貴方の翼が堕ちても 七
「はい。済みません、そういうことなんで休ませてください。はい。――はい、失礼します」
会社への電話を終えて受話器を置くと、背後から尋人の小さな声が届く。
「ごめんなさい…僕のせいで…」
「気にするな」
今にも泣きそうな顔をする少年に、中流は薄く笑って、その頭を撫でてやる。
「俺がそうしたいから休むんだ。おまえのせいなんかじゃないよ」
「…済みません」
「詫びられるよりは感謝されたいかな?」
おどけた口調で言う中流に、尋人は虚をつかれるが、すぐに相手の気持ちを察する。
「……ありがとうございます」
そうして向ける笑みに、返される笑み。
彼らが過ごす部屋には、中流の希望でテレビが付けられない代わりに、尋人の好きなミュージシャン“レジェンド”の曲が流れていた。
中流が家の仕事をしている間、最初は気を遣っていた尋人も「大人しく座っていろ」という恋人の命令に従って、居間のソファで本を読んでいたのだが、それを読み終えた、ちょうどその時。
まるでタイミングを計ったかのように鳴らされた来客のベル。
「悪い。出てくれるか?」
「はい」
浴室の方から聞こえてくる声に即座に応えて、尋人は動いた。
「はい、どちら様ですか?」
インターホンで声を掛けると、返って来たのは思い掛けない人の声。
『おはよう、尋人君』
その穏やかに、優しく響く声は、間違いなく大樹裕幸、その人だ。
「先輩、裕幸さんです! 開けますね!」
言うが早いか、素足で玄関に立つと、手早く鍵を外して戸を開けた。
「おはようございます!」
「おはよう」
顔を見合わせて、もう一度朝の挨拶。
「今日はどうしたんですか? 先輩に御用ですか?」
「今日は尋人君に用があって来たんだ」
「僕に?」
「ん。それで…中に入れてもらってもいいかな」
「! あ、はい、もちろんです!」
済みませんでしたと謝りながら裕幸を部屋に招き入れると、中流も浴室の掃除を終えて居間に戻ってきたところだった。
「よっ。朝から悪いな」
「いいえ。早い時間の方が、こちらも都合が良いですから」
言い合う二人は、その距離を詰めると、小声で何かを囁いた。
裕幸が告げると、途端に中流の表情が歪む。
中流が返すと、裕幸の表情が曇る。
二人の、二人にしか判らない遣り取りに小首を傾げた尋人は、同時に胸に生じる鈍い痛みを自覚してしまった。
「…」
中流と裕幸は従兄弟同士。
実の兄弟のように育ってきた彼らの仲の良さは、それこそ最初から解っていることなのに。
「……」
バカだなぁ…と尋人は自分のことを思う。
こんなことで、中流から忘れられているように感じてしまうなんて。
「――出流さんは帰って来たがっていましたけど、中流さんに邪魔者扱いされるのは哀しいからって家に泊まって行きましたよ」
「そりゃ賢明な判断だ」
どう話が続いていったのか、中流の言い捨てるような台詞に裕幸が笑って、二人の話は済んだようだった。
中流は珈琲を淹れてくると言ってキッチンに入っていく。
「座って待っててくれ」
リビングのソファを指して言う彼の後に、尋人は慌てて裕幸に座るよう促した。
淋しいと感じている気持ち。
裕幸に対して、…嫉妬にも似た気持ちを抱いていることを気付かれたくはなかった。
「どうぞ座ってください。僕、先輩のお手伝いして来ます」
「ぁ、尋人君」
キッチンに向かおうとした少年だったが、しかし裕幸の穏やかな声に呼び止められる。
「片腕じゃ大変だよ。中流さんは、そんな君に仕事を手伝わせる人じゃないから」
「ぁ…」
「ね?」
だから隣に座ってと言われれば、尋人には拒む理由がなかった。
骨折したこの腕では、確かに中流が働かせてくれるわけがない。
やっぱり裕幸は中流のことを解っているのだと思い知らされたようで、俯く少年に、裕幸は苦笑交じりに微笑んだ。
