貴方の翼が堕ちても 四
中流の母親の実家である大樹家には、一族だけが知る秘密がある。
中流の祖父、大樹嘉武氏の結婚した女性が異世界の血を継ぐ人物だったことから、その子供達には特殊な能力が受け継がれていったのだ。
この世には“妖”と呼ばれる魔物が存在し、大樹家はそれらを種類に応じて“妖魔”“妖獣”と呼んでいた。
“妖魔”は気体状の妖で、人の心に住み憑き人間の生気を食らうもの。
“妖獣”は獣の姿で人の血肉を食らうもの。
そしてこれ等を退治する力が、大樹家に受け継がれた能力なのだ。
***
菊地は二度目。
尋人は何度目かの訪問になる大樹家は、病院から車で二十分ほど南下したところにある。
住宅街から多少離れ、雑木林を挟んだ小高い丘の上に建った西洋風の白亜の館がそれだ。
正門を抜け、家屋の脇に駐車用に造られたアスファルト上に車を停めた中流は、尋人と菊地、二人を促して玄関に向かった。
だが、その手が呼び鈴に届くより早く、勢いよく開け放たれた玄関の戸。
「え」
「!」
「――」
そこから現れた大樹裕幸は、不安に揺らいだ目を少年達に向けて固まってしまった。
「――」
「っ…?」
「………」
他の誰でもない、今まで冷静で穏やかな姿しか見たことのなかった裕幸の、こんな姿に、少年達はもちろんのこと血縁である中流も言葉が出なかった。
しばらくの沈黙が続き。
「…ぁ……」
裕幸の表情の強張りが解けると、それだけで空気が一変した。
深く息を吐くと同時に力が抜けたのか、途端に穏やかな笑顔を覗かせた従弟に、少年達はもちろんのこと、見慣れているはずの中流でさえ顔が赤くなる。
「ひ、裕幸…?」
「あぁ…済みません。尋人君と菊地君が、思っていたより元気そうなので安心しました…父さんから話を聞いた時には、心臓が止まるかと思いましたけど」
静かに語ってから、尋人の吊られた右腕に視線を落とす。
「骨折だなんて…大変な目に遭ったね」
「ぃ、いえ…これくらいは全然…」
裕幸の眼差しは、ただ見られているだけでも少年達の胸を高鳴らせる。
全体的に色素が薄い印象を受ける大樹裕幸は、人形のように整った顔立ちと華奢な体躯も合わさって、その存在自体がひどく儚いものに感じられる人物だ。
そのために性別の判断すら難しく、中流から従弟だと聞いている尋人や菊地でさえ、目の前の人物が“男”だと完全に信じているわけではない。
それほど、裕幸からは性的なものが一切感じられないのだ。
そんな、聖域を形にしたような美貌の人に見つめられて、心臓が騒がない者などいるわけがない。
「…この人には、何度会っても緊張しそうな気がするぞ」
「僕は毎回緊張してる…」
小声で言い合う少年達の会話を知ってか知らずか、裕幸は中流と二、三の言葉を交わした後で二人を屋内に招きいれた。
「いつまでも外で、ごめんね。どうぞ入って。事故に巻き込まれるなんて普通のことじゃないんだし…、少し家で休んでいって」
「はい」
「お邪魔します…」
「尋人君はカフェ・オレでいいかな? 菊池君は? 甘くないのがいいんだったよね…アイス・ティーにしようか」
いつもと変わりない穏やかな声に誘われて、尋人と菊地は大樹家に案内される。
裕幸が彼らに何を出そうかと考えているのを聞きながら、前回、ここを訪れた時に飲ませてもらった味を思い出した二人は、あれをもう一度飲めるのだという期待に表情を輝かせたのだった。
「…中流さん」
尋人と菊地をリビングで休ませている間、中流と裕幸は二階のホールに上がっていた。
小声で話しながら見下ろす先には、天井が三階まで吹き抜けになっているリビングの少年達。
いま、彼らの正面に座って話し相手をしているのは裕幸の母親である。
「今回はともかく、いつまでも尋人君に“大樹”の秘密を隠し通すことは出来ないと思いますよ?」
「解ってる。……だけど、……まだ言えないんだ…」
