春
一
春、四月。
本州では桜の開花が宣言され、お花見シーズン真っ盛りという時期が来ていても、北の大地は、まだまだ雪景色。
一日の平均気温は上がっていたが、窓から見る外の風景は冬そのものだ。
かといって、北海道だけ暦が三月で止まってしまうはずもなく、あちらが四月なら、こちらも四月。
年度は変わり、卒業生が新入生、新社会人として新たな生活に臨むと時を同じくし、彼らの新しい生活も始まっていた。
倉橋尋人、十六歳。
同じ歳の子らより一年遅く、第一志望だった鳴恭高校への進学を決めた少年は、姿見の前で、着用した制服に不備がないかどうかを最終確認すると、机の上に用意してあった鞄を手に部屋を出た。
「あ…」
扉を開けると同時に鼻腔を擽るのは珈琲の独特の香り。
いつもと変わらないそれが、尋人の表情を緩ませる。
「先輩、もう起きてる」
腕時計で時刻を確認すると七時十分前。
今朝は一緒に朝食を取れそうだと、尋人の足は歩調を速めた。
と、階段踊り場に着くと同時、その横の扉が急に開く。
「っ」
慌てて立ち止まった尋人に、そこ――洗面所から出てきた女性も多少驚きつつ、しかし相手の顔を見てにっこりと微笑んだ。
その表情が尋人をドキリとさせる。
大好きな人に良く似た穏やかな笑顔。
六条凪紗。
少年の一番大切で。
一番大好きな六条中流の、母親。
「お、おはようございます」
「おはよう尋人君」
真っ直ぐに伸びた髪を簡素に結わえた彼女は、服装もシンプルな部屋着で、いま起きたばかりなのだろう。
リビングから薫る珈琲の匂いに口元を綻ばせながら、
「そんなに急がなくても中流はいなくならないから、階段はゆっくり下りてらっしゃい」
「え、ぁ…はい…」
途端に真っ赤になり、俯きがちに応える少年に、六条母は楽しげだった。
尋人が六条家に居候するようになってから、今日で三日目。
まだ慣れるには早いと知りつつも、ちょっとした発言にも初々しい反応を見せてくれる尋人が、彼女には可愛くて仕方がない。
「昨夜はゆっくり眠れた?」
「はい」
「何か不便なことがあったら、遠慮なく言って頂戴ね」
「ありがとうございます」
尋人がペコリと頭を下げると、
「どういたしまして」と彼女は笑う。
そうして二人揃ってリビングに姿を現すと、既に食卓についていた六条家の大黒柱、写真家の六条至流氏に「おはよう」と声を掛けられ、キッチンから珈琲カップを片手に持った六条家の長男、出流が、それに続く。
「おはよう尋人君」
「おはようございます」
元気に応えると、直後にキッチンの奥が騒がしくなる。
一際大きな物音が、何か重たい物を落としたときの衝撃に似ていた。
「大丈夫かい?」
出流がカップを持ったままキッチンに戻ろうとすると、それを遮るように顔を出したのは、六条家の最後の一人。
「おぅ尋人、おはよ」
「おはようございます…ぁ、あの…いまスゴイ音が…」
「あぁ、平気平気。空の鍋をひっくり返しただけだからさ」
陽気に返す彼に、家族は一様に呆れ顔。
「何をそんなに慌てるんだか」
「少し遅れたからって尋人君がいなくなるわけじゃなし」
「まぁ、似たもの夫婦ってことね」
楽しげな笑いを含みながら言う母親に、尋人は真っ赤になり、父と兄は小さく吹き出す。
中流は一人、話に入れずにきょとんとしていたが、
「中流、私にも珈琲ちょうだい」
母親の催促に、首を傾げつつも動き出した。
「ああ。尋人はホットミルクだろ?」
「お願いします」
すぐに用意するから待っていろと告げて、中流が再びキッチンに戻ると、一方で、食卓についた家族は揃って尋人の世話を焼きたがる。
「尋人君、今朝はパンにするかい? 和食が良ければすぐに中流に作らせるけれど」
「いっ、いえ、パンがいいです」
「そう? 一枚でいいかしら」
「あの、僕、自分で…」
「あら、私のも一緒に焼くんだから、遠慮しなくていいのよ」
「でも…」
「ジャムは何が好きだい? 苺、ハスカップ、ママレードやリンゴもあるが」
