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二度目の楽園 六

 あの穏やかな従弟が、一体どういう理由で出流にだけ険のある態度を取るのだろう。

 過去を思い返してみても、あの優しい従弟は出流にだけ一線を画して付き合っていた。

 裕幸には兄が一人いて、この兄・大樹裕明は出流と同じ年齢。小学校から高校を卒業するまでは同じ学校、その後も今現在までずっと親しく付き合っている間柄だ。

 兄同士は仲が良く、弟同士も親しいのに、出流と裕幸だけは昔からあのままだ。

 以前、興味本位で「どうして仲が悪いの」と尋ねると、出流は不敵に笑いながら、

「俺は裕幸が好きだが?」と答え、一方の裕幸は苦虫を噛み潰したような顔をして、

「嫌いじゃないからイヤなんです」と言った。結局、納得のいく答えは得られないままだ。

「あの子達は、本当は仲がいいのよ」と、そう言って中流を尚更混乱させたのは、異国で生まれた祖母だっただろうか。

「…ほんと。何であぁ仲が悪いんだか…」

 無意識に呟いてから、自分を見上げる少年の視線に気付く。

「ぁ、ごめん、今のは兄貴と裕幸の話しな」

「…はい…」

 尋人は掠れた声で答え、また俯いてしまった。太腿の上の手には中流が買ってきたスポーツドリンクの缶がしっかりと握られていたが、何でもいいと言われ、無難なものをと選んで買ったそれは、まだ半分もなくなっていない。

 中流には正確な理由など知りようがなかったが、ひどく落ち込んでいる少年は飲料を口にする元気もないらしい。

 これ以上、尋人を知らない人間に会わせまいと考えた中流は、社員がとっくに帰ってしまい、静まり返った六階ホールに彼を連れてきていた。

「…大丈夫か?」

 問いかけると、尋人は力なく頷いてそれに応える。

 だが、全く大丈夫そうに見えない様子に、中流の心はざわついた。

「…撮影見学、つまらなかったか?」

「! 違っ…」

 思っても見なかった相手の言葉に、尋人は慌てて首を振った。

「違います! 楽しかったです!! 知らないことたくさん教えてもらえましたし、裕幸さんや…、お兄さんに…会えたのも、すごく嬉しかったです…っ」

 力説して肩を上下させる尋人の頭を、中流は複雑な表情で撫でた。

「…全然、笑わないから…、退屈して疲れたのかと思った」

「退屈なんか…。本当にスゴく……勉強にもなりました。見学させて下さって、ありがとうございました」

「…」

 ――感謝されたいのではない。

 中流は、尋人に喜んで欲しかったのだ。

 辛かったり、苦しかったり…、そんな思いをさせたくなくて、少しでも元気になってほしくて、楽しんでもらいたくて誘ったのに、今の尋人の姿を見ていると――胸が痛い。

 自分には尋人を微笑わせる力もないのかと、自分自身に腹が立つ。

「先輩…?」

 不安げな眼差しで自分を見上げる少年の、その表情に苦しくなる。

 こんな顔をさせたいわけじゃ、決してなかった。

「なんで…」

 尋人の頭に置かれていた手が、その肩を引き寄せる。

 もう片方の手が暖かな背を抱き締める。

 少年は突然の展開に目を見開き。

「せんぱ…」

 呟きに重なって、無人のホールに缶の落下音が高らかに響き渡った――……。

「…感謝されたくて、一緒にいるわけじゃないんだ……」

 ありがとう、なんて。

 そんな言葉はいらない。

 欲しいのは一片の曇りもない笑顔。

 幸せを感じている尋人の笑顔だけなのに。

「俺じゃ力になれないのか……?」

「せ、先輩…、っ!」

 掠れた声が耳元を掠めた、その刹那。

 急な力に押し返されて、中流はようやく我に帰る。

 そして自分が何を仕出かしたのか自覚すると同時に、彼を押し戻した尋人の、怯えに似た表情で見る目線の先に裕幸がいるのを知って、中流の心臓は大きく跳ねた。

「ぁ…、悪い」

 急に居心地が悪くなって、トイレに行くと告げてその場を離れた。

「…すみません」という、裕幸の申し訳なさそうな声を聞いて。





 中流が離れて、その場に残された尋人は、裕幸の目線から逃れるように顔を背け、口を閉ざした。

 そんな少年を裕幸はどう思ったのか、何も言わずに近付き、足元に転がった缶を拾い上げる。

「…足元。滑らないように気を付けて」

 労るような彼の声に、尋人は無言で頷いた。





 洗面所で頭から水を被った中流は、顔を上げ、雫が落ちるのも構わずに鏡の中の自分を睨み付けた。

(何を考えてるんだ、俺は…)

 いくら自分の無力さに腹が立ち、自分を見失いかけていたとは言え、尋人を抱き締めるなんてどうかしている。

 よりにもよって、男の彼を。

(…けど……)