全てを見抜いているような、穏やかな眼差しと共に。
裕幸が、昨夜の夢で自分が魘されていたことを知っているのだと尋人が知ったのは、それからすぐだった。
そして、そんな尋人を心配した中流が裕幸を呼んだのだと言うことも知る。
「俺と話していると気持ちが落ち着くって言ってくれる人が多いんだ。だから、尋人君の役に立てるんじゃないかなと思って」
そう説明する裕幸の言葉には、尋人も素直に頷けた。
どんな人が裕幸に話すことで救われているかは解らないが“聖域”を形にしたような裕幸の存在は、ただそれだけで相対する側の心を落ち着かせてしまうだろう。
「だから、尋人君には辛いことかもしれないけれど話してくれるかい? 君が、昨日の事故の時に見た三人の男の人達のこと」
「…あの人達のこと?」
「昨夜の夢――ひどく怖い夢だったと聞いているけれど、昼間に実際に見た人が夢で殺されるなんて不気味だろうし、…俺、実は夢占いが得意なんだ」
「――」
「っ」
隣で中流が吹き出しそうになったのが解った。
慌ててこらえたようだったが、裕幸が夢占いを得意としているのは本当の話だろうか。
「だから、まずは昼間に見た人達のことを教えて欲しいんだ。どんな服装だったとか、特徴とか…、なるべく詳しく」
「特徴、ですか…?」
夢占いに、何故、昼間のことまで知る必要があるのかと疑問に思ったが、そう言うのも憚られて駅前の光景を思い浮かべた。
と同時に裕幸に手を握られて、一瞬、そちらに意識が引き戻されるが、向けられる真っ直ぐな瞳を見返すと、不思議なほど澄んだ気持ちで、記憶はあの場所での光景を蘇えらせていった。
尋人は語る。
駅前の噴水広場。
四人くらいの小学生がリュックを背負って駅に走っていく姿。
ベビーカーを押して歩く夫婦。
腕を組んだ恋人達。
噴水の前の、三人の大学生。
「…」
一人は長髪を後ろで一つに結わえ、浅黒の肌に黒のタンクトップ。
二人目は、眼鏡をかけた知的な青年だ。
そして、三人目。
根暗な雰囲気が強く、淀んだ空気を纏い、丸まった背中には古びたリュック。
――夢の中、獣に殺された彼。
「…尋人君。夢で見た獣のことも覚えているかな」
「ぇ…」
「色は、何色だった?」
「色…」
問われて、思い出そうとすると、途端に背筋が寒くなり身体は震えた。
だが今までよりも強く握られた掌が、まるで守られているようで、尋人は勇気を出す。
思い出す。
「色は…黒っぽかったです…黒じゃないんだけど…」
「姿は? 犬に似ているとか、鳥に似ているとか」
「…犬…でもすごく大きかったです。虎とか…そういう感じでした」
「そう…、ありがとう」
思い出せる限りの映像を思い浮かべて答えた尋人に、裕幸は優しい笑みで礼を言う。
これが夢占いなら、礼を言うべきは自分のはずなのにと違和感を覚えたが、まだ占ってもらう前に感謝するのも奇妙な話だしと、複雑な気持ちで、居心地が悪くなる。
「ぁ、あの…裕幸さん。夢占いの結果…、どうですか……?」
「うん…ちょっと難しいけど…、尋人君、噴水の前の男の人達に“怖い”と感じたりしなかった?」
「――」
裕幸の指摘にハッとする。
「思いました! だって全然雰囲気の違う三人で…何か、変だったから…」
「その“怖い”っていう記憶が、事故のショックと重なって怖い夢になったんじゃないかと思うよ。事故なんて滅多に遭遇するものではないから、気持ちが不安定になるのも当然だし、あまり気にしない方がいいかもね」
「そうなんだ…」
「まぁ、素人の夢占いだから、どこまで当たっているかは自信ないけれど」
苦笑いの表情で言う裕幸に、尋人は左右に首を振った。
「裕幸さんに言われたら、その通りって気がします。…なんか、安心しました」
言いながら安堵の息を吐く尋人に、中流も表情を和らげ、裕幸と笑顔を見合わせた。