次々に言われて、尋人が戸惑っていると、母親の珈琲、尋人のホットミルクを作り終えた中流が苦笑交じりにやって来る。
「母さん、珈琲。――しっかし、何だって今朝は皆して尋人の世話を焼きたがるかな。尋人が困ってンだろ? ほら」
暖かなミルクの入ったカップを手渡されたことと、中流の姿に、尋人はようやく笑むことが出来た。
「ありがとうございます」
「どう致しまして」
そっと笑んで、中流も自分のカップを手に食卓につくと、それを待っていたように出流が口を切った。
「何で、と言われてもね。しばらく可愛い弟に会えない日が続くと思うと、今朝は構わずにいられないんだよ」
「え…、しばらく逢えない…ですか?」
驚く尋人の横で、中流は、いま思い出したような顔になる。
「そっか…、兄貴の撮影、今日からだって言っていたよな。――ってことは、もしかして親父達の出発も今日か?」
「忘れていたのか?」
「行くのは覚えていたけど、今日からだっていうのは忘れてた」
「おまえらしいというか…、尋人君が来ることばかり気になって、私達の予定など頭の隅にも置いてなかっただろう」
「まさにその通り」
「あんたって子は…」
呆れる両親と、失笑する兄を前に、中流は「悪い悪い」と苦笑いだ。
「帰ってくるのがいつだっけ?」
「まだ未定。撮影が順調であれば二週間くらいで戻れると思うが」
「私達の帰国も未定だ」
「それは知ってる」
一月の予定が半年になった前例を体験している中流は、最初から両親の帰国予定日など考えていないのだ。
「じゃあ、少なくとも二週間は尋人と二人ってことか」
「え…」
「そういうことだね」
「だからって悪いコトしちゃ駄目よ」
「解ってる」
「いい子にしていたらお土産いっぱい買って来るから、ね? 尋人君」
「は、はいっ…」
何でもないことのように語り合う六条家の面々を前に、尋人の心中だけは穏やかではいられない。
六条家に居候して、三日。
わずか三日で中流と二人きりの夜が来る。
「…」
尋人の胸中の不安を知るのは、実は、ここにいない彼の友人一人だけだった。
二
鳴恭高校の入学式が六日に行われ、尋人が六条家で暮らすようになったのも六日から。
めまぐるしいほど慌しく過ぎ去った日々の中で、ほとんど勢いで決めてしまった居候の件は、しかし両家の親公認のもと、問題なく準備が進められ、今日に至っている。
中流の両親、兄が、仕事の関係上、家を留守にしがちなことは聞いていたし、この三日間、尋人が少しでも早く六条家に慣れてくれるようにと考え、家族が揃っていたことも、中流に聞いて知っていた。
彼らが尋人を歓迎しているのは、彼らの言動の端々から感じられ、それだけで、どれほど感謝しても足りないと思う。
何より、離れ離れだった中流と尋人の時間を埋めようと、当人達と同じ思いでいてくれることが嬉しかった
――だが。
「なんで、そんな困るワケ? 居候って言うより半同棲だってのは、一緒に暮らすようになる前から解ってたんだろ?」
鳴恭高校一年一組の教室で、菊地は呆れた顔つきで言う。
「親いなくなってラッキー、くらい思ってもいいと思うぜ、俺は」
「そんな…、そんな風には、思えないよ」
机に突っ伏して応える尋人に、菊地は眉間に皺を寄せながら、短く息を吐いた。
「ったく…、ほんと、なんでそんなに悩んでばっかりなのかね、倉橋は」
「…」
菊地の、決して優しいとは言えない口調での問い掛けに、尋人は返せる答えが見つからなかった。
一緒に登校するため、待ち合わせていた駅構内で顔を合わせるなり、尋人の様子が妙な事に気付いた菊地は、すぐに、その理由を話せと迫った。
電車の中では他人の耳があるからと、教室に入るまで返答を焦らした尋人だったが、そうして聞かされた理由が、
「今夜から先輩と家に二人きりで…」では、尋人と先輩こと六条中流の関係を知っている菊地にしてみれば、惚気以外の何物でもなかった。
まだ入学したてで、席が出席番号順になっている教室で、幸いにも同じクラスの前後席になった菊地と倉橋。
