第3話『紅い月の夜』
タウさんに案内してもらった部屋はきちんと掃除が行き届いていて、なんと風呂まで付いていた。俺のいたバルジ村の宿だと風呂は別の場所にあって、しかも共有だったからちょっと感激。部屋も広いし、泊まる環境としてはかなり良い方なんじゃないだろうか。まあ二人部屋だから部屋が広いのは当たり前か。
…………。
…………二人部屋。
「ぐへへ……二人っきりの時間が楽しめそうですね」
「!?」
ぴったりと俺の背中に寄り添ったリーゼが息を荒げながらそんなことを仰る。
これは不味い。俺の身が危ない。泊まる環境として最悪じゃねーか。
「おりゃ!」
「乙女の劣情を舐めるな!」
「がはっ!?」
身の毛がよだつ悪寒を感じてリーゼに当て身を食らわせようとした俺だったが、リーゼの人間離れした反応速度で俺の手刀は止められた。そして鳩尾に掌底を叩きつけられて、俺はベッドの上に倒された。こいつ、興奮して戦闘力が上がってやがる!?
「はぁ……はぁ……ふへへへ。あの女に取られる前に……マスターに唾を付けてやる!」
「――だらっしゃああああああああああああああああああ!」
俺の上に跨ったリーゼは焦点が合ってない目で俺を見下ろし、一気に尖らせた唇を俺に差し向けてきた。体を強く抑えられて逃げられない俺は、そんなリーゼの顔面に唯一の回避行動を行った。すなわち、頭突きである。
「ぐばぁあああああああああああああ!?」
互いに加速した顔と頭が衝突。その結果、リーゼは鼻血を噴き出しながらベッドから跳ね落ちた。よし、勝った!
「なんで、なんで私じゃ駄目なのぉ!」
リーゼは最後にそんなことを口にしながら気を失った。どうやらベッドから落ちた時に後頭部も強く打ち受けてしまったらしい。ついでにその衝撃で頭のネジが締まってくれると有り難いんだが。
俺はリーゼをベッドに寝かせた後、部屋の隅に置かれていた机を借りて手紙を書くことにした。ここに来る前に商業区で買っておいた『転移紙』を一枚取り出し、宛先に「バルジ村、スカーレット様」と書く。
この『転移紙』は普通の紙と違って、転移の魔法が込められている一種の魔法具だ。手紙を送りたい相手を思い浮かべながら宛先を書くと、その場所にこの『転移紙』が瞬時に届くようになっている。
魔法具と言っても値段は普通の紙とそれほど変わらず、雑貨店と名が付く所なら何処でも購入することが可能だ。
とりあえず俺は無事パリーニュに辿り着いたこと、仕事を終わらせたこと、しばらく観光していくことなどの近況報告を書いた。書き終えた紙を折り畳んで少量の魔力を流すと、『転移紙』は白く光り出して机の上から消えてなくなった。
これで村長の元に手紙が届いた筈だ。多分明日の朝になれば返事が来るだろう。
「……さて、リーゼが静かなうちに風呂入ってくるか」
***
冒険者ギルドパリーニュ支部。そこの看板受付嬢として働いている女性、チェリア・ブラウンは一日の仕事を終えた後も残業をしていた。
「……はぁ。肩凝るなぁ」
チェリアは疲労困憊と言った状態で大きく溜息を吐いた。現在彼女が行っているのは今日ギルドを利用した冒険者の名簿チェックだ。これにより、どの冒険者が何の依頼を引き受け、達成したのかを把握する。同時に、冒険者が期限付きの依頼で虚偽の報告をするのを防ぐことが可能となる。
チェリアはその作業の中で、名簿に書かれたとある名前に視線を落とした。
――タクヤ・エンドウ。今日初めてこのギルドを利用した黒髪の冒険者の名前だ。初めてあの少年を見た時は正直驚いた。勿論黒髪黒目というこの辺りじゃ珍しい姿をしていたこともあるが、それ以上に隙の無い佇まいに驚かされたのだ。
「まだ十七歳で冒険者ランクBっていうのは普通じゃないわよね」
タクヤから受け取った冒険者カードを見て、驚愕から確信へ変わったことをチェリアはぼんやりと思い出す。
