貴方の翼が堕ちても 八
何となくではあったが、中流の家族に秘密がありそうなことには気付いていた。
中流本人もそうだけれど、兄の出流や、従兄弟の大樹兄弟には“不思議”が漂っていたし、身近に接して知れば知るほど、彼らが“普通”だとは思えなくなっていた。
それでも、何かあるなら、いつかは中流が話してくれるだろうと思っていたし、隠し事などないのだと、――信じたかったのだ。
――…尋人には話したくないんだ……っ……
だから、盗み聞きという形で聞いてしまった中流の言葉は、尋人の心を苛んだ。
その上、死臭だとか、狙われているだとか。
昨夜の状況。
殺された男性。
あと二人。
「…っ……」
ヨウジュウ、とは何か。
彼らはどんな秘密を持っているのだろう。
中流は何を隠している?
怖い想像ばかりが膨らんで、尋人は中流の顔が見られない。
裕幸が帰って、六条家に二人になってしまってから、少年は自分の部屋に閉じこもったきりだ。
いつもならば、一分、一秒だって惜しむように中流との時間を持つ尋人の、そんな様子に、だが中流は「今は顔を見せない方が良さそうだ」という直感で、部屋に近付くことはなかった。
中流にとって、正しい予測は出来なくとも外れることの無い直感だけが、彼の秘密を裏付けているのだから。
そうして、同じ家にいながら互いの目に触れない時間が続く。
気晴らしにと開いた課題が進む気配も一向になく机に突っ伏していた尋人は、不意に鳴り出した携帯電話に慌てて手を伸ばした。
もしかして中流だろうかと胸が騒いだが、着信表示には友人、菊地武人の名前。
「菊池君…?」
心なしか安堵の表情で通話ボタンを押すと、途端に友人の聞き慣れた声が飛び込んできた。
『倉橋! 数学の課題っ、一八ページの問四! 答え教えてくれ!』
「え…課題? 数学…って」
言われたことを復唱しながら机の上から数学の課題を探し始めるが、今まさに手元に広げているのがそうだと気付き、一人きりの部屋で恥ずかしくなる。
「うん…数学の一八ページの…」
『問四!』
菊地の指定した問題を探すためにページを戻す。
夏休みの後半には皆で旅行に行こうという計画があるため、課題は早め早めに終らせるのが中流との約束だったこともあり、一八ページ目まではかなり戻らなければならなかった。
「…」
旅行…行けるかな、と思わず自分の考えに沈みそうになった尋人は、
『倉橋、見つかったか? もしかして、まだそこまでやってない?』
菊地の早口に我に返り、慌てて一八ページを開いた。
「あったよ、一八ページの問四」
『じゃあ答え!』
「答え…って、でも自分でやらなきゃ意味ないと…」
『ここまでは自力でやったんだ! この問題だけ解ンねーんだ、一問くらいいいだろ!?』
「…でも、この前の問題が出来たんだったら問四も簡単…」
『はぁ?』
「だってこの問題、考え方まるっきり同じだよ? 単位を揃えたら前の問題と同じ公式に当てはめるだけ…」
『――』
「……もしかして、単位を揃えるの忘れてない?」
『今やってるっ!』
ムキになって言い返してくる友人がおかしくて、つい笑ってしまった。
「菊地君らしいっていうか、らしくないっていうか…」
『笑うなっ、集中出来ねぇ!』
「ごめん、ごめん」
照れた友人に怒鳴られ、尋人は口を閉ざして笑いを噛み殺した。
だが、三十秒ほどで聞こえてきたのは、
『…ンだよこれ、簡単じゃねーか』という不貞腐れた声。
また怒られると解っていながらも、込み上げて来た笑いは抑えられなかった。
『おまえ笑い過ぎっ』
「だって…だって菊池君…っ…」
「あぁもう切るぞ、用無くなったから!」
電話の向こうでは、きっと真っ赤な顔をしているのだろうということが容易に想像出来てしまい、可笑しかったのと。
…中流のことで沈んでいた気持ちが、少しだけ浮上したことが、有り難かった。
思えば、自分が落ち込んでいる時にはいつだって菊地が励ましてくれている気がする。
「待って菊池君、…あのさ…、今から遊びに行ってもいいかな?」
『――、俺はいいけど、大丈夫なのか?』
「大丈夫…って?」
『おまえンとこの過保護キング。怪我した倉橋が外出するのOK出すか?』
「ぁ…」
自分の怪我のために仕事を休んでくれた中流を避けることを、申し訳ないとは思う。
だが、今は平気な顔をして中流の傍にいることが出来ない。
「……大丈夫。じゃあ、今から行くから」
『おぅ』
相手の返答を待って電話を切った尋人は、カモフラージュのために課題を鞄に入れると、それを持って部屋を出た。
「…先輩」
居間で新聞を広げていた中流は、部屋から出てきた尋人に表情を和らげたが、彼が鞄を持っているのを見て小首を傾げた。
「出掛けるのか」
「はい。菊地君のところに行って来ます。課題、一緒にやろうと思って」
「そっか。じゃあ菊地の家まで送る」
「いえっ、いいです、外歩きたいし」
「けどその腕じゃ何かあった時に…」
「何もないですよ、菊池君の家まで何時間も掛かるわけじゃないですから」
「けど…」
本人に言えずとも、今は尋人を一人にしたくない中流は、彼が一人で外出するということをまだ渋っていた。
そしてそれは、中流が知らないだけで、尋人には気付かれている。
どうしても一人で行かせたくないなら理由を話してくれればいいのにと、少年の内側に募る負の感情。
先輩はズルイ…、そう思うと、胸に苦いものが広がっていく。
「…本当に大丈夫ですから。……それとも、僕が一人じゃそんなに心配ですか?」
「――」
いつにない冷めた物言いに、中流は目を丸くする。
それを直視できずに踵を返すと、それきり、足早に玄関を飛び出した。
後ろは振り返らない。
いま、中流がどんな表情をしているかなど知りたくなかったから。
「先輩のバカ…っ…」
追いかけてくる気配もない。
少年は掠れた声で呟くと、幾種もの複雑な感情が入り混じった息を吐き出した。
それから数十分後。
尋人を迎えた菊地は、彼の態度がどことなくおかしいことに、すぐに気付いた。
だが同時に、それを知られたくなさそうであることも気付いてしまったから、出かけた言葉を飲み込んだ。
尋人のこの表情は、以前にも見たことがあった。
記憶を失くして、苦しんでいた頃。
何も解らずに、六条中流の名前を閉ざされた時間の中で追っていた時の、切ないもの。
――…六条中流と何があった……?
声に出したくて。
けれど言えない、問い掛け。
尋人が鞄の中に課題を入れてきたと知り、ならばそれを終らせようと提案した。
課題をやっていれば、その間は、何があっても尋人にそんな顔をさせずに済むと思ったから、菊地にはそれしか出来なかったのだ。