貴方の翼が堕ちても 十一
尋人が竜騎に連れられて大樹家に向かう途中の小道で、彼らの傍に車が停まった。
慌しく下りて来たのは裕幸。
運転席には、彼の兄・裕明の姿がある。
「尋人君……!」
佳一からある程度の事情を聞いて彼を迎えに来たのだろう。
「尋人君…っ」
辛そうな顔で、裕幸の細い手が尋人の顔を包むと、その説明の仕様がない温もりに、――現実が襲い掛かり泣きたくなる。
思い出される。
自分が、何を見てしまったのか。
「…っ…ぃ…裕幸、さん…っ」
「――っ、…ごめんね…」
頭上から降る言葉。
抱き締められて、鼻腔をくすぐる甘い匂い。
「ごめん…ごめんね…尋人君……っ」
「っ……」
何度も、何度も謝られて、尋人は裕幸の袖を濡らす。
止めどない涙で濡らした。
***
住宅街から多少離れた土地に広がる森の奥に、一軒だけ立つ西洋風の邸、それが大樹家だ。
夜闇に覆われたこの時間帯、周囲を照らすのは夜空に瞬く星の灯火と、ようやく東の空に浮かんだ十六夜の月。
にも関らず、この微かな光りの中、大樹家ははっきりとその存在を誇っていた。
今までにも何度か訪れたことのある家屋は、だが今夜は別世界。
尋人は黙って座っていることしか出来なかった。
閉じられた扉の向こうでは、十分ほど前にやってきた中流と、最後に現れた文月佳一が、この家の兄弟と真剣な面持ちで話し合っている。
「…」
それがどのような内容なのか、空間を隔たれている尋人には知る術がない。
そんな彼の傍には、竜騎がいる。
ここに尋人を連れてきたのが竜騎なら、隣の話し合いには彼も加わるべきではないかと疑問に思ったが、数分前にそれを聞いた尋人に、竜騎は低く、ただ一言を返しただけだった。
「……俺は関係ない」
「…」
関係ない――何に? とは聞けなかったけれど。
これは大樹家と文月佳一にしか関りのないことなのだと納得するしかなかった。
無言の時を過ごす尋人達の部屋。
隣の喧騒はまるで聞こえてこなかった。
***
「そんなのは俺達の勝手な事情だ! 尋人はまったく関係ないんだぞ!?」
「解ってるよ。だが見てしまった以上は、それなりの判断を下す必要がある」
「そんなもの! あんたがちゃんと結界を張っていれば防げたことだろうが!」
「まぁ…それは確かに、俺に不手際があったとも言えるけれど」
尋人と竜騎を待たせている部屋の隣。
裕幸の能力によって完全に囲まれた空間の中で憤りを露にする中流を前に、佳一は眉を顰めながら続けた。
「でもね、俺の結界はいつもと全く同じ要領で張ったんだし、水の力も脆くなってはいなかった。ということは、尋人君を弾けなかった原因は俺以外のところにあるんじゃないのかな」
「けど尋人が狙われてるんじゃないってことは裕幸が確認した! アンタは裕幸を疑うつもりか!?」
「まさか。他の誰を疑っても、白夜だけは疑う理由がないよ」
「だったら…っ」
「何も原因が俺にないなら尋人君にあると決まったわけじゃない。あの場所には、妖獣もいれば、殺された男もいた」
「――」
「むしろ原因ならアチラ側にあると考えた方が自然だと思うけれど?」
どこか意味深な口調で返す男に、中流は言葉を詰まらせ、大樹兄弟と、もう一人同席している六条家の長男・出流が短い息を吐き出した。
「―――…っ…それにしたって、尋人を結界に囲んでアンタと遭遇させたのはアンタ自身だろ!? そのアンタに尋人をどうするかなんて決められたくない! 尋人は里族じゃないんだからな!」
「だが君は里族だろ、六条中流」
「――」
「尋人君は君が選んだ相手だ。里族の伴侶となるなら、それは俺の配下につくということだろ?」
「けど尋人は…!」
「同じことを言わせないでくれるかい? 俺は、君の何だっけ?」
「…っ……!」
物言いはくだけている。
その表情も笑顔だ。
だが強烈な力を持つ言葉は中流から言葉を奪う。
無視し続けたいと願う現実を突きつけた。
「ん?」
そんな相手の反応に気を良くし、笑んだ口元をさらに緩め、重ねて問う。
「俺が誰だか、答えられない?」
「っ…」
他の誰かが、力ない息を吐き出し、――しばらくの沈黙の後、声を上げたのは裕幸だった。
「文月先生。中流さんにそのような言い方は止めて下さい。それに最初の話しに戻りますが貴方に尋人君の処遇を決定されるわけにはいきません。尋人君には、まだ里界の話はしていないのですから」
「へぇ?」
その答えが意外だったように佳一はその場の面々を見渡した。
「里界の話しをしていないって? あの子を伴侶に選んでおきながら? それを君達全員が認めているのに?」
「…尋人君はまだ高校生です。それに、中流さんがまだ話せないと言うなら、周囲がそれを強要することなど出来ません」
「確かにそれは正論だろうけれど。…君の意思なのかい、白夜」
