貴方の翼が堕ちても 三
六条中流は走った。
周囲の様相などには目もくれず、ただひたすらに目的地へ向かって走り続けた。
――それは、いつかと同じ姿。
あの日の悪夢を思い起こさせる。
「…っ……」
電話で呼び出されて駆けつけた大樹総合病院。
手術中の赤いランプ。
再会した恋人は、包帯を巻かれた痛々しい姿で言った。
何も、覚えていないのだと。
***
「――よし。とりあえずこれで様子を見るしかないけれど…。痛み止めの薬も出しておくから、病むようなら我慢せずに飲むんだよ」
「はい」
ギプスでしっかりと固定された右腕を三角巾で首から吊られた尋人は、辛そうな顔をしている外科医氏・辻貴士に出来る限りの笑顔を浮かべて見せた。
「ありがとうございました。…また、お世話になってしまって」
「…いや」
尋人の笑顔につられるように、貴士も笑んで見せるが、その表情は決して晴れてはいなかった。
今日の昼過ぎに、突如鳴り出した緊急連絡は、大樹総合病院付属救急医療センターへのヘルプを要請するものだった。
病院から、車で三十分程の距離にある駅前で、暴走したトラックにより子供二名を含む六人が重傷、十人以上が軽傷を負い、助けを求めているという。
貴士達数人の医師が救急病棟に駆けつけた時には泣き喚く子供達をあやす母親の姿や、真っ青な顔で座り込んでいる女子高生達が廊下に何人もおり、その中に、貴士が良く知る彼らがいたのだ。
有りえない方向を向いた腕を押さえて顔を歪めていた尋人と、彼に付き添う菊地武人が。
幸い、菊地は軽度の切り傷と打ち身だけで済み、尋人の骨折した右腕には全治二ヶ月という診断結果が下された。
あの事故に巻き込まれて骨折だけで済んだのは運が良かったと尋人は言うけれど、こうして彼を診た貴士にとっては、少年の運が良いとはどうしても思えない。
かといって、君は運が悪いとも言えず曖昧に微笑むと、尋人も困った顔をして見せた。
午後三時前に事故は、駅前の噴水を破壊し、その後、走行進路の一直線上にあったFF店に突っ込むことで、ようやく車輪を止めた。
そのため、重軽傷者のほとんどは店内にいた客で、外にいた尋人が重症者のリストに名を連ねることになったのは、菊地曰く「あの直前にぼぅっとしていたからだ」そうだし、事情を聞いて回っていた警察官に言わせれば「もう少し早く逃げられていれば良かったね」である。
だが、尋人はそれを聞きながらも周囲を気にせずにはいられなかった。
あのトラックは真っ直ぐに噴水に向かって突進し、それを破壊してFF店に激突したのだ。
あのとき、噴水の前には奇妙な取り合わせの三人の男達がいた。
だが警察が事情を聞いて回っているその場に彼らの姿はなく、大樹総合病院の救急センターにも彼らは運ばれてきていなかった。
どこか別の病院に搬送されたのかと思い、ここ以外の病院名を貴士に教えてもらおうとしたのだが、ここ以外にはないという簡単な答えしか返されず、尋人はあの三人を完全に見失ってしまった。
彼らの所在を突き止めたとして、それがどうかしたのかと問われれば、答えは出ない。
ただ、どこか違和感のある三人組に感じた強い恐怖は、只事ではないように思う。
何か悪いことが起こりそうな、…そんな、嫌な予感がするのだ。
「…尋人君?」
「ぁ、はい」
自分の考えに没頭していた尋人だが、貴士の怪訝そうな声に呼ばれてハッと我に返る。
「どうしたんだい? 何か悩み事があるなら、僕でよければ相談に乗るよ」
「い、いえ…悩み事…とかでは、ないですから」
「そう?」
コクンと頷く尋人を、貴士はまだ心配そうな顔で見ていた。
と、その時だ。
控えめなノックの後に顔を見せたのは、尋人と一緒に事故に遭遇した菊地武人。
怪我の程度は軽いからと治療が後回しになり、今ようやく終えて尋人を探しにきた菊地は、顔の二箇所にガーゼを当てられ、半袖の下には包帯が見え隠れしていた。
「菊地君、大丈夫?」
「あぁ、俺は全然平気。この包帯だって湿布巻いているだけで、二、二日もすれば取っていいってさ」
「そっか…」
菊地の具合が軽いことを確認して安堵する尋人だったが、彼の三角巾で吊られた腕を見た菊地は対照的に顔色を曇らせた。
「…ごめんな、ちゃんと守ってやれなくて」
「え?」
低く、小さく囁かれた言葉は、尋人の耳には届かない。