この世界で冒険者ランクB以上の人間は『第一級冒険者』と呼ばれていて、その実力は極めて高い。その中でもランクSの人間は一つの災害と同一視されている。そんな彼らは冒険者として長年の経験と数多くの実践を積んで実力を身に付けているのだ。
だがこのタクヤという少年はどうだろう。冒険者カードにはカードを発行した日、すなわち持ち主が冒険者になった日が記されているのだが、タクヤのカードに書かれていたその日はなんと一年前だったのだ。
たった一年。その短い期間の中で、少年は『第一級冒険者』と名乗ることを許されたのだ。
「それにあんな依頼を受けてくるんだから、少なくともバルジ村のギルドから得ている信頼は厚いってことだよね」
受付で見せられた依頼書と渡された袋を思い出して、チェリアは一人で納得するように何度も頷いた。
将来有望な冒険者を把握しておくことはギルド職員として大事なことだ。そう思ってチェリアはタクヤの名前を赤い丸で囲う。ついでに小さく「銀髪少女」と書き加えておいた。
残念ながら少年と一緒に行動してるらしい少女の名前は分からないが、あの少年の相棒だというのなら彼女の実力もそれなりに高い筈だ。その存在だけでも把握しておいた方がいいだろう。
冒険者ギルドは世界に奉仕活動をもたらすことを理念としているが、それとは異なるもう一つの使命がある。それは戦力を充実させることだ。
この世界には“魔族”という凶悪な力を持った種族がいる。彼らは古来より人類に対して何度も牙を剥き、この世界に傷跡を残してきた。中には友好的な魔族もいるらしいが、基本的に彼らは人類の敵である。だからこそ冒険者ギルドは実力のある冒険者達を集め、彼らを“勇者候補”として支援しているのだ。
しかし、候補はあくまで候補であって、勇者そのものに足り得ない。本物の勇者となれるのは『聖剣』という神の力を持った意思ある剣に選ばれた者だけ。
そこでチェリアはふと思う。もしも“魔王”が復活した時、“勇者”が現れなければこの世界はどうなってしまうのだろうか、と。
「……ふぅ。私が考えるようなことじゃないわよね」
思考の海に沈みかけたチェリアは頭を振って雑念を払い、なんとか目の前の仕事に集中した。
しかし窓から差し込んできた紅い光によってチェリアの意識は夜空に向いた。
「あ」
夜空には爛々と瞬いている数多くの星達と、この都市を広く照らしている大きな月が浮かんでいた。ただし、月は普段の青白い光ではなく、禍々しい血のような紅い光を放っていた。
人はその月のことを禍月と呼んでいる。昔から不吉の象徴とされていて、あの紅い月が昇っている夜は必ず何か良くないことが起きるのだ。おまけにあの光は“魔族”の力を増幅する効果を持っている。故に禍月の夜は人類にとってあまり歓迎されていない。
「べ、別に怖くなんかないもん! 私だって夜のお出かけくらい、平気だもん!」
そしてベルチェは人一倍怖がりである為、禍月の夜は必ず自身を励ますのであった。彼女の手腕ならば仕事を放り出して、全速力で家に帰ることなど造作も無い。
そうして次の日になれば、上司から雷を落とされることになるのだ。
***
俺は風呂から上がった後、ベッドで気絶しているリーゼを揺り起こした。ついでに鼻の部分に付着していた血も拭いておく。
俺に起こされたリーゼは感激したように蒼い瞳を潤ませ、俺の首筋に顔を埋めた。そして何かに気付いたように顔を上げ、絶望したと言わんばかりの悲しそうな表情を作った。
「マスターから良い香りがすると思ったら、いつの間にお風呂に入ってたんですか!? 一緒に入れると思ってすっごく楽しみにしてたのに!」
「いや、それは不味いだろ」
「そんなことありません! 私の体は美味な筈です!」
「何の話してんだ。一旦落ち着け。落ち着いたら風呂入れ」
俺は強制的にリーゼを風呂場に押しやって、自分を落ち着かせる為に一息吐いた。
……良い匂いはお互い様だよ。正直ちょっと揺らいだわ。どうして女は汗を掻いてもそんなに臭わないんだろうか?
