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貴方の翼が堕ちても 五

 七時過ぎに自分が用意した夕食を食べ終えた中流は、箸を置いた後で、まだ食べている尋人に話し掛けた。

「食事終わって、少し休んだら、先に風呂入れよ」

「でも後片付けが」

「片腕じゃ大変だろ。当分は俺が…」

 そこまで言いかけた中流だったが、骨折した腕で湯船につかってはならないことを思い出した。

「そっか…けど日中にあの暑さで風呂入れないのはキツイよな…シャワーなら構わないかな…」

 だがシャワーだけで入ったとして、片腕ではそれも大変なことではないだろうか。

「…?」

 しばらく悩んだ末、中流は尋人を見返す。

 役得と言えば役得だ。

「尋人、俺がシャワー入れてやる」



「待ってください! 今日くらい入らなくても平気ですから!」

「汗かいて気持ち悪くないのか? それに事故に巻き込まれて土埃だって浴びただろうし」

「……っ…でもいいです! 我慢します!」

「尋人」

 真っ赤になって居間の隅に逃げ込んだ尋人は、とにかく中流に捕まらないよう必死だった。

 彼の言うとおり、汗もかいたし土埃も被った。

 シャワーに入って頭や身体を洗いたいのはやまやまだが、かといって中流に入れられるとあっては拒まないわけにいかないのだ。

「…」

 よっぽど恥ずかしいのだろうと、中流にもそんな相手の気持ちは判った。

 だが、彼にもここで退けない理由がある。

「尋人…、おまえの部屋のシーツ、昨日変えたばかりなんだぞ」

「ぇ…」

「枕カバーもだし、布団だって干したばっかりのふわふわだ。それをたった一日で汚す気か?」

「そ、そんな…」

「そもそも、その服だって一人じゃ脱げないだろ? それともハサミで切るのか?」

「〜〜〜っ」

「俺が手伝うなら一緒だ。ついでにシャワー浴びてサッサと洗って綺麗になろうぜ? 俺は誓って疚しいことはしないから」

「……っ…」

「俺を信じろって」

 その言葉は、裏を返せば「俺が信じられないか?」と言っているも同然。

 それでも「嫌だ」と言おうものなら、中流の想いすら拒んでしまうことになりかねない。

「な。尋人」

 差し出された手を払うことなど出来るはずがなくて、尋人はとうとう中流に捕まったのだった。



 脱衣所で最初に解かれたのは肩から提げた三角巾だった。

 次いで上着を脱がされ、腕に大きなビニールの袋を被せられた。

 最後に下を降ろされそうになって、流石にそれは自分で脱ぐと言い張った。

 中流に、先に浴室に入ってくれるよう頼み、下着も取ってから腰にタオルを巻くつもりだったのだが、片手ではタオルを結べないことに気付き、泣きたくなる。

「〜〜〜…っ」

 どうしてこんなことになるのか。

 なんで腕を骨折なんてしてしまったのか。

 本当に泣きそうになりながら、ビニールの巻かれた右腕でタオルを押さえるようにして浴室の戸を開けた。

 もう、なるようにしかならない。

「――」

 Tシャツと下着だけを身につけた中流は、浴槽の縁に座って尋人が来るのを待っていたが、実際に下肢にタオル一枚だけの尋人の姿を見て、すぐには言葉が出てこなかったらしい。

「――…」

「……っ…」

 互いに見合ったままの沈黙は、ほんのわずかのことだったが、それを数分間も続けたような気になりながら、中流は慌てて尋人を手招きした。

「尋人、ここ座れ。先に頭洗う」

「……はい…」

 今にも消え入りそうな小声で答える少年に、中流は思わず苦笑いしてしまう。

 気持ちは判る。

 だが「何もしない」という自分の言葉は信じて欲しいと思った。

「ここ座って、背中倒せ。俺の脚を背もたれにしてさ」

「足を…?」

「そ。床屋とかと同じ体勢で洗った方が楽だろ? 腕にもお湯掛からないで済むし」

 なるほどと思いながら、言われた通りに中流の脚を背もたれにして身体を傾けた。

 当然、床屋の椅子のような心地よさはないし、少なからず尋人自身の腰にも負担は掛かるけれど、何分も同じ体勢を強いることはなかったし、頭を現れる手際の良さは、正直に言って気持ち良かった。

