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貴方の翼が堕ちても 十六

 不思議だった。

 尋人は自分がどこに向かっているかを知らない。

 どこに向かえばいいのかも、知っているはずがなかった。

 だが、向かう先に何があるのかは知っている。

 だから足は迷わず進んでいく。

 まるでそこだけが尋人という体から独立しているかのように、戸惑う少年を先へ先へと連れて行くのだ。

 同時に、尋人の心に何度も繰り返し響く警鐘。

 ダメだ、絶対にダメだと何かが叫ぶ。


 ――…何が……?


 判らない。

「…っ…」

 何も判らないのに、ダメだと叫んでいるものは、……誰の心?

 走る尋人の呼吸は荒い。

 ――荒い息遣い。

 痛む腕。

 流れる汗。

 ――止めどなく落ちる涙。

       ――滴る血液。


 痛かった。

 苦しかった。

 辛かった。

 怖かった。



 怖かった。

「…っ…」


 ――オマエ 俺ト 同ジ……


「……!!」

 蘇える獣の声。

 ……蘇える、過去の恐怖。

「ぁっ…!」

 同じ。

 何が。

「!!」

 直後、眼前に開けた光景。

 川土手にあるサイクリングロード、いまは人気のない直線道路。

 いたのは、川岸に佇む男一人。

「ダメだ……!!」

 叫んだ尋人に、振り返った男。

 ――松本孝雄。

「ダメ、逃げて……っ」

「…?」

 松本孝雄は眉を顰めた。

 どこからともなく走ってきた少年に逃げろと言われても伝わるはずがない。

 それを知っているのは、彼だけ。

「ダメだ……!」

 尋人は走って土手を下りると迷わず松本の背中を押した。

「ぇ…ちょっ……!」

 松本は叫んだが、重力には逆らえずに尋人共々川に落ちた。

「!!」

 激しい水音を立てながら、必死に手足をばたつかせて身体を起こす。

「なっ…なんだおまえ……!」

 何て事をしてくれるんだと怒鳴りかけた松本は、だが。

「ダメだ…っ…もうこれ以上、ひとを傷つけちゃだめだ!!」

 自分を川に突き落とし、自らもずぶ濡れになった少年が、こちらに背中を向けて叫んでいる姿に戸惑う。

 なにが起きたのか。

「――…ぇ…っ……!?」

 なにが、いる…?

「ぁ…わっ…」

 先ほどまで自分の立っていた場所に、獣がいた。

「……!」

 鋼の毛並み、鋭い牙と爪。

 不穏な唸り声を上げながら、こちらを見据える、その姿は、いまだかつて見たことのない不気味なものだった。

「ばっ…化け物……!」

「ぁ…!」

 松本は逃げ出した。

 川の中、走ることもままならないのは解り切っているはずなのに、獣と尋人、双方に背中を向けて逃げ出す。

 同時、獣は跳躍する。

 松本の背中目掛けて飛び掛る。

「ダメ…!!」

 尋人は腕を伸ばした。

 走って、腕を伸ばして松本の背中を掴み、強引に引っ張る。

「!」

 バシャン! と再び水飛沫が上がって松本は川の中。

 尋人は彼を背後に庇って叫んだ。

「お願いだからもうやめて! この人を殺したって何にもならない!!」


 ――………


「っ…」

 獣の四肢は、水面に浮かぶ。

 まるで地面に立つのと同様、水上でもまったく沈むことがない。

「……ぅっ…」

 やはり自然な生物ではないのだと、改めて思い知らされながら、だが尋人は逃げられない。

 この獣に、松本孝雄を殺させるわけにはいかなかった。

「…お願いだよ……もう止めよう…?」

 尋人の言葉に、獣は唸る。

 深い闇色の双眸が少年を見据える。

「こんなことしたって…何もならないじゃないか…そんなの、君が一番知っているはずだ」

 君が。

 ………君、が。

「この人を傷つけたら、君も傷つく。君が傷つくんだ!! だから……っ……だから…!」

 もう人を襲うのは止めてと訴える。

 それと同時に気付いた。

 否、とうに気付いていたのに自覚できなかったものを、ようやく自分の中に見つけることが出来たと言うべきか。

 見えた。

 読めた。

 この獣の――塩木衛の、悲しみ。


 ――……ナゼ 邪魔ヲ スル………


「!」

 獣が問う。


 ――……ナゼ 邪魔ヲ スル……

 ――……コレハ 復讐…

 ――……衛ノ 復讐……


「――衛……?」

 松本が呟いた。

 その、しばらく顔を合わせることのなかった幼馴染の名を。


 ――…ソイツ デ 最後ダ……

 ――…衛ノ 復讐ハ 終ワル…

 ――…ナノニ ナゼ 邪魔ヲ スル……


「だって復讐なんて…っ」


 ――…オマエ ニハ 解ル……


「!」

 尋人は目を見開く。

 獣は、笑う。


 ――…解ル ハズ ダ……

 ――…オマエハ 俺ト 同ジ……


 ――…同ジ 傷ヲ 持ツ 者ヨ……




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