貴方の翼が堕ちても 十八
あの時、僕は何を考えていたんだろう。
何を、思っていたんだろう。
……何も考えられなかったと、思っていた。
耐えていればいつかは終る。
いまはただ、ただ、我慢して。
全てが終ったら消えてしまおう…そう思っていたと、…思っていたんだ。
先輩が守ってくれた自分の身体を、自分が守れなかったことが悔しくて。
こんな身体、…それでも先輩は抱き締めてくれるって判っていて。
だから消えるしかなくて、飛び降りたんだ。
なのに。
なのに。
なのに。
…本当は、恨んでいた…?
助けてって叫んだのに。
心の中、何度も「先輩、助けて」と叫んだのに、それを受け止めてくれなかったこと、……僕は、恨んでいたんだろうか……?
だから、抱いてもらえない?
抱かれることが出来ない?
好きなのに。
大好きなのに、触れられるのが怖いのは、――原因は、自分でも気付かなかった憎しみがあったから……?
そうなの?
違う…?
僕は先輩を。
本当は、―――。
***
「クソッ…」
大樹家の居間で中流が悔しい思いを吐き出す。
大学の前で松本孝雄を探していたのに、どういう運の悪さか、本人どころかその知人にも会えず、しかも本人は川土手に立っているところを妖獣に見つかり殺されかけ、それを庇ったのが尋人だという。
これほど自分を愚かしいと思える展開が他にあるだろうか。
そのうえ尋人は大きなショックを受けたと聞く。
詳しいことは本人が話さないから知りようもないけれど、それが尚更、中流が自分自身を責める要因でもあった。
守りたいと思うのに守れない。
大事な時に、救えない。
「…っ…」
これではあの時と同じ。
中流は、また尋人を失うのか…?
「そんなこと…っ…」
絶対にあってはならない。
失いたくない。
それだけが、いまの中流の願い。
「…中流さん」
従弟に呼ばれて顔を上げると、川でびしょ濡れになった身体を、裕幸の手を借りて風呂で温めてきた尋人が居間に入ってくるところだった。
「いま、松本さんも二階の浴室から出てくると思いますから、…もう少し待っていてください。…ところで文月先生は」
「庭…、逃げた獣の行方を追ってみるって、庭で能力使ってる」
「…そうですか」
応えながら、尋人をソファに座らせた裕幸は佳一を呼びに庭へ出ようとした。
だが、尋人がその腕を取る。
「? 尋人君…?」
「っ…ごめんなさい…でも…ここに居てください…」
「尋人君…」
いまは中流と二人にしないで欲しい…そう声に出しては言えなかったが、裕幸には伝わったのだろう。
「…中流さん。すみませんが先生を呼んできてください」
「ぁ、ああ」
裕幸に言われて、中流が庭に出る。
心のなか、ほっと安堵の息を吐く尋人に、裕幸は淋しげに微笑み、それきり、何かを問うことはなかった。
それからしばらくして、二階の浴室から出た松本孝雄を、大樹家の長男・裕明が居間へと連れてきた頃、それを見計らったように庭から中流と佳一が戻ってきた。
さすがに今回は出流を呼び戻せなかったが、松本孝雄を含む当事者が顔を揃えた大樹家の居間。
最初に口を切ったのは、当然と言うべきか里界神である一族の主・文月佳一だった。
「結論から言う。自殺した塩木衛の屍を喰らい、闇の魔物に憑かれていた谷俊介を喰らい、一昨夜に柴田航太郎を喰らったのは、あの獣で間違いないよ」
「! なんだよそれ…!」
直後、声を張り上げたのは松本孝雄、その人だった。
「衛が自殺? 谷と柴田が…何だって? さっきの獣がどう関係するんだ!?」
「塩木さんは一週間ほど前に海で亡くなられました」
佳一の後に裕幸が口を挟み、松本のため、分かり易く説明していく。
「そして三日前の夜には谷さんが。その翌日には柴田さん。谷さんと柴田さんは、…妖と呼ばれる、俗に言う怪物に殺されました。一時間くらい前に貴方を襲った不気味な獣、あれが、それです」
「な、…んだって…?」
「その化け物は人の憎しみに反応するもの。…塩木さんは自殺でした。それも、谷さんと柴田さん…そして恐らくは、貴方を恨んで」
「――…っ」
裕幸の言葉に、松本はあからさまに顔色を変えた。
当然だ。
「…思い当たることがあるのでしょう?」
「…っ…」
松本は誰とも視線を合わさないよう下を向いた。
だが、現在この場に、松本のそのような態度を許す者はいない。
決して逸らされない幾つもの視線は、無言の圧力となって松本の口を開かせた。