「ええ」
「ふぅん?」
楽しげな物言いで、佳一は続けた。
「まぁ…君がそう言うならこの件は保留にしよう。あの子が里族になるとまだ決まったわけではないなら、今回の判断は君に一任するさ」
「俺は中流さんの意思を尊重します」
「…仕方ないね。それが白夜の意思なら」
裕幸をあえて白夜と呼び、それを強調する男の言動は、中流を筆頭に兄達にも不快感を募らせる。
もちろん佳一はそれを知っていて、煽っているのだ。
「とりあえず、こうして関った以上は、成り行きだけは見守らせてもらうよ。…万が一にでも俺の能力が必要になれば遠慮なく頼みにおいで」
「ありがとうございます」
「じゃあね」
片手を上げてその場から去ろうとした佳一は、だが唐突に呼び止められる。
「文月さん」
声を掛けたのは中流の兄・出流だった。
「先ほどの貴方の問に答えますよ。“貴方は俺達の神だ”とね。……だが忘れるな、貴方は神である前に他人。俺達の弟を貶めて、ただで済むとは思わない方がいい」
出流の言葉を、佳一は笑う。
「怖いねぇ。何をしても構わないけれど、くれぐれも白夜を泣かすことだけはしないでくれよ?」
「肝に銘じておきましょう」
低い返答と楽しげな含み笑い。
そうして佳一は姿を消した。
「くそっ…!」
悔しい思いと共に殴りつけられた壁が泣き、出流と裕明の良く似た声が重なる。
「裕幸、アレはさっさともう一度生まれ変わらせた方が今後のためだ」
一字一句違わない兄達の台詞に、裕幸が困ったように笑った。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「…」
このままでいいはずがないことを、もはや中流も理解せざるをえない。
「……」
「…」
兄達と、裕幸の視線を一身に受けていた中流は、それでもしばらく口を開くことが出来ない。
誰も、何も言わない沈黙。
けれどこの沈黙は、答えを急かすことも責めることもない。
静かに待つだけの、心地良いとさえ思える静寂。
しばらくして中流が出した答え、それは――。
***
どれくらいの時間が過ぎただろう。
尋人が落ち着かない気持ちで、誰かが扉を開けてくれるのを待つ一方で、やはり竜騎は無表情のまま、ただ黙って尋人の傍に座っていた。
「…」
聞きたいことは山のようにある。
隣の部屋でされている会話の詳細もそうだし、あの獣のこと、夢のこと。
竜騎のことも、教えて欲しいと思う。
今度こそ話して欲しいと思う。
「……」
だが、尋人を散々に焦らし、待たせた扉がようやく開けられた時、姿を見せたのは、裕幸一人だけだった。
「…随分待たせてしまって、ごめんね」
「裕幸さん…」
童話などでよく見かける天の御遣いを実体化させたように綺麗な顔を、今は淋しげに歪めている裕幸は、尋人の傍で膝を折ると、いよいよ話が聞けるかもしれないことに緊張していた彼の手を握った。
「…最初に謝らせて欲しい。…今回のこと、ちゃんとした説明も出来ずに、巻き込んでしまって、本当に、ごめんなさい」
「ぇ…えっ、裕幸さん…?」
深々と頭を下げる相手に、尋人は動揺を隠せない。
まさか裕幸に謝られるなど、思ってもみなかった、
「そんな…裕幸さんが謝ることなんて…」
「……いや、謝らなければいけないんだ。特に、もう一つの理由で」
「もう一つ…?」
聞き返す尋人に、裕幸は頷く。
「…俺は…君を巻き込んで、こんなことになってしまったのに…、なのに、それでも君に、君が知りたいと思うことを話すことが出来ない」
「え…」
「ごめん。…俺は、君に何も話せないんだ。あの獣のことも、夢のことも……今夜のことも、何も」
「どうして…!」
思わず声を荒げると、裕幸は申し訳無さそうに目を伏せた。
竜騎だけが、眉一つ動かさない。
「なんでですか? どうして何も教えてくれないんですか? 僕だって…何も知らない僕だって、何かあるのはもう解ってるのに…!」
「うん…、でも話せない。中流さんがそれを望んでいないから」
「! だったら先輩に聞きます! 僕が直接聞きますから…!」
「中流さんは帰った」
「――」
「君をうちに泊まらせてくれと言って、帰ったんだ。出流さんと一緒に」
「…っ…どうして…っ…」
どうして。
どうして。
「なんでですか……っ!?」
中流の気持ちが、解らない。
解らなくなる。
いままでの彼の言葉も、何もかも。
「ごめんね…」
「…っ」
聞きたくない。
そんな言葉が、裕幸から聞きたいわけじゃない。
だけど、本当に聞きたいことも。
聞かせて欲しい人も、ここにはいない。
「…っ……ぅっ…」
裕幸の言葉を拒むように、何度も左右に首を振り続ける尋人を、その場に居た二人はただ見つめる。
「……」
見つめて、泣きそうになる裕幸の肩に、竜騎の固い手が触れた。