それも廊下側一番後ろの席という好位置で、尋人の口も幾らか滑らかに言葉を紡いだが、それでも、なぜ困るのかという質問には明確な答えを出せないようだった。
机に突っ伏したまま黙り込んでいる尋人に、菊地は再度、嘆息し、言葉を選びながら口を開く。
「…倉橋と六条中流は、ちゃんとした恋人同士で、どっちの両親もそれを了解していて一緒に暮らすの許可したんだろ? 俺には何の問題もないように見えるけどな」
「…」
「……ってか、倉橋が榊学園にいた頃にも付き合ってた期間があって、なのに未だにキス止まりだってことの方が、俺には不思議でならんけど」
「…っ」
肩を弾ませて上げた顔――その困り果てた尋人の表情に、菊地は大きく溜息をついた。
ふとしたきっかけで、尋人と中流の二人がキスまでしか進んでいない関係だと知った時の衝撃を思い出すと苦いものが胸中に広がる。
単純に驚いたのもあった。
だがその一方で、何故かホッとしたような、…嬉しいような、そんな気持ちが生じたのも事実で、菊地としては、それを思い出してしまう、こういった内容の話は、出来ればしたくないのだ。
しかし尋人が困っているのを見れば、無視も出来ない。
自分で自分を追い込むのを自覚しながら、今日も尋人の専属カウンセラーである。
「前にも言ったけどさ、六条中流は、本当におまえの事が大事なんだって。だから、おまえが嫌がることは絶対にしない」
「……普通の男なら我慢できないって、菊池君が以前に言ったのに…」
「――…それは、…それだ」
「…」
しまった、という顔をする菊地に、尋人の顔は複雑に歪む。
そんな親友に、こんなんじゃダメだと、尋人は自分を叱咤した。
いつからか相談役になってしまった彼にも、随分と迷惑を掛けていることを申し訳なく思う。
自分が覚悟を決めてしまえば何の問題もなくなるのに、…怖がって、過去に囚われてばかりいるから周りに迷惑を掛ける。
家族が同じ屋内にいると思えば、それを案じることも、悩むこともなかったけれど、それは中流の家族を逃げ場所にしているのと同じ事。
そんなのは、中流にも、彼の家族に対しても失礼だ。
「…いつまでも逃げていたらダメだよね」
「逃げるとか、そういう問題でもない気がするけど」
「…」
明らかに落ち込んでいる尋人の頭の上で、菊地は右手を弾ませた。
「あんまり悩むと禿るぞ」
「…うん」
冗談か、本気か。
沈んだ表情のまま、無理に笑顔を作る尋人が、菊池には非常に痛々しく感じられた。
◇◆◇
この春から勤務している如月出版の、本社ビル六階、総合事務課の一角で書類の整理をしている六条中流だったが、その脳内には、もはや今夜のことしかなかった。
もちろん、この三日間、尋人のことを考えて家族全員が揃っていたのは解っているのだが、ようやく恋人として自分の隣に帰ってきてくれた尋人と、人目を憚らずに、もっと傍にいたいのは隠し切れない欲求だった。
(今日の夕飯はどうするか…、尋人、意外に和食派だからな)
魚か、肉か。
そんなことを考えるだけで顔が緩む。
この三日間は、下手に近付くと抱き締めたい衝動に駆られるのは必至で、恥ずかしがりやの尋人のことを思うと、一緒にキッチンに立つなど考えることも出来なかったが、今日からは違う。
後に帰れば、尋人が出迎えくれる。
先に着いたなら、食事の支度をしながら尋人の帰りを待とう。
二人きりの家で。
それは正しく。
「新婚だな…」
思わず声に出してしまった中流の表情は、もし両親が見たなら「あんたって子は…」と泣きたくなるだろう、だらしなさ。
これが兄・出流ならば、
「本当におまえは素直で可愛い弟だよ」と、いつもの笑顔で、一瞬にして中流の浮かれようを抑え込んだかもしれない。
だが、その誰もがここにはおらず、中流のその顔を見たのは、数人の同僚のみ。
中でも、話しかけてくる怖いもの知らずは一人しかいなかった。
「おまえ、大丈夫か?」
「え…、あぁ、お疲れ様です」
「お疲れ…」
