貴方の翼が堕ちても 六
好きな人に触れられて、平気でいられる自信など、あるわけがない。
過去は、現在もこの心を苛んでいるけれど、中流に向かう想いに嘘はないから、――反応してしまうだろう身体を見られることが怖かった。
「……っ…」
この夜、尋人は久々に一人で眠る。
事故の話を聞いて仕事を途中で放り投げてきた中流は、持ち帰った仕事を済ませてから休むと言ったからだ。
一人で眠るベッドは広すぎて、淋しいと思う。
けれど今夜は、これで良かった。
浴室で触れられた感触は二、三時間で拭われるものではないし、もし隣に彼がいれば、何が起きてしまうか判らない。
それほど、尋人の身体は今もあの時の熱さを鮮明に覚えているのだ。
――尋人、これ虫刺されか……?
他意無くうなじに触れた指先。
なのに、首筋をなぞる熱。
「…っ…」
尋人は布団の中で身体を丸め、左手でうなじを押さえる。
「僕…変だ……っ…」
あれほど行為を怖がり、ずっと中流に我慢を強いているのは自分なのに。
それは恐怖の象徴だったはずなのに。
何故、感じてしまったのか。
「……」
触れられるのは怖い。
けれど感じてしまう。
だって、中流は大切な、大好きな恋人だから。
「……?」
変だ、と思った。
今の自分の気持ちを追えば追うほど、その中の矛盾が浮き彫りになる。
解らなくなる。
「僕…」
――僕が怖いのは、一体、なに……?
中流ではない。
彼が傍に居てくれると安心する。
抱き締められると嬉しいし、キスされると、ドキドキした分だけ幸せな気持ちでいっぱいになる。
触れられるのは、もっとドキドキして。
もっと幸せな気持ちになる。
中流との行為に恐怖などあるわけがないのに。
解っているのに。
だったら、怖いと感じるのは、何に対してなのか。
「……っ…」
考えようとすると、直後に脳裏を過ぎるのはあの日の男達。
押さえ付けられ、自由を奪われて、耐えるしか出来なかった夜。
「先輩…っ…」
丸くした体をいっそう縮めて布団の中に潜り込む。
怖かった。
それが、怖かった。
けれど。
――…尋人……
「――…」
中流の声に救われる。
彼の隣にはいられないと、一度は死んだ尋人の想い。
取り戻した記憶と共に、もう一度帰ることを許された想い。
彼がいるからこそ、ここにいる自分なら、中流に対して“怖い”と感じるわけがなかった。
だから。
だから―――。
***
闇夜を走るのは誰?
追いかけるのは?
叫ぶ。
何かを。
憎む。
誰を。
それは、獣――。
***
「――っ、――!!」
遥か遠く、光りが見えた。
「尋人!」
力強い呼び声に、尋人の意識が引っ張られる。
「おい尋人! しっかりしろ!」
「…っ……!」
ハッとして、中流の声をそれと認識すると同時、全身を覆う痺れと、強い吐き気。
「…っ…せ…ぱい…」
「尋人!? おい大丈夫か!?」
「っ…は…」
「は?」
「吐き…そ…」
「! ちょっと待て!」
言うなり、中流は布団を剥いで少年の細い身体を抱き上げると二階の洗面所に飛び込んだ。
「ほら、もう我慢しないでいいぞ? 尋人?」
「…っ…」
蛇口から勢いよく放出される水の音。
自分を支える中流の力強い腕と、温もりと、彼の匂い。
五感が得る現実の感覚に、次第に身体の痺れも吐き気も薄れていった。
「尋人…どうした? 腕…のせいか?」
骨折したことにより、発熱などで体調を崩すこともあるようだが、それにしても尋人の不調には尋常でないものを感じた。
何しろ、酷く魘されている声がして彼の部屋に入ったのだから。
「…おまえ、魘されていたから起こしちまったけど…、悪い夢でも見てたのか?」
「…っ…ぅ…」
「尋人」
背中をさすってやりながら、辛そうに顔を歪めている中流に、尋人は力なく頷いて見せた。
「…イヤな…夢を…」
「うん」
「……人が…殺される夢……」
「――何だって?」
「獣…襲われて…」
「――」
「……見たこと…ない…獣で……っ」
尋人の説明に、中流の目が見開かれていくのを、幸か不幸か少年は気付かなかった。
「…の…男の、人…、事故…時に…見た人…」
「尋人…」
「あの人…殺され…っ…」
駅の正面。
水飛沫を上げる噴水の傍。
そこにたっていた三人の大学生風の男達、その中の一人が獣に襲われていた。
眼鏡をかけ、丸まった背中に古びたリュックを背負っていた男だ。
何度も後ろを振り返りながら、必死の形相で逃げていたのに、逃げ切れなかった。
彼が、獣に噛み砕かれる瞬間。
獣の滑る牙と、滴り落ちる血の匂いまでが漂ってくるようだった。
「尋人…」
「なんで殺され…あの人…っなんで…」
「尋人…!」
痺れも吐き気も治まってきている一方で真っ青な顔の尋人を、中流は強く抱き締めた。
「そんなの夢だ! ただの夢だ…誰も死んだりしてない……っ」
「…っ…」
「誰も死んでない…!」
「先輩…」
尋人は、自分を包んでくれる温もりにしがみ付きながら、込み上げて来る涙を必死に堪えていた。
「…怖かった…っ…」
「あぁ…でも、夢だから…」
中流はなおも腕に力を込めて繰り返す。
「そんなのは、ただの夢だから……!」
***
その深夜。
怯える尋人をどうにか寝かしつけた中流は、部屋の外で従弟に電話をしていた。
自分の予想が外れていなければ、あの従弟はきっとまだ起きている。
出来れば、自分の予想など当たって欲しくはなかったけれど、裕幸はコール二回で出てしまった。
『中流さん? どうしたんですか、こんな時間に』
「…おまえこそ、なんでこんな時間まで起きてるんだ」
『それは…』
言葉を濁す従弟に、中流は自嘲した。
バカだ。
これ以上のことには口出ししないと言ったばかりなのに。
「…裕幸。尋人がマズイものを見た」
『尋人君が?』
「見たことのない獣に人が殺される夢だ」
『――』
「それも、今日の事故の時に見た男だって言うんだ。裕幸。……何があった……?」
中流の問い掛けに、裕幸はしばらく言葉を探しているようだった。
兄弟相手に嘘がつけないことは解っているから、なるべく刺激の少ない言葉を選ぼうとしていたのだろう。
『……妖獣です。人を襲いました』
「……それで」
『襲われた大学生は…亡くなりました。男性です』
「…」
『妖獣は、いま兄さん達が追っていますが、人を襲っていながらほとんど死臭を感じさせないので発見するのは難しいと思います』
「………そうか」
『中流さん、大丈夫ですか?』
「ああ…」
大丈夫かと問われて、頷くけれど、その力の無さは裕幸の不安を煽るだけだった。
『中流さん、明日、そちらにお邪魔してもいいですか?』
「…おまえが…?」
『ええ。父さんが感じた妖の気のこともありますし…、もし尋人君の視た通りのことが実際に起きたのだとしたら、彼の視たものを確認したいんです』
「……解った」
『ただ、忘れないで下さい。尋人君が妖に狙われているわけではありません。それは確かなんです。……信じてください』
「解ってる」
それには即答し、彼らは電話を切った。
明日来ると言うなら、他の話はその時でいい。
「……」
中流は、電話を手に持ったままその場に崩れ落ちた。
「…っ…なんで…」
尋人が妖の夢を見た。
その意図するところに、中流はとてつもない不安を禁じ得なかった。