 けれど抱き締めた体の細さや、温もりを、無自覚であったにも関わらず中流の腕は覚えていた。

 自分と同じ男だと認識するには頼りなさ過ぎる尋人の肢体。

 もしもあの時、裕幸が現れず、尋人が自分を押し返したりしなかったら何をしていてか判らない。

 抱き締めるだけで済んだかどうか…。

「…嘘だろ……」

 思わず声に出した呟きに、いつ現れたのか、タオルを持った裕幸が微笑する。

「何が嘘なんですか?」

 聴く側を落ち着かせる静かな声音だ。

 突然声を掛けられても、きっと来るだろうと思っていた中流は、別段驚くことなく背後を振り返った。

「…タオルなんか、どこから持ってきた?」

「そこの控え室からです。大きな水音がしたので、きっとこうなっているんだろうと思いましたから」

「そっか。…サンキュ」

 弾力のある白いタオルを受け取り、頭を乱暴に拭きながら、独り言のように呟く。

「……驚いただろ」

 言った言葉に、裕幸はしばらく沈黙した後で頷いた。

「そうですね…。驚かなかったと言ったら嘘になりますけど」

「――けど?」

「出流さんじゃあるまいし、中流さんのすることには意味があると思っていますから」

 裕幸の言い方に、中流は笑ってしまいそうになる。

「意味? ンなものないさ。俺だって解ってない…、無意識にやっちまったんだからさ…」

「それは違いますよ。無意識の行動ほど意味のあるものはありません。気が付いていないだけで、中流さんにはそうする理由があったんですよ」

「…裕幸が言うとそれっぽく聞こえるな」

 困ったように笑う中流に、裕幸も笑みを零す。

「でも間違ってはいないでしょう? 出流さんみたいに節操がないわけじゃないんですから」

「それはまぁ…。けど何でそんな兄貴にだけ風当たりが強いんだ? 嫌いなわけじゃないんだろ?」

「…嫌いじゃないから嫌なんです」

 以前と同じ返答をされて、これ以上は聞くだけ無駄だと悟った中流は早々に話題を転じた。

 そもそも本当に大事なのはこちらの方で、話しづらいことをはぐらかすのは卑怯者のすることだと自分自身を叱咤する。

「あの、さ…、俺が立った後、尋人…、どうしてた?」

「何も言わずに座っていました。今はホールで一人きりですから、早く戻ってあげた方がいいと思いますよ」

「うん…」

「何か問題でも?」

「…いや。やっぱ…、あんなことした後だしさ」

 中流が言いづらいながらも白状すると、裕幸は表情を和らげた。

「悪いと思っているなら尚更です。気まずいのは尋人君も同じなんですから、中流さんがしっかりしないでどうするんです」

「けど…」

「まだ何か?」

 裕幸にじっと見られて、中流はとうとう観念する。

 本人には言わないが、中流は兄と同じ顔をした従弟に昔から弱かったのだ。

 言葉を濁しつつも、誤魔化さずに自分の心情を吐露した。

 尋人への気持ちが、エゴなのか同情なのか、それすらも判らないままここにいること。

 元気にしてやりたいのに、自分にその力がないのが悔しくて、それを自覚しても傍にいたいと思うこと。

 先刻のスタジオ内、彼が裕幸の言葉に頷く姿を見ていると面白くなかったことも、躊躇いつつも正直に話した。

「俺さ…、なんか、すごい自分勝手で独占欲の強い、最低な男みたいじゃないか…?」

「――」

「…裕幸?」

 呼びかけられ、不審な目で見られて、絶句していた裕幸は我に返るなり勢い良く吹き出してしまった。

「! 何だよ!」

「あた…中流さん…っ、それは…それ…っ」

「裕幸!?」

 何を笑われているか判らないまま顔を赤くした中流を見て、兄が節操無しなら弟の方は天然だと、裕幸は改めて思い知って笑いが止まらない。

「いったい、なんだって言うんだよ」

「聞けば聞くほど、疑いようがない気がするんですけど…」

「?」

「それをそのまま尋人君に伝えたら笑ってくれると思いますよ? それも中流さんが一番望んでいる笑顔で」

 裕幸の言っていることは、聞けば聞くほど理解不能だが、尋人が笑ってくれるというフレーズには心が躍る。

「でも…、中流さんが自覚するまでは少し待った方がいいかもしれませんね」

「何だよ、そりゃ」

 眉を寄せて言う中流に、裕幸は相変わらず笑いながら、とにかく尋人の傍へ戻るよう中流を促す。

「どうぞお幸せに」

「?」

 意味が解らないまま、中流はいささか乱暴に洗面所から追い出された。

 自分が去った後で、裕幸がその背を見つめて優しげに微笑んだことなど知る由もないまま。





 なるべく早足でホールに戻ると、最初に、俯いたまま座っている少年の背が見えた。

 中流は歩調をゆっくりにし、尋人の隣に立つ。

「っ、…先輩…」