夢の世界から自分を引き戻した相手を仕事の先輩だと認識した中流は、何事もなかったように挨拶する。
「大丈夫かって、何かあったんですか?」
「何かあったのは、おまえの頭だと思うけど」
「はい?」
「……おまえ、かなり怖かったよ」
「?」
よく解らずに、だが「怖かった」という表現を「不機嫌に見えた」と解釈した中流は、
「そんなことないですよ」と、相手にしてみれば、かなりズレた返答をする。
「いま、すっげぇ幸せなんですから、機嫌悪くなったりするわけないじゃないですか」
「ふぅ…ん、幸せね。今夜は彼女とデートか?」
「そんなとこです」
「いいねぇ」
相変わらず、緩みっぱなしの顔の中流に、先輩社員は失笑だ。
「ま、避妊だけはちゃんとしておけよ、おまえ、まだ若いんだから」
「――」
あ、と思った。
先輩社員の、その台詞はそうだけれど。
それよりも。
――そんな、ことよりも。
三
「…」
陽は沈み、辺りがだんだんと薄暗くなる頃になって六条家に帰宅した尋人は、だが家屋の前で立ち止まり、深呼吸を繰り返した。
「よしっ」
意を決し、玄関の扉に手を掛けた。
鍵が開いている。
もう、中流が帰ってきているのだ。
「早い…」
ポツリと呟き、靴を脱ぐ前に「ただいま」と声を上げた。
最初は抵抗のあったその言葉も、中流と、彼の家族のおかげで、今は自然と出るようになった。
行って来ます、行ってらっしゃい。
ただいま、お帰りなさい。
それは家族の絆を深める言葉。
「おぉ、お帰り」
「ぁ…」
てっきり居間か自分の部屋にいると思っていた中流が、朝に彼の母親と衝突しそうになった場所――洗面所から出てきて、少なからず驚く。
「た、ただいま、帰りました…」
「おぅ。お帰り」
まさか、ここで顔を合わせるとは思わなかったせいで、緊張した面持ちになる尋人。
中流もそんな少年の心情を察してか、くすりと笑んで、もう一度、その言葉を返した。
「結構、遅かったな。もう部活動が始まってるのか?」
「いえ…、今日は見学だけ。菊池君といろんな部活を見てまわっていたので」
「へぇ。面白そうなのあったか? ――っていうか、どの部活に入るか決めてるのか?」
「まだはっきりとは…、あ、重いですよね」
答えながら、洗面所から出てきた中流が抱えているものにようやく気がつく。
彼は、大量の洗い終えた洗濯物を持っていたのだ。
「あぁ、重くはないんだ。母さんもやっぱり主婦だよな、旅行行く前に一通りの仕事はやっていってくれたみたいでさ」
「それ、畳むんですよね? 手伝います」
「サンキュ。じゃあ、まず着替えてこいよ。リビングで待ってるから」
「はい」
元気良く返事をして階段を駆け上がって行く尋人を見送り、中流は息を吐く。
家に帰る前に、それに気付いて良かった。
先輩社員の一言がきっかけで思い出した。
中流自身は、単純に二人きりになれることを喜んでいたけれど、尋人がそれだけで済むはずのないことを。
きっと、必要以上の不安を抱えているだろうことを。
「ふー」
とりあえず出迎えは成功かな、と彼が安堵して笑んでいることに、少年は気付かない。
(良かった…先輩と普通に喋れる)
そうして部屋に戻り、制服から私服に着替える尋人も、胸中に呟く。
既にここは、二人きりの空間。
どんなに緊張してしまうかと思ったけれど、普通に話せた。
中流の顔が見られる。
「大丈夫…」
姿見の中の自分に言い聞かせるように呟くと、早速、リビングに向かう。
時間は五時半過ぎ。
夕食の準備もしなければならない。
「先輩…」
リビングの扉を開けながら声を掛けた尋人を、先に洗濯物を畳み始めていた中流は笑顔で迎える。
今日から留守にする両親と兄。
彼らのシーツ等の寝具も洗濯し、乾燥機にいれていっていたらしく、中流はそういった大物を片付けていた。
「すごい、いっぱいありますね」
「多く見えるのは、シーツとか大きいものが多いからだよ。そっちの小物、頼んでもいいか?」
「はいっ」
「母さん、乾燥機と、ボイラー室で洗濯物を乾かしてんだ。今日一日で何回、洗濯機を回したんだか」
