貴方の翼が堕ちても 二十
翌朝。
どうしようもなくなった時には里界神の独断で消滅させる――それを条件に彼らは大樹家の庭に出た。
尋人、中流、大樹兄弟、文月佳一、そして松本孝雄。
「松本君。少し冷たいだろうけれど我慢してもらうよ」
「はい…」
佳一に言われ、松本孝雄は素直に頷いた。
まだあの獣が幼馴染だということ、仲間二人が既に死んでいることも受け入れられずにいる彼だったが、昨日の話し合いの場にいて、ここで自分の意見など何の意味も持たないということは解っていた。
言われるがままに佳一の前に立ち、促されるまま目を閉じた。
「!」
直後、全身を包む水の膜。
「……っ?」
苦しくはない。
むしろ守られてでもいるかのように暖かく柔らかな感触。
不意に背後をトンッと押され。
「!」
突如、目の前に人型が飛び出した。
「六条君、それが松本孝雄の影人形だ。どこでもいいから触れてご覧」
「…」
佳一に言われた中流が、人の形を成した水の肩部分に触れた。
同時、人型は肩から一瞬にして形を失い、後には水滴すら残らなかった。
「これで、妖の目には君が松本孝雄に見える事になる」
「!」
その説明に目を見開いたのは尋人。
「ぇ…それって、先輩を身代わりにするってことですか…?」
微かに語尾が震える尋人に、彼の傍に寄り添っていた裕幸は小さく頷いた。
「中流さんが望んだんだ」
「……!」
彼自身が望んだことだと聞かされ、それは自分のせいだろうかと、尋人の顔が青くなる。
あんなことを言ってしまったから?
「…っ…」
あんな、ことを。
「尋人君」
「!」
不意に裕幸に手を握られ、ハッとする。
「…気持ちを落ち着けて。…中流さんを、信じて」
「……」
「大丈夫。誰ひとり、君が悲しむことは望んでいないから……」
優しい笑顔。
…それでいて、淋しげな。
「先輩…」
見守るしかない彼らの想い。
祈り。
「じゃあ結界を貼るから、その後は絶対に声を出さないこと。六条君、君はあれを呼び出すんだ」
「…判ってる」
「期待しているよ」
そうして、辺りは水神により創られた異空間へと変化していった。
これから中流は、松本孝雄の気を放つことで彼を狙う獣を誘き出すのだ。
気の放ち方は従兄弟から習った。
コツもつかんだ。
獣を呼ぶことは出来ると思う。
問題はその後――同化した二種の魔物から妖だけを解放できるか否か。
だからこそ、誘き出すコツは掴んだと言えど中流の表情は硬い。
決して気は抜けないのだ。
しばらく、ただ無言の時が過ぎて行く。
結界の中央で静かに佇む中流の姿を、皆がただ見守る時間。
静かに。
静かに、過ぎて行く。
「…?」
不意に訪れた変化。
風に混じる匂い。
「ぁ…っ!」
それと気付いた瞬間、中流は――妖には松本孝雄にしか見えない彼が吹き飛んだ。
「! ぁっ…!?」
思わず声を上げそうになった尋人の口を手で覆った裕幸は、目で「静かに」と訴えた。
松本孝雄も同じように声を上げたが、それは彼を覆う水の膜に吸収されて外部に漏れ聞こえることはなかった。
「っ痛…!」
腹から走る激痛。
流れ出る血液。
中流は起き上がり、痛む腹を手で押さえる。
それと前後して響く音は力が大気中を駆け抜けるもの。
「縛!」
「戒!」
「錠!」
獣が彼らの術に縛られる。
動きを封じる。
――……ォオオオオオッ……!
獣の咆哮。
もがき苦しむ手足が上下するたび、水神の異空間に激しい風が起きる。
「…っ…」
――……ゥォオオオオオッ……!
――コレ ハ ナニ……!
――コレ ハ ナニ……!!
騒ぐ獣の周りに、彼らは姿を現す。
「同化しても獣の本性は変わらないね。望みを果たすまでは実に忠実だ」
呼べば現れると暗に嘲笑って、佳一は一本の指を折り曲げた。
刹那。
――ヴォオオオオオオオッ!!!!
咆哮が一際激しく響き渡る。
「さぁ松本君」と、呼びかける先には中流の姿。
獣の中核を呼び出せと促す。
「…っ…すげぇ殺気だな…」
「妖と面と向かって話すのは初めてかい?」
「…っ」
余計なお世話だと目で返し、中流は獣と向き合う。
ここからが勝負だ。
鋼の毛並み、自分の血を滴らせた巨大な爪。
深い闇色の双眸でこちらを見据える、もとはヒトであったものの成れの果て。
「…っ…谷、なんだろ…?」
中流は語りかけた。
松本孝雄になりきったつもりで、その中にいるであろう友人へ。
「なぁ…声聞かせろよ…喋れるんだろ…?」
――…話シ テ ドウナル……
「!」
――…話ス 意味 ナイ…
「意味がないかどうかは話してみなきゃ判らないだろ!? なんでおまえが闇の魔物なんかに捕まったのか、とか…そういうの判らなきゃ、おまえ助けてやることも出来ない!」
――…助ケ ル……
――助ケ ル ッテ 何ダ …
――俺ハ トテモ 楽シイ …
「!」
――…楽シイ……
――コノ チカラ 欲シ カッタ…
――コノ チカラ 俺 無敵…
――俺 妖モ 喰エタ…
「…谷…!」
「……まったく…これでもまだ闇の魔物と妖を分離させろなんて無茶を言うのかい?」
「!」
後半は皆に聞こえるほど大きな声で言った佳一に、周囲は耳を疑う。
同時、今まで以上の能力が獣を縛る。
――…ナニ コレ ハ ナニ……!
「おいっ」
中流が怒鳴るが、佳一は何のその。
「悪いが状況が変わった」
「いまさら何を言ってンだ!」
「尋人君を見てごらん」
「!?」
言われ、まさかと振り返った先、裕幸に支えられながら尋人が地面に蹲っていた。何故と驚くのはほんの一瞬。尋人の中には塩木衛がいて、塩木衛は妖と繋がっている。その妖が闇の魔物の中に居れば、近づけば近付くほど影響は強まり、呪は器となっている尋人を苦しめるのだ。
「尋人…!」
「君の気持ちも判るが、もうどうしようもない。このまま妖の苦しみを、塩木君を通して尋人君が感じていたら、彼の精神の方が病んでしまうよ」
「けど…っ」
「ついでに言わせてもらえば、俺の力も無尽蔵じゃない」
「!」
「先生…?」
裕幸が聞き返す。
佳一は、それでも余裕の笑み。
「これは結構な力が必要のようだ。尋人君は助かるんだから、それで満足してくれ」
「ぁっ…」
言い放ち、素早く切られる印。
描かれる光りの輪。
水の鳥。
「破邪」
神の能力により動きを封じられていた獣に逃げる術はない。
その力は、確実に獣の急所をとらえる――はずだった。
「!」
「なっ…」
その瞬間、その場の誰もが自分の目を疑った。
迸る鮮血。
凍る呼吸。
「―――…っ中流さん!!」
裕幸が叫ぶ。
走る。
獣の手前、それを庇うように腕を広げ、撃たれた中流。
水神の結界の中、尋人の絶叫が響いた。