「本当のことを話しても、彼はちゃんと理解してくれるのでは…?」
「あぁ……」
「……だったら」
「いや。けど……、尋人は、優しすぎるから……」
「…」
「優し過ぎるから…言えないんだ……」
辛そうに、顔を歪めて言う中流を見ていると、自分が口出しできることではないのだと裕幸に思わせた。
「……。…そうですね。…とりあえず、父さんの心配が杞憂で安心しました」
言うと、中流も大きく息を吐く。
「…ほんと、こっちは真剣に焦ったんだぞ、伯父さんから尋人に妖の気が纏わりついているなんて言われて…」
驚かせないで欲しいと真剣に願う中流だったが、病院に妖の気配を感じて探っていたところに、それを身に纏った尋人達を発見してしまった大樹医師の驚きは中流以上だっただろう。
裕幸には及ばずとも、大樹に流れる異郷の血を濃く受け継いでいる大樹医師は、敵対する魔物の気配を感じ取る為の五感が鋭い。
それを知っているからこそ、尋人が妖の気を纏っていると聞いた子供達は気が気ではなかったのだが、今回に限って言えば、五感が鋭過ぎたが故に、尋人に纏わり着いていた気に気付いてしまったわけで、それが甥っ子の大切な相手であると思えばこそ、心配して彼らに連絡をしてきたのだ。
「俺達の傍にいれば、妖に狙われても不思議はないからな…本当に、尋人が狙われていたらどうしようかと思った…」
「ええ。……でも、今回は安心して下さい。あの気は、事故に遭った直前に狙われている人が尋人君の傍にいたために、その残り香のようなものをつけてきてしまっただけですから」
「…そう聞くと複雑だな。尋人が無事でも、他に狙われている奴は確実にいるってことだろ…?」
「そのことについては、俺達が調べて解決します」
だから無茶なことはしないで下さいと、言い聞かせるように返してくる従弟に、中流は微苦笑で応えた。
「解ってる。こっから先には、俺は一切口出ししない。…俺には、妖と戦うなんて出来ないからな…」
「中流さん」
戦えないことを、悪いことのように言う中流に、裕幸は静かに首を振った。
「そんなふうに言わないで下さい。中流さんには中流さんの力があるんです。そしてその力は、貴方が最も大切だと想う人のために使ってください」
「…」
「それこそが、俺の願いです」
「……っ…」
そうして裕幸の優美な顔に浮かぶ微笑は心からの自然な表情。
この従弟の願いは本当にそれだけなのだと解ってしまうから、中流の胸中には遣り切れない思いが募るのだ。
大樹の血に連なる者として。
異郷の血を継ぐ者の一人として。
だが、持ち得なかった戦う為の能力。
ほんの少し他人より勘が鋭いからといって、それが何の役に立つのか。
人の気持ちに敏感だからといって、それが誰かを救うことがあっただろうか。
…あったかもしれない。
少なくとも、尋人を今以上に傷つけることはなかった。
誰より愛しい人の心を守ることは出来ていると、信じたい。
けれども、この力で裕幸を守れなければ何の意味もないと思うのは、恐らく、異郷の血故なのだろう。
兄・出流のように戦う能力が欲しかった。
守る能力が欲しかった。
そう思わない日は無い。
近い将来、一族のために裕幸を失う日が来ると知ってから、それを願わない日はなかったんだ。
「……裕幸。学校、楽しいか?」
「ええ」
「時河、元気にしてるか?」
「ええ」
裕幸が唯一心を開いた“他人”である時河竜騎の無愛想な顔を思い出しながら、彼ほど“元気”という状態が解り辛い男もいないと気付くけれど、迷わずに肯定してくる裕幸の表情が変わらないから、そうなのだろうと信じられる。
「時河に、…近い内に会おうって、伝えておいてくれ」
「必ず」
美しい従弟の微笑みが、辛い。
辛いけれど、優しくて。
優しくて、綺麗過ぎて。
――泣きたくなる。
自分達に、あとどれくらいの時間が残されているのかは誰にも解らない。
――否、その日が来たと気付いた時には、もう遅いだろう。
