貴方の翼が堕ちても 二
尋人が六条家に居候にきて四ヶ月。
留守にしがちな家族のおかげで、ほぼ同棲生活が続いている二人は、相も変わらず健全で純粋そのものの生活を送っていた。
同じベッドで寄り添って眠る夜も、キス以上の行為に及ぶことはなく、時に尋人は申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうのだが、中流にしてみれば何のその。
いまだ自分の――自分達親族の体内に流れる異郷の血の秘密を明かせずにいるため、尋人に詳しく説明することは出来ないけれど、中流には恋人の気持ちと連動したある種の呪いが施されているのだ。
尋人がそれを望まない限り、中流は決して何も求めない。
それが、過去に深く傷ついてきた少年を守り、癒すための必要最低限な方法だと思うからだ。
結果、おままごとのような恋愛関係を続けている二人は、しかし幸せ以外の何物でもない。
「じゃ、行って来る」
すっかり出勤準備を整えた中流を玄関で見送る尋人は、いつものことなのに幼い顔を赤く染める。
「行ってらっしゃい」と告げながら鞄を差し出す姿は、まさに新婚夫婦の朝の光景だ。
「今日、菊地と会うんだろ? 家のことはいいから楽しんで来いよ」
「はい」
尋人が、今日は友人の菊地武人と出掛けると聞いていた中流は、毎日家の仕事を完璧にこなしてくれる少年が慌しくならないよう気遣った。
「でも、夕飯までには帰ってきます。先輩、今夜は何がいいですか?」
「…」
その気遣いを知りながらも、自分と過ごす時間を大切に考えてくれる尋人に、中流は口元を綻ばせた。
「だから、俺のこともいいって。たまには菊地と時間を気にしないで楽しんで来い」
「でも…」
「な。そうでなきゃ、そろそろ菊地が拗ねるぞ」
「え?」
「友達は大事だろ?」
「――」
「じゃあな、行ってきます」
「ぇ、ぁ、はい、行ってらっしゃい…」
頬に軽いキス。
優しい笑顔。
そうして家を出て行く中流を見送った後で、少年は頭を掻いた。
「…菊池君が拗ねるって、どういうことだろう」
中流の言うことがいまいち飲み込めずに小首を傾げた尋人は、だが気を取り直す。
まずは朝食で使った食器を洗い、洗濯機を回しながら部屋の掃除。
見上げる空が青いなら、家中の窓を開けて空気の入れ替えもしたい。
「今日も暑くなるかな」
あ、宿題もあったんだと胸中に呟きながら動き出す。
時刻は八時ちょうどを指していた。
***
六条家は最寄りの駅まで徒歩で二十分程の場所にあり、友人の菊地武人の家は駅を挟んで三十分ほど。
だから二人は、朝の駅で待ち合わせして一緒に学校に通うのが日課であり、休みに会う日も同じく駅で待ち合わせしてJRを利用し街に出るのだ。
「菊池君」
平日の朝と同じく、駅構内、券売機のちょうど真正面に位置する石柱に寄りかかって待っていた友人を呼びながら近付くと、彼は身体を起こして尋人を迎えた。
「よ。一週間振り」
「元気だった?」
「とりあえずな」
互いに笑んで交わされる言葉に、一週間振りの違和感など微塵もない。
「じゃ。行くか」
「うん」
早速歩き出した二人は、券売機で目的地までの切符を買って改札を抜けていった。
この日、二人は学校から出された夏休みの課題の一つである自由作品のために、北海道立図書館へ行く事にしていたのだ。
自由作品は創作・研究・裁縫・工作その他諸々、自分の好きなものを一つ提出すれば良いため、ほとんどの生徒達は自分の得意なものを制作する。
だが菊地にはこれといって作りたいものも研究したいものもなくて悩んでいたところ、尋人が自分の自由作品のための調べ物をするのに図書館に行きたいと言ったため、今回の遠出が決まったのである。
「けど…倉橋の自由作品だったら図書館で調べなくたって、六条中流に聞けばすぐ解るんじゃないのか?」
今更、六条先輩とも、中流さんとも呼べずフルネームでその名を出す菊地に苦笑しながら、尋人は小さく首を振った。
「うん…先輩に聞けばすぐ解ると思うけど、これは僕の課題だし、ちゃんと勉強して覚えたいんだ」
「ふぅん。真面目っつーか…よく疲れないな」
「疲れないよ。だって好きなことだもん」
「あっそ」
