貴方の翼が堕ちても 二一
里族の血が流れる。
獣の毛に落ちる。
――ォオ…ッ…ゥォオオオオオオッ…!
咆哮。
それは里界神から逃れようとするためであり。
里族の血を振り払おうとするためであり。
何より。
――…ナゼ ナゼ ナゼ …
――…孝雄 ナゼ オマエ ガ …
松本孝雄が自分を庇った。
実際には中流だけれど、魔物の目には、それは松本孝雄でしかなく、それが、獣の中核である谷俊介の内部を震撼させた。
「ぁ…あああっ…先輩……!」
尋人が叫ぶ。
そして、内部の塩木衛も。
「先輩………!」
―――………!
叫ぶ。
空気が張り詰める。
「中流さん!!」
裕幸が駆け寄った。
「なんてバカな真似を…!」
佳一が舌打ちしてそれに続く。
「中流さん! 中流さん!!」
「中流!」
裕明の声も重なる。
「いま治癒を…!」
裕幸の叫ぶような声を、だが中流の手が制した。
「…っ…ユキ…血…」
「中流さん!?」
「…俺、の…里族の…血……」
「……!」
掠れ、今にも消えてしまいそうな中流の言葉を、だが裕幸は正確にとらえた。
なんてことをと責める気持ちもある。
…本当は、もっと別の形で成したかった。
だがそれが中流の望みで、これを教えたのが裕幸自身である以上、それを実現させないわけにはいかなかった。
「……っ…先生、白夜の気を取ってください」
「え?」
「白夜の気を中流さんの血と混ぜて、先生の水で人型を…!」
「――まさか器かい?」
「そうです」
「……ほんとバカだね。器程度、指先からの一滴二滴で足りるものを…」
馬鹿だと言いながら、佳一は真剣な表情で即座に動いた。
水を呼び人型を成す。
「――っ」
獣に飛び散った中流の血、そこから都合の良い場所を選び、印を為す。
器となる人型に混ぜられた血。
獣に散った血。
こうなったら血で血を喚んでしまえと、多少強引なことだとは自覚しながら佳一は決めた。
「先輩…っ」
駆け寄り、泣きながら呼ぶ尋人に、中流は笑う。
「…も…ぜったい…傷つけさせないから…」
「ぇ…?」
「おまえ…俺が……守るから…」
「――」
守るという。
中流の血が。
「トウ ガン ビ シン シュ ケン キョウ ワン」
佳一の声が空間を渡る。
「松本! 塩木衛を思い出せ!!」
「!」
突如怒鳴られて、松本は混乱する。
だが拒否など出来るわけがない。
「おまえの幼馴染だ! ずっと抱いてきた体だ! 思い出せ!!」
切羽詰った佳一の、口調すらガラリと変わった物言いに動揺は隠せない。
だが目を瞑り、必死に思い出した。
少しクセのかかった茶の髪。
きつめの瞳。
薄い唇。
猫みたいに気まぐれな性格で、細いしなやかな四肢が、そのラインが、――綺麗で。
「シ フク ビ ソク コウ シュ シ!」
佳一の呪が終る。
――ゥォオオオオオオオオオ!!!!
直後、獣は叫ぶ。
叫ぶ。
―― ナゼ ……!
―― ナゼ 邪魔 ヲ ……!
―― ナゼ 孝雄 ……!
「! 谷…っ」
水の結界の中、松本は歯噛みした。
―― ナゼ 庇ウ …!
―― ナゼ 守ル …!
―― ナゼ 救ウ ………!!!!
「…っ」
谷俊介を核とする魔物の叫びは、魔物を庇って倒れた、中流が扮する松本孝雄に向けられたもの。
自分にじゃない。
自分は、…逃げただけだ。
―― ナゼ オマエ 俺 ……!
―― 衛 殺シ タ 俺 ……!
―― 衛 俺 殺 シタ ……!
「違う…っ…衛を死なせたのは俺だ……!」
何も解っていなかった、自分なんだ。
衛は言うんだ。
「仕方ない」って。
幼馴染だし、困ってるなら相手してやるって。
だけど気分ノッた時だけって約束で。
それ以外はいつも冷めた目で自分を見ていた。
…だから、ベッドの中でだけは熱い目をしているのが嬉しくて。
うかれて。
谷に言われて。
言われたって衛に言ったら。
別に構わないって。
誰が相手でも同じだって、衛が言ったから。
「…バカな俺がそれ信じたから……!」
素直じゃなかっただけ、なんて。
そんなこと知らなくて。
谷に憑いていた闇の魔物の余波だったとか、そんなの他人のせいにしているだけで。
もっと早く。
もっと素直に。
…それで傷ついたって。
自分の気持ち。
衛の気持ち、真っ直ぐに見ていれば良かったのに。
「…っ……」
たった一人、結界に守られて。
一人、安全な場所で。
松本は膝をつく。
悔しくて情けなくて、…怖くて。
―― 孝雄 ……!
「その“孝雄”の血に命じる」
佳一は言い放つ。
“孝雄”に扮した中流の血を媒介に。
「妖の名を教えろ」
――ゥォオオオオ……ッ…!
