貴方の翼が堕ちても 一
朝六時。
倉橋尋人は、首から提げていた携帯電話のバイブレーションで目を覚ました。
「――」
胸元に来る振動に、違和感というか、驚きに似たものはあり、爽快というのには程遠い目覚めではあったものの、枕元にセットされた目覚まし時計より一時間も早く起きれたことが嬉しかった。
(よぉっし!)…と小さくガッツポーズを作った尋人は、次いで、自分のすぐ隣に視線を移した。
そこに、まだ静かな寝息を立てている六条中流を確かめて、ますます嬉しくなる。
夏休みに入って一週間。
ようやく中流より先に起きることが出来た。
(良かった…、今日こそ僕が先輩の朝ごはんを作れるんだ)
この一週間、目覚まし時計は変わらず七時に鳴っているのに、中流は必ずその三十分前に起きて、朝食の準備を済ませてしまう。
そうして目覚まし時計が鳴る、ほんの数秒前に部屋に帰ってくると、珈琲の匂いを纏いながら尋人に朝の挨拶をしてくるのである。
朝、目覚めてすぐに大好きな人の顔が見られるのは、この上ない幸せだと思う。
だが、してもらうばかりではダメなのだ。
「……」
隣で眠る恋人の、無防備な寝顔に顔を緩めながら、尋人は静かに動き出す。
(そぉ…っと……そぉー…っと……)
自分に言い聞かせるように胸中で繰り返しながら、中流を起こさないよう気遣ってベッドを抜け出し、抜き足差し足で部屋を出た。
扉の開閉にも最大限の気を遣い、中から中流が起きた気配がないのを確かめると、気持ち足早に階段を下りていく。
この六条家に住み始めて早四ヶ月。
キッチンで朝食の準備をするくらいはお手の物。
場合によっては、六条家の主婦でありながら留守にしがちな中流の母親よりも、この家の中身に詳しい程だ。
――だが、やはり中流には敵わない。
尋人のいなくなったベッドの中。
声を殺して笑っている彼が、尋人を起こした振動によって同じく起きてしまっていた事を全く気付かせなかったのだから。
「先輩、おはようございます」
淹れたての珈琲の香りを纏った尋人が、中流を起こすべく寝室に戻ってきたのは、昨日まで彼が起きていた六時半より少し前。
尋人が戻ってくるのをベッドで横になったまま待っていた中流は、扉の向こうに相手の気配が近付いてきたのを察して寝たフリをする。
「先輩、朝ですよ」
いつもとは逆に自分が中流を起こす側にいるのがよほど嬉しいのか、尋人の声は弾んでいた。
そんな彼があまりに可愛くて、つい顔が緩んでしまいそうだったが、必死に寝顔を作った。
「先輩」
まだ起きない中流の傍まで寄ると、両手で中流の腕を掴んで揺する。
さすがにここまでされれば起きて不思議はないだろう。
昨日までの尋人を思い出しながら“起きたばかり”を装って目を開けた。
「…おぉ…おはよ…。今朝は早いな…」
「はい! 今朝は僕がご飯を作りました」
「――珈琲も入ってる」
「もちろん。先輩の好きなブルマンですよ、水も粉の量も…たぶん先輩の好み通りになってます」
「うん、匂いで判る」
返して、尋人の顔に手を伸ばし。
「ぇ…」
手で、前からその後頭部を包むようにし、そのまま尋人の頭を自分の口元に引き寄せた。
「! せ、先輩…っ」
「尋人、珈琲の匂いする」
珈琲メーカーではなく、自分の手で豆を挽き、一杯分ずつ湯を注いでいくという六条家こだわりの方法だからこそ、支度を終えて寝室に戻ってきた尋人の髪は残り香を纏っているのだ。
だが、中流は珈琲の匂いを嗅いでいるだけかもしれないが、抱き締められるような格好で嗅がれている方はたまったものではなかった。
中流がいつも珈琲の匂いをさせて自分を起こしに来る理由を今更ながらに察して、尋人は顔を真っ赤に染めていた。
「ぁ…あの、先輩、…その…」
「ん?」
「その…もう、起きませんか…? 珈琲も冷めちゃいますし…」
「あぁ…」
動揺を隠せず、目を逸らして言う尋人を見やりながら、中流はくすっと笑った。
「よしっ。じゃあ尋人が作ってくれた朝飯を食いに起きるか」
恥ずかしがる尋人を抱き込んでいた腕をさりげなく解き、身体を起こしながら言うと、数秒前まではまともに喋ることも出来なかった尋人の表情がパッと輝いた。
「はい!」と勢い良く立ち上がった少年は、中流がベッドから起き上がるのを待って彼の腕を掴んだ。
「今朝は和食なんです。大根と揚げのお味噌汁、先輩、好きですよね?」
「あぁ。尋人の美味い味噌汁が朝から飲めるなんて有り難い」
「あとお魚とお浸し…。漬物も、作ってみました」
「漬物?」
「うちで…お父さんがお酒のおつまみにしていたものなんですけど、キュウリと梅干に塩と鰹節をまぶして良く揉んだもの…、夏には梅干がいいかな、と思ったんです」
「うんうん、梅干は大事だ」
寝室を出て、そんな会話をしながら一階に続く階段を下りていた二人は、尋人の手と、中流の腕で繋がっていたけれど、先に顔を洗ってくると中流が言ったため、そこで一時、別れることになった。
「すぐ行くから」
そう言い残して、尋人に先に食卓に着いているよう促した中流は、だがすぐに彼の隣に戻ってくる。
「先輩?」
「忘れ物した」
キッチンに入ろうとしていた尋人の腕を取った中流に、何を忘れたのかと聞こうとした少年。
その唇が、瞬時に奪われる。
触れるだけの、優しく、甘い、モーニング・キス。
「――」
「やっぱ、おはようのキスは基本だろ?」
「〜〜〜〜っ」
基本て何の基本ですか! …とは言い返せない。
それを言う前に当の本人は「じゃ、また後でな」と洗面所に消えてしまったし、尋人自身の言い返す声が出てこない。
中流に奪われたのは、朝一の唇ばかりではなかったようだ。
「先輩って…っ……」
寝室で抱き締められた時よりも顔を真っ赤にした尋人は、足早にキッチンに入る。
一緒に暮らし始めて早四ヶ月。
尋人が夏休みに入ってからは「朝はゆっくり眠っていろ」と毎朝、朝食の準備をしてもらってばかり。
今朝になって、ようやく自分が中流のために食事を用意出来たと思ったのに。
「…はぁ…もう…」
本当に。
なんて幸せな朝だろうか。