 当然といえば当然の、うろたえた様子の尋人に、中流はぎこちなく微笑んだ。

「…悪かったな、さっきは」

 抱き締めた件を詫びる中流に、尋人は慌てて立ち上がり、首を振る。

「そんな…謝らないで下さい……、だって、僕は…」

「? 尋人?」

「だって僕は……」

 それきり言葉を切って、俯いてしまった尋人と、言葉の見つからない中流の間には目に見えない気まずい空気が漂った。

「えっと、さ…、尋人……?」

 相手を気遣った静かな呼び声。

 反応があったのは、それから優に一分以上が経過してからだ。

「…先輩……の、お兄さんて…、どういう人なんですか…?」

「――兄貴?」

 聞き返す中流の目に、ひどく必死な様子の少年が映る。

 今にも泣き出しそうなその姿に、中流は少年の質問の意図がいまいち理解できないまま答えた。

「兄貴は、一言で言うなら天才。性格悪くて女癖は最悪だけど、そういう短所を全部すっ飛ばして業界の人間を満足させる能力を持った人間だよ」

「…女性が、好きなんですか……?」

「――」

 唐突な質問に虚を突かれつつ「まぁそうだろうな…」と、困った顔で頷いた。

「だと思うけど…それがどうかしたのか?」

「…だったら…なんで……っ」

「尋人…?」

 中流は言われている意味が判らずに眉を寄せ、肩を震わせている少年に近付いて手を伸ばす。

 だが尋人に触れようとした瞬間。

「触らないで下さい!」と、その手を叩き払われてしまった。

 驚く彼を、尋人の潤んだ目が見上げる。

「触らないで…、も……」

「…どうした尋人。何か、兄貴に嫌なこと言われたのか?」

 中流は本当に判らなかった。

 尋人の様子がおかしかったのは自分の突然の行為が原因で、出流が現れてから口数が減ったのも緊張しているからでしかないと思っている中流には知りようがない。

 ただ、このままは嫌だと、それだけは痛切に思った。

 こんな態度を取られて、悲しくて、腹立たしくて、理由を聞かない内は帰してなるものかと思った。

 それが尋人をどれほど追い詰めるのか、それすらも解らないまま――。

「尋人」

「っ、や…」

「尋人!」

 嫌がる少年の手を押さえ、強い口調で呼びつける。

 肩を震わせ、必死で涙をこらえる少年の姿が痛々しい。

 こんな姿を見たくなくて、そんな思いをさせたくなくて、自分の傍にいるときだけでも安らいで欲しいと願っていたのに、どうして突然、こんなことになったのか。

「なに…、どうしたんだよ尋人。兄貴が何か言ったなら俺が謝る。二度とそんなこと言わせないようにするから…」

 中流が言うと、尋人は激しく首を振る。

「違うのか? ならやっぱり俺が…」

 最後まで言わせずに、それも首を振って否定する尋人。

「だったら」

「怖いんです……っ」

 ようやく口を開いた尋人の第一声。

 何が怖いのか、それを中流が尋ねるより早く少年は叫ぶ。

「怖いんです……! お兄さんにバレて…っ、いつ先輩にも知られるかと思ったら怖くて…知られて嫌われるのが怖くて……っ」

「…、何が兄貴にバレたって?」

 自分の兄がこの少年に何を言ったのか、全部を知っているわけではない。

 従弟の撮影が終わってすぐ、自分の仕事のために外に出ていた中流は、自分が戻ってくるまでの間に彼らがどんな話をしていたかなど知るはずがない。

 兄が何を言ったのか、中流が聞いたのはたった一つ。


 ――中流。突然の宗旨替えは何か理由があってのことか?


 その、たった一つで……。

「宗旨替え…?」

「っ!!」

 ふと呟いたその言葉に、尋人の表情がはっきりと変わった。

「それを知られたら俺に嫌われるって…」

 中流にはまだ解っていない。

 けれど尋人は、その呟きを「知られた」と判断した。

「…僕は……、僕は男の人しか好きになれないんです…っ」

「――」

 突然の告白に絶句した中流は、思わず尋人の腕を掴んでいた力を緩め、その隙に距離を取られる。

「そんなの気持ち悪いでしょ…?」

「ひろ…」

「嫌ですよね…、けど、僕は……」

 僕は。


 ――先輩が好きなんです――……。


 冷たい風に吹かれて、その肌寒さにようやく我に返った中流は、広く明るいホールに、たった一人で立ち尽くしていた。

 好きだと告げて、もう会いませんと言い放って去っていった少年の残像を見つめていた。

「…尋人……」

 呟く声は虚空にかき消されて、誰の耳にも届かない。

「何…。本気で……?」

 問いかけに答えてくれる誰かもいない。

 応える術を持たない冷えた空気だけが、彼の傍らを静かに包んでいた…。




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