なんだか惚気を聞いているような気分で息を吐いた。
尋人は“絆”をテーマに、これと感じる写真を集めて自分なりの感想をつけたアルバムを作りたいのだという。
見る人に“絆”の尊さが伝わるような、そんなアルバムを、自分自身で。
そして、出来ればそれを一番最初に中流に見て欲しくて、今はまだ、こういうことをしたいという話さえしていない。
「最後のページには自分の写真も入れたいんだ。…せっかく写真部に入ったし」
「いいんじゃねぇ?」
「そっかな」
照れたように笑う尋人に、菊地は再度息を吐く。
それは一つ前とは違った、少し長い吐息だった。
道立図書館は、尋人達の最寄りの駅から一度電車を乗り変えて行ける駅近くにある。
周りには高校や大学、その他の教育施設が密集しているうえ、夏場は深い緑がその周囲を覆っている。
国道が走り、土地的には随分と拓けた場所なのだが、教育施設等、一つ一つの敷地が恐ろしいほど広いこともあって、一見、山奥に迷い込んだような錯覚に陥った。
「図書館の看板、あんなに近くにあるのに…」
「俺達、やっぱり田舎者だよな…」
少年達は小さく呟いて互いに顔を見合わせると、自嘲するように笑い合った。
「ま、いいや。行くか」
「うん」
駅を出ると、二人は案内板に従い図書館へ向かった。
図書館に着いたのが十一時過ぎ。
それから三時間ほど館内で各々の目的のために動いていた二人だったが、身体が空腹を訴えたのと、菊地が、周囲が本ばかりという慣れない環境に耐え切れなくなっていたこともあり、尋人は気に入った写真集を三冊借りて図書館を後にした。
どこかでご飯を食べようと言いながら、JRで乗り換えの駅まで出た二人は、そこでFF店に入った。
好きなものを注文して席に着くが、外の天気は最高で、まるで彼らを誘うように外に設えられたパラソルの下に二人分の席が空いている。
結局、外で食べようと言う事になり、バーガーとポテト、ドリンクが乗ったトレイを持って外に出た。
気温は二十五℃を優に超えているだろう。
夏の陽射しは熱く、空気も纏わりつくような感じがしたが、これも一時のことと、北国の短い夏を思えば嬉しい陽気である。
「あー、腹減った」
声を上げ、大きな口を空けて大胆にバーガーを頬張った菊地に笑いながら、尋人も口をつける。
数時間振りに喉を通る飲料は、身体の隅々に染み渡るようだった。
平日だが夏休み中ということもあって、周囲には中高校生と思われる男女が多い。
四人くらいの小学生がリュックを背負って駅に走っていく姿。
ベビーカーを押して歩く夫婦。
腕を組んだ恋人達。
平和そのものの夏の景色に、尋人は知らず口元を綻ばせた。
こういうのもいいな、と思う。
心が温かくなる。
「…?」
だが、駅の正面で気持ちの良い水飛沫を上げる噴水の傍に、三人の大学生風の男達がいることに気付くと同時、何か不穏なものが尋人を震わせた。
一人は長髪を後ろで一つに結わえ、浅黒の肌に黒のタンクトップ。筋肉のついた腕は男の力強さを示すようだ。
二人目は、縁無しとはいえ眼鏡をしているせいか知的な印象を受ける青年だ。ボーダーのワイシャツの下は決してひ弱には見えないが、隣の長髪の男とは雰囲気が違いすぎる気がした。
そしてそれをいっそう強く思わせるのが三人目の男。
彼も眼鏡をかけているが、こちらは非常に根暗な雰囲気が強く、夏の青空にも歓迎されない淀んだ空気を纏っていた。丸まった背中には古びたリュック。
「……」
変だ、と尋人の心が叫ぶ。
怖いと、叫ぶ。
「…っ…」
「倉橋?」
一点を見つめたまま顔色が青ざめてきた尋人に気付いた菊地が表情を険しくする。
それと同時だった。
「危ない!!」
叫んだのは尋人か。
菊地か。
他に気付いた人間がいたのか。
駅前の国道から一台のトラックが曲がってきた。
人が集まる駅前の噴水広場に、大型車が速度を緩めることなく突き進む。
「逃げろ!!」
叫んだ。
怒鳴った。
そして悲鳴に掻き消された。
「倉橋!」
「ぁ…っ!」
トラックは、もう間近。
ガシャ――――………ン………ッ!!
パラソルが薙ぎ倒される。
FF店のウィンドウが破壊される。
平和そのものの夏の景色は、一瞬で惨劇へと変わってしまった――……。