そう言って苦笑する中流の表情に、何故かドキリとする。
もう見慣れてもいい姿なのに。
家の中に二人きりのせいだろうか。
中流が、ひどく大人に見える。
「さて…、俺は風呂掃除してくるから、あと五分くらい経ったら炊飯器のスイッチ入れておいてくれ」
「はい、…でもお風呂掃除も僕が…」
「いま帰ってきたばかりなんだから、少し休めよ。何でも気を遣って自分がやろうとしていたら保たないぞ」
「はい…」
「けど、夕飯は一緒に作ろうな」
「! はい!」
沈みかけた尋人の表情が、一緒に作ろうという一言で輝くのを見て、中流も笑った。
尋人のそういう表情が好きだと思う。
尋人が笑っていてくれることが、中流にとって何よりも大切なこと。
「飯と風呂と、どっちが先だ? 俺は寝る前に入る方だけど」
「尋人の家も薄味なんだな、同じで嬉しい。けど外食の時って困るだろう、料理屋の味って大衆向きだから濃い目だもんな」
「この時間はどんなテレビ見てる? 俺? 俺はあんまりテレビ観ないんだ。親や兄貴がいれば別だけど、この家に一人になる時は、大概、裕幸の家で世話になってたりするし…そうだなぁ…この家に一人になるっつったら試験前とかくらいかな…」
話をする。
リビングのソファに並んで座って、テレビは一応、尋人が毎週観ているクイズ番組に合わせたけれど、二人、いろいろな話をする。
「部活は、最初は図書局に入るつもりだったんです。榊学園でもそうだったから…、でもいろんな部活を見て回っていたら、その…写真部もあって……、僕も少しでも知識を持てたら先輩の気持ちを共有出来るかな、って」
「菊池君は陸上部に入るって言ってました。中学の時もそうだったんですよ、全道入賞したくらい早いんです」
「そう、学校の先輩にすごく面白い人がいて…」
たくさんの言葉を交わす。
離れていた時間に、変わってしまったこと、変わらなかったこと。
これからの時間のこと。
どんな些細なことも逃さずに、聞く。
君の言葉。
君の声。
ここにいる、自分一人のために語られる言葉を。
そうして時間が経つ。
気が付けば、テレビの放送番組はドラマ番組に変わっていて、中流は壁に掛かっている時計で時間を確認した。
十時三十分。
まだ、寝るには早い時間帯だけれど。
「これ、何のドラマですか?」
「さぁ…俺、あんまりドラマって見ないから…」
答え、しばらくの間、二人はテレビドラマのストーリーを追っていた。
時期的に、連続ドラマが始まるには早いだろうから、単発の二時間ドラマだろう。
だとすると放送開始は九時が基本だろうから、あと三十分もしないで完結するということだ。
「ぁ…」
ふと、役者の台詞が、中流の記憶に触れた。
今のは一時期流行した物語の、確か本の帯にも載った名台詞だ。
「これ、雪村佐奈果の『家路』だ」
「家路?」
「簡単に言えば、主人公が自分の帰る家を見つける話さ。結構悲惨な境遇で育ってきた主人公は他人を信じることが出来ないんだけど、一人の男と出会って、自分の居場所を見つけるっていう…」
そう、そして最後に主人公は男と結ばれ、ハッピーエンドになるのだが。
「――」
中流の脳は、その内容を正しく記憶していた。
そして番組も、その内容を忠実に映像化させていた。
「…っ」
あんまり面白くないから番組変えるか、と。
中流がその台詞を思いつくまでに時間が掛かりすぎた。
いま正にクライマックス、テレビ画面は、主人公と男が結ばれる濃厚なラブシーンを映し出していた。
「――!」
カァッ…と瞬時に赤くなる尋人の顔。
中流が、尋人を怯えさせないよう彼なりに考えて作り出していたその場の雰囲気が、一瞬で崩れる。
尋人の中から引いていた緊張が、高波の如く一気に押し寄せてきた。
「…っ」
「尋人…」
「ぁ、あの…僕、そろそろ…っ」
休みますと、立ち上がった尋人だったが、動揺と緊張が足を震わせていた。
「尋人っ」
立ち上がるなり、よろけた少年を、中流がすかさず抱きとめようと腕を伸ばした。
