貴方の翼が堕ちても 二二
中流が初めて自分の身体に流れる血の秘密を知ったのは八歳の時――裕幸の七歳の誕生日だった。
大樹家に親族全員が集まり、その中央に座していた祖母の姿は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
北欧出身者の彼女は、だが流暢な日本語で遠い昔に眠りについた古の故郷・里界の昔話をして聞かせたのだ。
人間の手には決して掴むことの出来ない宇宙。
蒼き生命の惑星“地球”が属する太陽系を遥かに過ぎ去り、幾つもの銀河系を越えた更に向こう――“里界”はあった。
巨大な大陸がそのまま惑星から抉り取られて天に昇ったかのごとく下部に厚い土の層を抱えて浮遊する世界は、透明な膜状の球体に包まれることで大気を持ち、地球と同等の自然と命を育んでいた。
かつては地球人であった者達が集められたとも言われるその世界には四人の神が存在し、自然の力を己の能力とする戦士達が暮らしていた。
彼等はその能力と、この世界から遥か彼方に位置する地球とを一瞬で行き来する独特の技法を用い、地球に存在する“妖”という名の有害物から地球人を守ることを使命としていたのだ。
それが、あの日。
里界は滅びた。
妖は里界の中枢を破壊し、四人の神を三人までも討ち、戦士達を絶滅させた。
廃墟と、屍だけが連なるその地に残されたのは、たった二つの命だけ。
四人の神のなかでただ一人の女神・風の擁と、もとは敵方の将でありながらそちらを裏切り里界側に与した獣・黒天獅。
彼らは消滅間近の里界で契約を交わした。
このまま里界を消されてしまうわけにはいかない、里界を再生させて次こそ妖を抹消しなければ、遠からず地球が滅ぼされてしまう――それを回避するためにも里界再生の“鍵”を黒天獅に預け、来るべき時に復活の力を解放させる。
その代わり、黒天獅には神が望みのものを与えると。
「私はこの地に残り、出来る限り里界の命を永らえましょう。貴方達が帰るその日まで、私はここで待ち続けます」
「解った。…だが里界のための“鍵”…無償で俺が預かるとは思うまい」
「無論。貴方が“鍵”を引き受けてくれるのなら、望みのものを与えましょう」
「では、……おまえたちの“月”を望む」
「――白夜を…?」
「あれ以外は要らぬ」
「………」
突きつけられた望みに、女神はしばらく応えなかった。
だが、今はこの地の再生が最優先事項だと、脳裏に浮かぶ“里界の月”――“白夜”の面影を追い払った。
その望みに応えると返した女神に、黒天獅は「ならば」と里界の鍵を受け取った。
そうして里界は、黒天獅が“鍵”を解放するまでの永い時間を女神と共に待ち続けることとなったのだ。
常に里界神の傍に控えていた癒しの精霊。
“里界の月”と呼ばれた美しい存在。
その転生が大樹裕幸であることを、祖母は静かに語り聞かせた。
俄かには信じ難い――信じたくは無いそれを、だが彼らは受け入れないわけにはいかなかった。
男としての証も、女としての証も持たない無性の体。
全身に纏う精霊の気。
真実、裕幸は白夜の転生。
ならば裕幸こそが、里界神によって黒天獅に捧げられた里界復活の為の褒賞。
本人の意思など聞く余地も無く、近い将来、裕幸という存在が失われることを、そうして彼らは知ることとなったのだ。
あの日、祖母がそれら全ての真実を明かしたのは、恐らく自身の死期が近いことを知っていたからだと思う。
彼女は最後に言ったのだ。
裕幸を守ってあげて、と。
それから十年。
大樹家には裕幸=白夜を守るという他に、地球に転生した里界人を探し集めるという役目があり、彼らはこれを実行してきた。
文月佳一、篠宮元旦、彼らがそうして集った仲間。
また里界復活を妨害しようと、白夜を狙う妖も後を絶たず、能力を持つ者達の身は常に戦いの中にあった。
近頃は白夜自身の力が上がっている為か、裕幸を狙う妖も少なくなり、一見平穏な時間が流れているように見える。
だが、白夜の力が上がっているということは時が満ちている証。
遠からず、黒天獅は現れる。
里界復活のため、贄である白夜を手に入れるために。
その時、家族はどうするだろう。
裕幸は、誰にも知られず姿を消すのだろうか。
一度は全てを諦めて黒天獅を待つだけの日々を送っていたこともある。
時河竜騎と出逢い、彼のために再び人間の世界で過ごすことを決めたけれど、それでも黒天獅のものになるという未来を拒もうとはしない。
むしろ、竜騎への想いに苦しめば苦しむほど、裕幸はますます黒天獅の迎えを求める。
叶わぬ想いなら、いっそここで断ち切ってしまってほしいと。
裕幸が望まないのなら、家族全員、黒天獅を迎え撃つ――家族はそのつもりでも、裕幸はそれこそを望まない。
だから何をすることも出来ない。
いまだその気配すら感じさせない黒天獅の存在を、一族は様々な思いで待つしかないのだ……。
***
「…これが、俺達の秘密」
すべてを話すと約束し、二人きりで落ち着いて話したいと望んだ中流は、大樹家二階の、尋人が使っている部屋で話し始めた。
あれほどの血を流した体は今すぐにも休息を欲していたけれど、自分達の秘密を語る機会もいましかない。
もうこれ以上の時間、尋人に隠し続けることはしたくなかったのだ。
「…」
「ごめんな、…ずっと、隠したままで」
中流が言うと、尋人は左右に激しく首を振った。
違う。
謝って欲しいわけじゃない。
「…裕幸さん…いなくなっちゃうんですか……?」
「……」
「…っ…」
うんとも違うとも言えない中流は、泣き出しそうになる尋人を抱き締めた。
骨折していた腕は既に完治している。
裕明に丁寧に外されたギプスの後には以前と変わらない細い腕。
包帯で覆っていたのもわずか数日では日焼けに差が出るということもなかった。
「…」
裕幸によって癒された腕を撫で、中流は静かに告げる。
「ごめん…泣かせたいわけじゃないんだ…そんなつもり…なくて…」
けれど、それはどうしようもなくて。
「裕幸…俺達に、幸せになってくれ、って言うんだ…」
「――」
「俺と、尋人が、…二人で幸せになってくれたら嬉しいって、…笑う」
「…先輩…っ…」
尋人の脳裏に、いつかの裕幸の笑顔が思い出された。
優しい。
淋しい、綺麗な笑顔。
「裕幸さん…!」
それが、定められた未来に向かう存在の心からの祈り。
「……裕幸のために、笑ってくれな」
「っぅ…」
「あいつが笑顔でいられるように…俺達が幸せになるんだ…、だってさ、あいつ俺達のこと大好きだからさ…」
いつかの従姉の言葉。
みんなの想い。
「大切な相手の幸せ…大事だろ」
「っ…はい……」
「こんな…めちゃくちゃな一族だけど…これからも傍にいてくれるか…?」
こんな、哀しい未来を待つ自分達だけれど。
「俺と…生きてくれるか…?」
「先輩…っ…」
答える代わりに、抱き締める。
もう離さないという気持ちを込めて強く、強く。
人の幸せは人のため。
大切な、君のため。