「…先輩、人の頭を洗うの、慣れているんですか?」

「うん? 慣れてるっつーか…昔は裕幸と一緒に風呂入ったりして、洗ってやってたからな」

「裕幸さん、と?」

「たまに汨歌も一緒になると、どっちが裕幸の頭洗ってやるんだってケンカになってさ…、俺らがいつまでもケンカしているもんだから、あいつがのぼせて倒れて、家族中大騒ぎになったこともある。……って、本当に昔の話だぞ? 幼稚園の時とかさ」

「はい」

 解っていますと小さく笑う尋人に、中流はほっとした。

 少年が緊張しているのが伝わってくるから、彼の笑顔を見ると救われる気持ちになる。

 中流は喋った。

 実の兄弟のように育ってきた従兄弟が多いため、風呂というキーワードから探せば様々な記憶が次から次へと思い出されたし、恥をかいたものなら、尋人を笑わせる丁度いいネタになったからだ。

 そして尋人も、髪を洗われながら瞳を閉じていると、自分がほとんど全裸に近い状態であることを忘れてしまう。

 中流が普段と変わらない調子なのも大きかった。

 微温湯で濡らしたタオルで丁寧に顔を拭かれるのも心地良くて、自然と笑みが毀れた。

 ――だがそれも、ここまで。

 いざ身体を洗うとなると、途端に尋人の身体が強張る。

「尋人。そんな緊張するなって…」

「はい…判っている…です…けど…」

「…」

 必要以上に固くなった身体が、可哀相だと思う。

 だから、さっさと洗って、この場から解放してやりたいと思った。

 だからそれは、本当に。

 嘘ではなくて。

 たまたまの、――。

「? 尋人、これ虫刺されか?」

「虫、刺され…?」

 首筋の、赤い腫れ。

「ここ」

 泡のついたうなじに、滑る指先。

「っ…」

「ぇ…」

 その時の、少年の身体の反応に気付いてしまった。

 やばい、と思う。

「ぁ…悪い、後で薬塗っておこうな」

「…は…はぃ…」

 震える声が。

 俯いた表情が。――熱い。

「……っ」

 中流は息を呑んだ。

 途端に、これは非常に危険な状況だと悟らないわけにはいかなかった。

 中流は急いで身体を洗ってやり、それは尋人にしてみればビックリするほど適当な手つきだったけれど、今ばかりはそれが有り難い。

 前も、可能な限り素早く手短に終らせて洗い流した。

 その間、わずか一分足らずだ。

「…っ」

「ぁ…」

 中流は急いで立ち上がると、脱衣所のカゴから新しいバスタオルを手に取り、尋人の頭に被せる。

「わっ…」

 わしゃわしゃと髪を拭き、身体の水気を取ると、浴室を追い出して用意していた浴衣を着せる。

「ぇ、え。先輩?」

「一番楽だろ」

 言葉少なに返して帯を締め。

「髪、後で乾かす、居間で待ってろ」

 言い終えると、一人で浴室に戻り戸を閉めた。

「――?」

「……っ」

 戸を挟んで内と外。

 尋人は戸惑いながらも、下着をつけていないことに気付いて、慌てて動き出した。



 一方の中流は、浴室にしゃがみ込み、本日二度目の、己の不甲斐無さに落胆した。

「俺、バカだ…」

 乱暴に髪を掻き回しながら独り呟く。

「浴衣って…コンチクショー…っ…」

 とてもじゃないけれど、今夜は一緒に眠れそうにない。

 だって。

 まさか。

 この自分よりも先に、尋人の方があんな顔を見せるなんて、考えてもみなかったんだ。

 ――あんな顔。

「好きだ」と言葉で伝えられるよりもクる。

「あ〜〜〜クソッ! なんでアイツあんなに可愛いかなぁっ」

 中流にとっては切実な悩み。

 しかし端から見れば単なる惚気。

 贅沢過ぎる悩みである。




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