だが身体に触れると同時。
「やっ…!」
「――」
腕を拒まれ、逃げられる。
「ぁ…、っ…」
逃げた尋人が、青ざめた顔になる。
「…」
「ぁの…先輩…っ」
「…早く休め」
「――…っ」
一言を残して、中流はその場を立ち去った。
それ切り振り返ることもなく。
「先輩…っ」
取り返しのつかないことをしてしまった、と後悔しても、もう遅い。
尋人は、中流を呼び止めることは出来なかった。
四
「参ったなぁ…」
尋人がその手のことに怯えているのは判っていた。
過去のこともある。
尋人が、未だ、中流の隣にいるのが自分でいいのかと不安に思っていることも知っていた。
だから、中流は何度も伝えてきた。
尋人が好きだ、と。
傍にいて、微笑っていてくれるなら、それだけで自分も幸せなのだから、と。
「…」
その言葉にも、気持ちにも、偽りはないけれど、あのように拒まれるのは、さすがに傷つく。
「…俺、そんなに怖いかぁ…?」
湯船に浸かりながら呟いて、中流は泣きたい気分だった。
◇◆◇
この家で、中流と一緒に暮らす事になった日から、この部屋が尋人の部屋になった。
中流の部屋の、すぐ隣。
もともとは客室で、ベッドだけしかなかったその部屋に、尋人が暮らすと決まってから、中流の両親は大喜びで家具一式を買い揃えてくれたのだという。
「大事なお嫁さんだもの」と中流の母親は笑顔で言う。
「尋人君も、私達を家族だと思ってくれると嬉しいね」と中流の父親は微笑んでくれた。
彼らが、本当に。
心から。
歓迎してくれていると解るから、尋人は尚更怖くなるのだ。
本当に自分でいいのだろうか。
自分が中流の隣にいていいのだろうか。
幸せを自覚すれがするほど怖くなる。
いつまで、これが続くのかと。
何故なら、幸せはいつか途切れることを、尋人は知ってしまっているから。
「っ…」
階段を上がってくる足音が聞こえる。
風呂から上がった中流が、休む為に自室に入る。
「…」
静かに、まるで眠っている尋人を起こさないよう気遣うように、微かな物音しか立てず閉じられた、彼の部屋の扉。
いま、この壁の向こうに、中流がいる。
「先輩…」
怒っているだろうか。…決まっている、怒らせたのは自分だ。
あんなふうに、中流の腕を拒んだ。
逃げてしまった。
…嫌われないわけがない。
「先輩…っ……先輩……ぅっ」
二人を遮る壁に手を添え、呼ぶ唇に、涙が落ちる。
「先輩…ごめんなさい……、ごめんなさい…嫌わないで下さい…っ…嫌わ…な…で…」
声が詰まる。
声の代わりに、涙が毀れる。
次から次へと、呼吸すら乱して。
ごめんなさい。
嫌わないで。
同じ言葉ばかりが、壊れた機械の如く繰り返す。
まるで、それしか言葉を知らないように。
「ごめんなさい…先輩…嫌わないで……先輩…っ……」
どれだけ繰り返せば、彼の心に、伝わるのか――。
「…バカだな」
「!」
不意に、背後から彼の声。
驚き、振り返ると、開いた扉隣に佇む中流の姿。
「っ…せ、先輩……?」
「あぁ、俺だよ」
「…ぅっ…」
「俺しかいないだろ…」
「先輩……っ」
どうしてここにいるのか。
いつの間に、この部屋にいたのか。
解らないことだらけでも、中流が、もう怒っていないことだけは解った。
「先輩…っ…」
嬉しいのか、それとも情けない自分が腹立たしいのか、表情を歪めて立ち上がることも出来ない尋人に、中流は苦笑して近付き、柔らかな髪に触れる。
「ほんと、バカだ…、ってかズルイよ、壁越しに泣くなんてさ」
「ぇ…」
「そんな厚い壁じゃないんだから、聞こえないはずないだろ」
「…っ」
その指摘に、尋人は顔を真っ赤にした。
「ぁっ、え…あの、僕、そんなつもりじゃ…」
狼狽し、しどろもどろになる尋人に、中流は「冗談だよ」と笑った。
たまたま聞こえただけだ。
尋人が意図的にそれをするなんて、誰も思わない。
「…怒って、ないんですか…?」
「ないよ。…まぁ、尋人に信用されてないのには傷ついたけど」
「っ、僕…」
