貴方の翼が堕ちても 九
夜の七時を回って、外は次第に闇に支配されようとしていた。
菊地の祖母の言葉に甘えて夕食もご馳走になった尋人は、今まで以上に中流の顔が見辛くなっていた。
だが、これ以上、菊池家に居座ってはこちらの家人に迷惑を掛けてしまうし、本格的に暗くなってから帰ると言い出せば、恐らく菊地は泊まっていけと言うだろう。
そう言われて、断り切れる自信はない。
このまま一晩、中流の顔を見ずに過ごしてしまっては、ますます彼の顔が見られなくなってしまうだろうに。
「……」
それだけは駄目だと己を叱咤し、尋人は立ち上がった。
「そろそろ帰るね」
告げると、菊地はわずかに顔を歪めた。
「こんな時間になって大丈夫か? いくら夏だってすぐに暗くなるし…、帰るンなら六条中流に迎えに来てもらうとかさ…」
「ううん。歩いて帰れるよ」
歩きながら、中流に会う覚悟を決めたいと思う尋人に、菊地はますます顔を歪めた。
彼自身、言わないと決めていたけれど、もはや我慢も限界。
どんなに尋人が言い繕おうとも、菊地の目は誤魔化されない。
「倉橋、…おまえ、もしかして六条中流と何かあったのか?」
「え…」
「今日のおまえ、すごいヘンだぜ?」
「…」
菊地の言葉に、どこが?――とは返せない。
嘘はつけない、そう思ったら口を閉ざす他なかった。
「うちに来るって言った時もそうだし、一緒に課題やってる時だって、おまえ無理に平気なフリしてンの見え見えなんだけど」
「…そんなに、無理してるように見えた?」
「ああ」
間髪を入れない菊地の返答には、苦笑するしかない。
「…どうして菊地君には、何でも解っちゃうのかな…」
落ち込んでいる時に励ましてくれたり。
欲しい言葉をくれたり。
「解っちまうんだからしゃーねぇだろう」
ぶっきらぼうに言い返してくる、その態度も有り難い。
「あいつとケンカしたのか?」
「…ううん。ケンカなんて…」
ケンカの方がまだ良かったと思う。
こんなのは、まるで騙し合いだ。
知っていると言えればいいのに、話したくないと、それを拒んだ中流の言葉が本心であると解るから、知らないフリ。
今まで誰より傍にいると信じていた分だけ、気持ちの通じない現在がこんなにも哀しい。
「…ケンカじゃないんだ…ただ…少し、先輩の顔…見れないだけで…」
「……アイツの家に帰り辛いんだったら、俺ンちにとま…」
「それはダメ!」
「倉橋?」
「それは…言わないで」
「…」
言われたら、断り切れる自信がない。
だから最後まで言わせずに遮った。
「…今日、菊池君のところを逃げ場所みたいにしちゃって…ごめん。それだけでも甘え過ぎなのに、もうこれ以上は…」
「甘えればいいだろ? 俺は全然構わないんだし…!」
声を荒げる菊地に、尋人は強く首を振った。
それは出来ない。
そこまで弱くなれない。
「これ以上、甘えたら…本当に、先輩の顔を見られなくなるから」
「――」
「それはイヤなんだ。…先輩の隣に帰れなくなるのは…それだけは、もう…」
中流のいない日々の悲しみは、もう二度と抱きたくない。――その思いを今更再確認して、ようやく気付く。
そうだ、それだけは絶対に繰り返したくない。
「――」
離れたくないなら、やるべきことは一つ。
最初から決まっていたはずだ。
「…いつも、菊池君には助けてもらってばかりで…ごめんね。それに、ありがとう」
「倉橋…」
「菊地君と話していたら…、不思議なんだけど、先輩と話す勇気が湧いてきた気がする。…先輩と一緒にいられなくなるのはイヤなんだから…、だったら、ちゃんと話せばいいんだよね」
「…」
「また、教えてもらった」
「…倉橋…」
「ありがとう」
向けられる笑顔に、笑い返す。
…巧く笑えているだろうかと、不安になりながら。
「じゃ、またね」
「あぁ。気を付けて、帰れよ」
応えて、遠ざかる姿を見送る。
決して届かない場所に帰る背中。
「…ったく……」
菊地は深く息を吐くと、その場にしゃがみ込んだ。
「…だから…恨みたくなンだろ修司…」
いまはどこにいるのか。
傷害の罪で警察に連れて行かれた従兄を思い出しながら、菊池は自嘲した。
恨めるなら恨んでしまいたい。
そんなこと、決して出来ないと解っているから尚更に。
尋人に出逢うきっかけをくれたのは、他の誰でもない、彼だから。