川では獣のことが優先され、まじまじと見ることはなかったけれど、いま風呂で身だしなみを整えてきた松本は、いかにも神経質そうな、インテリの雰囲気を漂わせた男だった。
眼鏡の奥、人には言えない秘密を持ちながら、そうとは決して悟らせない瞳は何かを直視することなどないのだろう。
誤魔化して、騙して。
虚像を象って生きてきたというような印象を受ける。
「君が塩木君と関係を持っていたのは知っている。だから下手な隠し事はしないでくれ」
佳一にそう促されて、松本は低い声で話し出した。
「俺達…、俺と、衛は…別に付き合っているわけじゃない。ただ、たまたま……幼馴染で気心も知れているし…、遊びの延長、…みたいな感じなんだ。二人とも本気じゃない、本当にただの…、セフレ…って言うか…そういう関係なんだよ。…先月の初めに…それが谷と柴田にバレた。恋人じゃないなら別にいいだろ、って…。あいつら、衛とヤラせろって言って来たんだ。俺は…最初はどうかと思ったけど…、谷の方が…なんか危ない感じで…、別に好きでもない俺とヤッてるんだから、谷と柴田が相手したって、衛もそんな気にしないだろう、って…そう思って…っ…」
言葉を選ぶように、時には声を掠らせて語る松本に、裕明は静かに息を吐き、裕幸は顔を歪めて腿の上の手を握り締めた。
佳一が、
「…だから二人に塩木君を差し出した?」
そう返すと、松本は途端に顔を真っ赤にして立ち上がった。
「…って…! 全部遊びなんだ!! 俺とだって遊びだ、衛はヤッてくれるなら誰だっていい!! そういう奴なんだ! だから平気だと…っ…だから…っ」
言い返して、震える声。
興奮しながら、悪いのは自分ではないと言い放つ。
「イヤなら! …っ…好きでもない奴にヤられるのいやなら最初からしなきゃいい話だろ!? あいつ言ったんだぞ!? 別に構わないって! 誰が相手でも同じだって! あいつがそう言ったから…!!」
「塩木君の強がりを鵜呑みにした、ってわけか」
「…っ!?」
強がりと表現した佳一を、松本は睨み返す。
「何も知らないくせに……!」
言い返す。
それは。
「…あの人……悲しんでいました…」
「!?」
不意に声を発したのは、今まで俯いたきりの尋人だった。
尋人だけが目にした獣。
夢にまで見た光景。
「尋人君…?」
裕幸の気遣うような声音に、だが尋人は首を振る。
違う、自分はこの存在に気遣ってもらえるような人間ではない。
なぜなら自分は。
――……オマエ 俺ト 同ジ……
自分は、獣と同じ傷を知るから。
その思いを、知っているから。
「…塩木さん…悲しんでいました…憎むより、恨むより、…っ…悲しみの方がずっと強かった…」
「尋人…?」
「塩木さん恨んでます…っ…谷さんと柴田さんのこと憎んで…松本さんのこと、恨んでる…、でも、恨むのは、好きだったから…」
「――」
「尋人君…?」
「好きだから裏切られたって泣いていた…っ」
「…っ…おまえなんかに何が判る…っ」
「判るっ…判るんです……っ…」
松本に返す。
胸の奥から溢れる感情の痛み。
「だって…っ…だって思ったんだ…なんで助けてくれないの、って……っ…!」
「尋人、くん…?」
裕幸はハッとした。
尋人の言葉が続くにつれて、そこには尋人のものではない気が纏う。
「僕も思ったんだ…っ…どうして助けに来てくれないんだろうって……!」
「――!」
どうして?
――…オマエ 叫ンデ イタノニ…
――…苦シンデ イタ ノニ…
――…助ケテ クレナカッタ 裏切リ者……
どうして。
どうして…、仕方ないこと、判っていても。
どうしようもないこともあると、判っていても。
だんだん。
だんだん、解らなくなる。
――…ダカラ 抱カ レ ラレ ナイ……
「……っ…先輩…!」
「…っ」
「先輩…どうして……っ!!」
「ひろ、と…」
ドウシテ――!
「チッ」
不意に佳一が動いた。
軽い舌打ちと、重い手刀。
「っ、先生…!」
「参ったな…」
佳一にしては珍しく困り果てた様子で呟いた。
「…妖に感情移入しているっぽいとは思ったけど…、まさか闇の魔物との同化がここまで厄介なものとは……」
佳一の腕の中、気を失わされて倒れた尋人を彼らは囲む。
「…、憑かれたかな」
訳が判らずに立ち尽くす松本も、彼らの傍。
ただ一人、近付くことの出来なかった中流は、……泣いていた。