「ごめん、違うな。ちゃんと話そうとしなかった俺が悪い」
「先輩…?」
涙で濡れた瞳を丸くして見上げてくる尋人に、中流は微苦笑した。
深呼吸を一つして、尋人を優しく抱き締めた。
「…あのさ、別に疚しい気持ちがあるわけじゃなくて、純粋に、質問として聞きたい」
「…何ですか?」
「尋人、俺とエッチしたい?」
「っ! えっ…」
「あぁ、だから質問として、正直に答えてくれればいい」
「…あの…」
「俺としたい?」
耳まで真っ赤になって困った顔をする尋人を、しかし中流は、真面目な顔を見つめた。
正直に答えればいいと、中流は言う。
その意図は尋人には解らなかったけれど、いま、素直な気持ちを伝えなければならないことは解る。
「…」
しかし中流の顔を見つめて告げるのは心苦しくて、尋人は視線を逸らし、彼に背中を預ける格好で口を開いた。
「…先輩のことは好きです。大好きで…本当に、大好きです…」
「ん」
「…けど…」
言い辛い言葉を、だが中流は静かに待った。
尋人自身がそれを言葉に出来るまで。
「けど…それは、怖いです……まだ、怖くて…」
「うん」
中流は応え、尋人を抱き締める腕に力を込めた。
「俺も、まだ尋人としたいとは思わない」
「え…?」
「だからって好きじゃないとか、そんな誤解するなよ。そうじゃなくてさ…、まだ“その時”じゃないんだ」
「“その時”…」
「そういうのって、タイミングじゃないか。例えば出逢いにしても、タイミングが合う、合わないで、友達になったり、通りすがりの他人になったりすると思う。タイミングが合って親しくなることを、縁があるって言うと思うんだ、俺は」
「…」
中流の言葉を、尋人は、一つ一つ理解しようと心の中で反芻した。
「タイミングが良く合うかどうかで、相性が好いって言ったり、悪いって言ったりさ。……好き合っていても、タイミングが合わなければ恋人同士にはなれないし」
「――」
「長く続かなかったりする」
「先輩…」
驚いたように見上げてくる尋人に、中流は微笑う。
「俺は、…尋人が好きだから、こうして二人きりでいたら、そういう気にもなるけど、まだダメだって思う。解るんだ、いまはまだ“その時”じゃないって」
「…」
「いま、尋人に聞いて、尋人が怖がっていると解った。…俺の…この場合、本能って言うのかな…それが正しかったと解った。いつ“その時”だと思うかは、まだ判らないけど、少なくとも今現在の俺達は合ってるってことだろ?」
「先輩…」
「俺達、相性好いぞ、絶対」
「…っ」
屈託なく笑う中流に、尋人は泣きたくなる。
否、涙は勝手に溢れ出た。
「先輩…優し過ぎます……っ…」
「尋人に嫌われたくないだけだ」
「…っ…」
しがみついてくる尋人を、しっかりと抱き締め囁く。
「…信用してくれたならさ、一緒に寝てもいいか」
コクコクと尋人は何度も頷く。
家に二人きり。
壁一枚挟んで隣の部屋。
わざとらしく別々の部屋で眠るなんて、それこそ、気になって眠れない。
「好きだよ」
「大好きです…っ」
想いをぶつけて、笑顔を見合わせて。
キスをする。
ありったけの想いで包み込む。
出逢いの春。
始まりの春。
春にもいろいろあるけれど、彼らの春は、新たな幸せへの出発地点。
相も変わらずな二人だけれど。
――これからも、どうぞ宜しくお願い致します――……。
余話
「裕幸! 俺は本当にっ、心からっ、本っ気で感謝する! 今ほど変な血ぃ引いていて良かったと思った事はない!」
「変な血、って…」
「だってそうだろ、これがなかったら人間の性欲を封じるなんてこと出来ないだろっ、出来なかったら俺は確実に尋人に嫌われた!」
中流の真剣な演説に、裕幸は苦笑い、汨歌は呆れて溜息だ。
昨日、先輩社員に言われた一言がきっかけで、その危険性に気付いた中流は、仕事を終えてすぐに大樹家を訪れた。
尋人を怖がらせたくない、傷つけたくない。
けれど、自分もまだ大人ではないから、力を貸してくれと頭を下げた中流に、裕幸は、すぐにある種の呪いを施した。
