報酬、とかな。
「はぁ……。リーシャや村長に都会は危険だから気をつけろって言われてたけど、まさか早速現れるなんてなぁ。やっぱアレか? 俺達の周りに田舎者の空気が漂ってたのか?」
「あいつ、マスターのお尻を触った! 許せねぇです! あれは私のものだ!」
「「舐めやがって」」
俺達はお互いに違うことを考えてたみたいだが、結論は不思議と合致した。
俺から金を奪ったスリを容赦なく叩きのめす為に田舎で鍛えた俊足が唸る。
大人を怒らせるとどんな目に遭うのか、その体に教えてやるぜ。
こうして朝っぱらから俺達と少女の鬼ごっこが始まった。