「それに“死”の夢は大半が良い事の前兆だと言われているんだ。尋人君にも、きっと近い内に良い事があるよ」
「…はい、ありがとうございます」
ペコリと頭を下げると、裕幸の笑顔はいっそう優しくなる。
尋人の内の不安を完全に消し去ってしまうだけでなく、その心を暖かなもので満たしてくれるような、美しい笑顔。
やっぱりこの人は何かが違うと、尋人は尊敬にも似た気持ちで裕幸を見返した。
それからしばらく六条家で尋人との会話を楽しんでいた裕幸だったが、昼前には用事があるからと立ち上がった。
だが、その直後。
「そういえば兄さんが、中流さんから佐伯さんの写真集を借りてきてくれって言っていたんですが」
「佐伯さんの? だったら何冊かあるけど…どれだ?」
「…何て言うタイトルだったかな。写真を見たので表紙は覚えているんですが…」
「だったら部屋に行くか? 直接見たほうが間違いないだろ」
中流とそのような話をして、二人で中流の部屋へ上がっていった。
尋人は、その間に珈琲カップなどを片付けてしまおうと動き始めたが、自分の夏休みの研究課題を思い出し、中流が持っている写真集というのに興味を惹かれる。
頼めば自分にも見せてくれるだろうかと思い、片手ながらも急いでカップを流し台に下げて階段を上っていった尋人は、しかし聞こえてきた声に足を止める。
「…から、念のために中流さんにも見てもらいたいんです。………どうです? 見覚えのある人達ですか?」
「……いや、見たことない」
「そうですか。…後で竜騎や、城島先輩達にも確認してみます」
「城島にも? ……あ。だったら使ってないカメラあるぞ? まさかあいつらにもこの方法で見せるわけにはいかないだろ」
「そうですね。…ポラロイド、使えますか?」
「ああ、問題ない」
写真集を借りているという会話では、決してなかった。
見覚えがあるとか、ないとか。
見せるとか、方法がどうだとか。
「……?」
それ以上、中流の部屋に近付くことも、離れることも出来ずに、悪いことと知りつつ二人の会話を盗み聞く結果になってしまった尋人は、すぐに自分の行為を後悔した。
「…それにしても困りましたね…、まさか尋人君が、昨夜の状況をあれほど正確に夢に見ているなんて…」
「……間違いないのか?」
「…残念ながら、尋人君が見たのは間違いなく妖獣です。殺された男性も同じですし…、恐らく妖獣の形態も尋人君が見たままでしょう。…死臭がせずに追跡出来なかった俺達にはとても貴重な情報になりますけど…」
「…なんで尋人が妖獣なんか夢に見るんだ…っ…?」
「……解りません」
「裕幸…」
「すみません。けれど…本当に、狙われているわけでもない尋人君が妖獣の夢を見るなんて、通常では考えられないことなんです。…人を食らった獣から死臭が感じられないというのも異常ですし…、今回のこれは、一筋縄ではいかない事態だとしか言いようがありません」
「…」
「…まだ話せないという中流さんの気持ちも解りますが、…尋人君には、一日も早く話した方がいいような気がします」
「……」
「夢も、二度、三度と続くかもしれない。少なくともこの男性には、一緒にいた友人が二人いるんですから」
「………解ってる。…けど…」
「中流さん…」
「解ってるけど…、…尋人には話したくないんだ……っ」
中流の悲痛な声に圧されるように。
「…っ…」
尋人は足音を立てぬよう、息さえ殺しながら下がっていった。
階段から足を外し、倒れこむようにリビングのソファに座った。
それきり、焦点すら定まらない。
「…先輩……?」
いまの会話を、どう捉えればいいだろう。
あの二人の会話の意味は?
…解らない。
解らないけれど、解るのは。
――…尋人には話したくないんだ……っ……
解るのは、中流は尋人に話したくないのだということ。
それだけだ。