しかしそれを聞き返すより早く、今度はノックも無しに開いた戸の奥から現れた姿に、尋人と菊地、貴士、三人は三様の表情で一瞬だけ呼吸も忘れる。
可哀相なくらい息を乱して、戸口から中を食い入るように見つめる眼差し。
「――、せ、先輩…?」
「六条君…」
「六条中流…」
やはり三人が三様の呼び方で彼の名を口にしたが、六条中流の視線はただ一点、尋人にだけ向けられていた。
そして尋人も彼の視線に気付き、吊った腕を隠してしまいたいと思った。
「ぁ…先輩、あの…これは…」
また心配を掛けてしまう――それは嫌だと思う尋人だったが、次の瞬間、中流は迷わず彼を抱き締めていた。
「――!」
人が見ているだとか。
ここが外だとか考えることも無く。
「先輩…?」
「っ……」
自分をそう呼ぶ恋人を、強く、強く抱き締めた。
「…っ…俺のこと…解るんだよな…?」
「ぇ…?」
「……何も忘れてないよな……?」
「――」
最初は悩んだ言葉の意味。
だが気付いた、彼の気持ち。
「ぁ…っ…忘れてなんかないです…ちゃんと解っています…」
「尋人…」
「ごめんなさい…先輩……心配掛けて、ごめんなさい……」
あの、冬の日。
電話で病院に呼び出された中流を待っていたのは絶望への入口。
受け入れたくは無い現実を受け入れるしかなかった尋人の言葉。
大切な存在を守れずに、失ってしまう恐怖を、ずっと胸の内に抱えながら走ってきたのだろう。
今こうして尋人の声を聞くまで。
それを思うと、尋人はますます申し訳ない気持ちになった。
「…腕…痛むか?」
身体を離し、尋人の吊られた腕を見下ろした中流が問うことに「平気です」と首を振った。
「貴士医師がちゃんと手当てしてくれたし…菊地君が、僕をトラックの前から逃がしてくれたから」
「そっか…」
尋人の怪我は、菊地がトラックの前から腕を引いて逃がした後、倒れてきたパラソルに強打されて負ったものなのだ。
「ありがとな、菊地」
中流は菊地に頭を下げ、次いで貴士にも腰を折る。
「お世話になりました」
「――」
その、あまりにも自然に告げられた言葉に、貴士は思わず頬を緩め、菊地は軽く嘆息した。
何と言おうか、どうしようか。
心配するだけ無駄というものではないだろうか。
「くれぐれもお大事に」
貴士が告げると、中流は再度、頭を下げて、少年達を連れ立って治療室を後にした。
「ところで、どうしておまえが迎えに来るんだ?」
まだ明るい空の下、駐車場に向かっていた中流の背中に、菊地が尋ねた。
尋人が六条家で暮らすことが正式に決まってから教習所に通い始めた中流は、まだ免許を取得して三ヶ月の若葉ドライバーなのだが、安全第一の運転技術は、助手席に最も多く乗る尋人が安心していられる腕前だ。
今日も、これから中流の運転で菊地を家に送るつもりなのだが、その前に一箇所、寄らなければならない場所があった。
だからこそ、中流が彼ら二人を迎えに来たのだ。
それをどう切り出そうかと迷いながら、静かに口を開いた。
「伯父さん…病院の院長やってる裕幸の親父さんから連絡があったんだ。俺が迎えに来いって」
菊地は、尋人と同じく、学校に通いやすいという理由で祖父母の家に居候している。
菊地が事故に巻き込まれて病院にいるからなどと連絡を入れれば、慌てて迎えに来る老夫婦の方が危険だからと、それらしい理由をつけて説明する中流に、だが菊地の表情は険しい。
しかし中流の方も自分が迎えに来た本当の理由を語るわけにはいかず、わざと声の調子を弾ませた。
「それにな、裕幸がおまえ達のことを心配していて、無事な姿を見せに来てくれって言うんだ」
「裕幸さんが?」
菊地は二度。
尋人は何度か会っている中流の従弟・大樹裕幸の名に、二人は揃って驚いた顔をした。
「伯父さん、連絡くれる時に俺の携帯番号を知らないからって、裕幸に聞いたみたいなんだ。そしたら裕幸も、おまえ達のこと酷く心配しているって言うからさ。…事故に巻き込まれるなんて大変な目に遭った後で申し訳ないとは思うんだけど…、裕幸に顔見せて、安心させてやってくれないか?」
「はい…」
「…まぁ、そういうことなら…」
そう言われれば少年達に断る理由などない。
こうして、二人は大樹家に向かうことを了承したのだ。
「…」
中流には、本当の理由は言えない。
まさか。
二人に妖魔の気配が纏わりついているから裕幸に視てもらう、などと。
自分達、大樹の血に流れる秘密を明かせないでいる中流には、決して口に出来なかった。