それは尋人の気持ちに連動した封じの術。
そして、それが早速役に立ったことを、中流は先のように報告しに来たのだった。
たまたまここを訪れていた汨歌も加わって、春先の大樹家は非常に賑やかだ。
「これだから男って…理性で抑えなさいよ、それくらい」
「アホかっ、健全な男が好きな奴と二人きりになって何もせずにいられると思うか!? しかもそれが二週間も続くんだぞっ、それだけの理性があったら俺は仏様だ!」
「アンタのその威張り方が一番ヘン!!」
言い合い、唸りながら睨みあう中流と汨歌に、裕幸は苦笑いの表情で口を開いた。
「中流さんのその封印は、尋人君の気持ちが固まったら自然と解けますから、それまでは純粋な恋愛を楽しんでくださいね」
「サンキュ」
「サンキュ、じゃないでしょ? ほんっとに、何がタイミングよ。思いっ切り尋人君に嘘ついてるくせに」
「タイミングの話は嘘じゃなく俺の持論だっ、尋人がまだその気になれないのも解ってた、だから裕幸に頼みに来たんだろ!?」
「だったら性欲も自力で抑え込みなさいって言ってンの!」
「出来るわけねぇだろ、こっちはとっくに暴走寸前なんだから!!」
「――っ」
「…中流、それは自信満々に言う台詞じゃないだろう」
「あ…」
いまリビングに姿を現した大樹家長男・裕明の冷静な突っ込みに、我に返った中流は、しまったと思う。
ぐるりと見渡せば、裕幸は頭を抱え、汨歌は絶句し、しかも二人とも耳まで真っ赤である。
「わ、悪い…」
「いえ…」
「まぁ、中流が必死で大切な子の心を守ろうとしているのは伝わったけれどね」
「ははは…」
今更、恥ずかしくなってきた中流は、腰を落とし、裕幸が淹れてくれた珈琲に口をつけた。
ようやく落ち着く気になったらしい彼に、裕明がクスッ…と笑いながら、言葉を続けた。
「ところで、いつ尋人君に俺達の血の話しをするかは、決めているのかい?」
「え…、あぁ…話す気ではいるけど…これもタイミングかな、と思って」
「…時期を見過ぎてばかりいる男も情けないわよ」
「解ってるっ。…けど、やっぱり、こういう話をするにも“今だ”と思う時があると思うし」
「そうですね」
「そのタイミングを見計らう才は、一族の中でも中流がずば抜けているのは事実だ」
「…ありがと」
褒めてくれた事に礼を言い、そして、どこかいたずらっ子の笑顔になる。
「けど、尋人は絶対に驚くよなぁ」
「驚くだろうね」
「そりゃそうよ。宇宙人一家なんて普通じゃないだし、何より、尋人君が望めば中流との子供が出来るなんて、地球の男同士の関係じゃ考えられないんだから」
子供が出来る――それは地球の女性がそうであるように胎内に命を育むのとは異なり、彼らの体内に流れる血の源――里界特有の方法になるが、それでも、二人の間に子供を誕生させることは可能なのだ。
裕幸だけが知っていたその術は、ある夜、六条至流氏が酒に酔って大樹家の家長にこぼした一言をきっかけに、親族皆の知るところとなった。
出流はああだし、孫を抱き締めるのは夢のまた夢になってしまったと、ほぼ諦めていた六条の両親は、これを聞いて生き返った。
結果、中流が誰より大切だと、憚らず言い切る尋人を心から歓迎出来たのも、また事実。
「まぁ…やっぱり親には心配掛けてたんだなと思うと…申し訳なかったな」
ポツリと零した時の中流の表情を、裕幸は忘れない。
だからこそ、是が非でも、中流と尋人には幸せになってもらいたい。
「俺は、いつ“その時”が来ても構いませんから、どうか、尋人君を大切にして下さい」
「もちろん」
そうして、心から笑ってくれる中流が、裕幸の救いになる。
どんな術もその手にある。
“白夜”と言う名の、里界の月、癒しの守護者――その魂を継いだ者が可能にする奇跡には、それ相応の代償があることを、誰一人、気付かずにいてと、裕幸は願う。
知らなくていい。
ただ、笑っていて。
その笑顔が救いになる。
その笑顔だけが、限りある自由を生きる裕幸の、たった一つの願いだから――。
―了―