「……俺も早くコイビト欲しい…」
泣きたくなるようなか細い声は、しかし今夜は、薄闇に紛れて掻き消されるだけだった――。
「そうだ…ちゃんと先輩に聞こう」
覚悟を決めた尋人の足取りは速かった。
本人が話したがらないことでも、彼の傍にいるためなら、無理やりでも聞き出そう。
中流の顔が見たい。
声が聞きたい。
彼の抱えているものを、ちゃんと知りたい。
そうと決めたら、迷う時間も惜しかった。
尋人は折れた腕を庇いながらも小走りに六条家への道を進む。
まずは何を話そう。
裕幸との話を盗み聞いてしまったことを最初に謝ったら、順番に質問する。
昨日の事故の時に見かけた三人組のこと。
夢に見た獣。
…あの男の人が、どうなったのか。
「…」
恐ろしい答えが待っているだろうことも、気付いている。
だから教えて欲しい。
自分が何を見てしまったのか。
「もう…逃げない…」
絶対に逃げない。
中流からも。
現実からも。
「先輩…!」
先ほどまでの怖れが嘘のように、今の尋人は中流に会いたい気持ちでいっぱいだった。
だから家路を急いだけれど、夜の闇は彼の帰宅を待たずに外界を支配する。
まだ月も仰げない。
星の灯火もささやかな、夜の時間。
「何時だろ…」
ポケットの携帯電話を取り出して時間を確かめようと足を止めた直後だ。
「――…?」
何故か感じた違和感。
辺りは住宅街。
どの家にも明かりが点いていたし、家族揃って夕食を取る光景も数多く見られただろう。
そんな閑静な住宅街の一角から。
「!」
不意に、薄闇を劈く男の叫び。
「ぇ…」
それを尋人が聞いてしまったのは何の因果か。
「たっ…助けてくれ…っ……! ギャああああああ!!!!」
――――!
「っ!?」
悲鳴に続く、有り得ない轟音に、尋人は体を竦ませた。
咄嗟に周囲を見渡すも、他に人影は無い。
何故、誰も家から飛び出してこない?
あんな悲鳴、只事ではないのに。
あんな音、何かが爆発したと思ってもいいはずなのに、どうして誰一人近付いてこないのか。
「…っ…」
何を見たわけでもないのに怖くなる。
「ぇ…!」
鼻先を掠めた鉄臭さ。
嫌な予感がした。
近付いてはいけないと、頭の奥で警鐘が鳴る。
…ダメだと判っていたのに、足が向かってしまった理由など、尋人には解らない。
解らないまま、見てしまった。
「………っ!!」
獣だ。
夢に見た、あの獣だった。
黒ではないのに、闇に染まる暗い色。
滑る牙に、今は肉を咥え。
「…っ…」
肉を。――人の腕を。
「ひっ…っ!!」
叫びよりも激しく、強く、腹の底から込み上げて来る不快感が少年に嘔吐させた。
そればかりか、獣の足元。
壊れた人形のように捨てられたそれは、今まで生きていたはずの人間の胴体――。
「っぅ…っ…」
もう何も映さないだろうに、大きく見開かれた瞳が尋人を真っ直ぐに向いている。
真っ赤な身体。
血に染まり、噛み砕かれた四肢を投げ出して。
「ぁ…ああっ…あ…っぅ…ぁ…」
なぜ、こんなこと。
…なぜ、知っている。
その男は、昨日の男。
「ああっ……!!!!」
また殺された。
昨日の事故、駅前の噴水広場。
あの場所にいた男が、また一人、殺された。
獣に。
夢に見た、この獣に。
「ああ…ぁっ…なんで……なんで……!!」
もはや思考も乱れ、言葉すら選べない尋人を視界に入れた獣は、男の腕を吐き捨て、ゆっくりと近付いてきた。
「……!!」
血を滴らせる口元には、肉食動物に良く似た鋭利な牙。
虎のようだと思ったけれど、虎よりもよほど凶悪で残忍な容貌だ。
闇色の毛並みは固く、不揃い。
巨大な手足がアスファルトを蹴る。
「…っぁ…あっ…」
助けてとも叫べずに、震える足を後ろに下げるが、それも崩れて体は倒れる。
「…っ」
獣が笑った気がした。
自分も食べられるのかと、頭の中が真っ白になる。
(…先輩………!)
最後に彼と会いたかったと胸中に叫び、もう最期だと、せめてもの抵抗に、頭を腕で覆った。
だが、そんな彼に下ろされたのは獣の牙ではなかった。
――……オマエ……俺ト…同ジ…
降ったのは言葉。
そして、血の雫。
――…オマエ 俺ト 同ジ……
獣は繰り返し、消えた。
「…っ……!」
風に吹かれた塵のように、一瞬でその場から消え去った。