「…全員に教えろなんて言わない。君を守ろうとした塩木君に教えればいい」
――オオオオ…ッ…
―― 衛 …
―― 衛 ニ 妖ノ 名 …
「!」
不意に尋人の背筋を駆け抜けた震え。
決して不快ではなかったそれは、尋人の中の塩木衛が妖の名を受け取った証。
「…尋人君、この器に触れなさい」
「ぇ…」
先ほどの裕幸が言い、佳一の水が成した人型のそれ。
「塩木君、この水の器が君だ」
「――」
「塩木君、君の身体だ」
佳一に促されて、尋人の手が触れる。
――衛の意識が触れる。
――……… ………
妖の名。
―― ォオオオオオオ ……!
「ぁ…」
尋人は不可解な感覚に声を上げた。
それは塩木衛の魂が尋人から抜けたせい。
里族の、中流の血がそれを喚ぶ。
「!」
刹那、水の人型は、塩木衛の姿に。
獣は、谷俊介に。
「…申し訳ないが、俺達には闇の魔物の正しい消し方は判らない。せめて来世は人として生まれ変われるよう祈るよ」
―― ォオオオオ …
―― ゥォオオ …
―― ォオ …
佳一のチカラがそれを砕く。
ほんの一瞬。
たった一度の閃光。
後には、何も残らない。
そして新しく生まれ変わった、その存在は。
「……塩木君」
「…」
それの瞳が開く。
周りを見る。
「君は、もう人には戻れない。妖に堕ちてしまったからには、里族に仕えるか、抹消されるかのどちらかだ」
「…」
「俺はどちらでも構わないけれど、君を生かせという意見が多くてね。……どちらを選ぶかは君に任せるよ。…それくらいの判断は出来るだろう?」
「…」
佳一の言葉を、妖は反芻する。
生きる。
死ぬ。
妖の中の、塩木衛。
「……里族に仕えたら、あの男に復讐出来るか」
水の結界の中、崩れ落ちている松本を見て言う。
「復讐とは? 食い殺すというなら抹消だが?」
「違う。殴る」
「殴る?」
「殴る。人として。…衛が、そう言っている」
「ふぅん?」
塩木衛の姿をした妖に、佳一は「おもしろい」と思った。
「いいだろう。里族の駒になるなら幾らでも殴らせてあげるよ」
「…了解した」
「では、自分の主人も判るね?」
「あぁ」
問うと、妖は倒れている中流に近付き、膝を折った。
「血の主よ、我が名は流焔。私は貴方の式となる。貴方に仕え、貴方の命の影となる」
「…っ…そっか…」
「! 先輩…っ…」
このような惨い姿になって以降、ようやく聞けた中流の声に尋人は真っ青な顔を近づけた。
そんな尋人に、中流は笑いかける。
「流焔…、…っ…おまえに、守って欲しいのは、こいつだ…」
「! 先輩…?」
「何者からも守ってやってくれ…、絶対に…もう二度と傷つかないように…」
「了解した。主の命に従い、私はこの者を守る」
妖の誓いに、だが尋人の表情はみるみるうちに歪んでいった。
「そんな…そんなこと…イヤです…先輩…死んじゃうなんてイヤです…っ」
血だらけの中流に、尋人は繰り返した。
「死ぬなんてダメです…っ…そんなの…僕…!」
「――」
「――」
ぼろぼろと涙を零しながら訴える尋人に、周囲の彼らは一瞬動きを止めた。それから顔を見合わせて、失笑する。
「……あぁ、まぁ、確かに中流のこの姿は今にも死にそうだけど」
「尋人君、心配しなくても中流さんは死なないよ」
「ぇ…っ、でもこんなに血が…!」
「うん、血はひどいけど、もう傷は塞がっているから」
「ぇ…?」
顔を歪めて、また状況を把握し切れていない様子の尋人に、中流も苦しいのをこらえて笑った。
「…裕幸…尋人の腕…」
「そうですね」
中流の提案に頷き、尋人の骨折した腕に触れる。
それからわずか数秒。
「――え…?」
それがはっきりと感じられたわけではない。
だが、腕の中の違和感に目を見開く。
「家に戻ったら、ギプスを取ろうね」
「俺達一族の秘密も話さなきゃ」
「――」
呆然とする尋人。
苦笑する中流や、裕幸、裕明。
「…君も、ああいうふうにもう一度笑える日が来るかな」
水の結界を解き、松本孝雄を外に出す。
「…俺…死んだほうが楽だった…」
低い呟きに、佳一は笑う。
「そうだよ、死ぬほど楽なことはないさ。だから生きるんだ」
「…」
「人間なんてバカばっかりなんだよ。誰もが自分が一番で、人を簡単に傷つける。自分の本音も隠して楽な方へ行きたがる。…だけどね、どんな罪を犯しても、いつかまた、ああいうふうに笑えるんだ、心掛けしだいで。それが人間だ」
「…」
地面に落ちる、大粒の雫。
松本孝雄は、これからが償いの日々。
「さぁ、帰ろうか」