その時が訪れれば、裕幸は誰にも言わずに姿を消すから。
きっと「また明日」と笑いながら、次の日には消えてしまっているんだ――。
***
「先輩!」
「六条中流!」
「? ――っ!」
ハッと我に帰ると同時、目の前に飛び込んできた光景に、中流は慌ててブレーキを踏んだ。
「ヤバっ……!」
「っ!!」
「……!」
自分が運転中であることを完全に忘れていた中流は、もう少しで、前方の信号待ちしている車に追突してしまうところだった。
「っ…はぁ…ごめん…」
「先輩…」
「ったく…運転中に考え事なんかするなよ危ねぇな!!」
「……本当だ…悪かった……」
「…」
深く息を吐き、気を取り直すように前を向いた中流は、信号が青に変わるのを待って、硬い表情で運転を再開した。
菊地は、まだ不安そうな顔をしていたが、とりあえず座席に腰を下ろし、尋人も助手席に大人しく座っている。
それでも、中流が運転中に考え事で意識を飛ばしてしまったという、らしくないことに不安は拭えず、何度も中流を見遣った。
幸い、それ以降は比較的安全に車を走らせ、菊地の祖父母の家にも無事に辿り着いた。
車を降りた少年が、
「おまえン家までも気を付けて帰れよ!」と強気に言うと、中流は素直に頷いた。
「…」
それがまた、中流らしくないと、尋人は思った。
六条家に着き、一階の駐車スペースに車を停めると、その奥の扉から円形階段を上って二階より上の生活スペースに入る。
いつもなら靴は手に持って玄関に戻すのだが、中流はそれもせずに、黙って部屋へ上がっていった。
「…」
その背中を追いかける尋人は、泣きたいくらいの胸の痛みに顔を歪める。
「…っ…先輩……!」
「ぇ…、え? 尋人…?」
唐突に背中に抱きつかれて、中流は目を見開いた。
何故、尋人がこのような行動に出たのか咄嗟には理解出来なかったのだ。
「ど、どうした? おまえ…泣いてる?」
相手が驚いて聞いてくることに、少年は激しく首を振った。
泣いてなどいない。
…泣きたくはなったけれど、でも、泣きたくないから。
「尋人…?」
「…先輩…ごめんなさい……」
「ぇ…?」
「…心配、掛けて……ごめんなさい。だから怒ってるんですよね……?」
「怒って…? 俺が…? なんで?」
「だって…裕幸さんの家を出てから…さっきの車の中でも…一度も僕に話し掛けてくれない……」
「……」
三角巾で吊った右腕を庇いながら、左手でしっかりと自分の背を掴む少年の歪んだ表情に、中流はようやく自分の不甲斐無さを自覚した。
何て馬鹿なのだろう。
いくら裕幸のことで落ち込んでしまったとはいえ、それで尋人を不安にさせるなど、――それでなくとも、あのような事故の後で気持ちが不安定になっているのだ。
そんな状態の尋人を悲しませるなど、絶対にあってはならなかったのに。
「…ごめん……、尋人、ごめん…」
「先輩…」
中流は身体の向きを変えると、真正面から少年の細い身体を抱き締めた。
腕を圧迫しないよう、全体を包み込むように優しく。
「…」
それだけで、尋人の不安は解れていく。
「ごめん…」
繰り返されるその言葉と共に、中流は尋人の唇に触れた。
それは、本当に触れるだけのもので、どちらかの熱を煽ることはない。
だが、穏やかな接触は、男としての、尋人への精一杯の想いだった。
「ちょっと…いろいろとあって、さ」
「いろいろ…?」
「そ。いろいろ…」
答えて。
けれど、本当のことは言えなくて。
「…おまえは、ずっと俺の傍にいてくれ…」
「先輩…?」
「……俺を、一人にはしないでくれ…な」
「…」
抱き締められて告げられる言葉は、あまりに痛々しくて。
尋人は、片腕しかないけれど、精一杯の力で中流を抱き返した。
「…傍にいさせて下さい……」
「……」
互いの温もりと、鼓動を分け合いながら、中流は思った。
いっそ、このまま時が止まってしまえばいいのにと――…。