リーゼの体からは花のような甘い香りがしていた。例え相手が変態だと分かっていても、やはり女の子だと意識せざるを得ない。昔友人から「可愛いは正義」という言葉を聞いたことがあったけど、実際その通りだと思う。
本人の前では口が裂けても言えないがやっぱりリーゼは美人だ。しかも変態だということを除けばそれなりに性格も好みだったりする。ただ奴の変態性が全てを台無しにしているだけで。
「あはは……もう一年も経つんだよな。そりゃ好きになる部分も見つけられるか」
俺がこの世界でリーゼと出会って一年。その時間は長かったようでとても短かったように感じる。それはやっぱり、なんだかんだであいつと一緒にいる時間が楽しかったっていう証明なんだろうな。
そんなことを考えていると、机の上に三通の手紙が現れた。どうやらもうさっきの返事を送ってきたらしい。
俺はその手紙を開こうとして、ふと窓から差し込んだ紅い光に意識を奪われた。窓から見える夜の空には禍月が浮かんでいる。
「紅い月……か。綺麗だな」
この世界の人間は何故かあの紅い月を恐れ、嫌悪している節がある。人類の敵である“魔族”の力の源だからとか、魔王の呪いで紅く光るとか色々な理由があるけれど、どれも俺には理解し難いものだ。
俺がこの世界の人間じゃないから……分からないだけなのかな? だけど俺は純粋にあの紅い月が好きだし、何か運命のようなものを感じている。
そういえば俺がこの世界に落ちてきた時も、空に浮かんでいた月は紅く光っていた。もしかしたらあの月には俺達の知らない何かがあるのかもしれない。
「マスター……お風呂上がってきたよー」
「何だお前、のぼせたのか? ふらふらじゃんか」
禍月を見上げていた俺に間延びした声を掛けてきたのはリーゼだ。
寝巻きに着替えて戻ってきたリーゼは白い肌がほんのり赤く染まっていて、濡れた銀色の髪をきらきらと輝かせていた。その姿は幻想的なまでに美しく、近寄りがたい神聖さを感じさせる。
「うー。マスターは何見てるんですかー? ……その手に持っているのは何?」
しかし、リーゼは目敏く俺の手に握られたままだった手紙を見つけて、光を宿していない濁った瞳を向けてくる。やめろ。そんな目で俺を見るな。
俺にとっては禍月よりも今のリーゼの方がよっぽど恐ろしい。
「ほ、ほら。あいつから早速返事が来たんだよ」
「捨てて! そんなもの捨てて! 読んだらきっとマスターの目が穢れるから捨てて!」
「いやいや、捨ててもどうせ新しいのがすぐに来るって」
不味いな。リーゼはあいつのことを酷く毛嫌いしている。毛嫌いというより敵として認識しているって言った方が正しいかもしれないが。
リーゼは問答無用とばかりに俺から手紙を奪い取り、全てビリビリに破ってしまった。おまけに火の魔法で塵も残さず抹消してしまう。あーあ。まだ中身を読んでなかったのに。
不機嫌になったことを隠さないリーゼは頬を膨らませて俺より先にベッドに潜り込んだ。やれやれ。扱いに困る相棒だぜ。
「ん?」
俺もそろそろ寝ようと足を一歩踏み出した時、紙切れが一枚俺の足下に落ちているのを見つけた。運良くリーゼの魔の手から逃れた手紙の一部のようだ。そこにはこの世界に存在しない文字、日本語で宛先が書かれていた。
――『交易都市パリーニュ、遠藤拓也様』と。
あいつ……いつの間にここまで書けるようになってたんだ。ていうか、『転移紙』って日本語でも発動すんのかよ。
俺は久しぶりに懐かしい文字を見て素直に驚いた。同時に改めて自覚させられた。
俺はこの世界の冒険者タクヤではなく、この世界にとっての異世界人、遠藤拓也なんだってことを。