時の旅人 終
四日後―――。
◇◆◇
空は晴れ。
四月初め。
内地ではとうに桜花爛漫、めっきり春めいているというのに、北の大地では雪が残り、桜の開花にもまだ遠い。
それでも、肌寒さを残す風には大地の匂いが混じるようになり、道行く人々の服装も随分と軽いものに変化していた。
高校の入学式まであと三日と迫ったこの日、菊地武人はS市の警察署を訪れていた。
受付で名乗り、しばらく待つように言われてロビーの出窓から外を眺めていると、
「いらっしゃい」
そう、若い女性に声を掛けられた。
「菊地君、だね。私が江藤汨羽――六条中流の従姉だ」
「菊地武人です。…今日は、お世話になります」
頭を下げると、彼女は薄く笑う。
「気にすることはない。君はうちの弟のために身体を張ってくれたんだ。これくらい容易い御用だよ」
女性の割りにサバサバした口調の彼女は、一七〇以上の長身を無駄にせず、背筋と同様にスラリと伸びた手足が非常に美しく見えた。腰に届くのではないかと思われる長い髪は後ろで一つに結わえられ、見るからにデキる女性といった感じだ。
彼女が、六条中流の従姉。
この警察署に彼女がいると聞いて、菊地は一つだけお願いしたいことがあるのだと、彼らに頭を下げたのだ。
「この部屋で待っていてくれ。――すぐに来る」
「はい。――本当に、無理を言って済みませんでした…。本当なら会えるはずないのに」
「言っただろう。君は中流のために身体を張ってくれたんだ、これくらいは易いものだと」
言って、彼女は笑う。
そうして部屋を出て行った。
「…」
従兄――あの日、人を刺し、傷害容疑で警官に連れて行かれた滝岡修司は、四日経った今もこの警察署で留置されている。
幸い、刺された男の傷は致命傷に至らず、搬送先の病院で意識を取り戻し、順調に回復に向かっているのだが、滝岡は事情聴取に一切何も語ろうとせず、担当刑事を困らせているというのだ。
刺された側が告訴はしないと断言した(正確には断言“されられた”のだが、これに関して菊地には知らされていない)以上、彼が罪に問われることはなく、いつでも釈放が可能だというのに、滝岡がただ一度だけ告げたのは、自分を罪人にして欲しいという一言だった。
その彼と話がしたいと、菊地は頼んだ。
どうしても、本人の口から聞きたいことがある。
確かめたいことがある。
……訴えた菊地に、大樹家はすぐに動き出したのだ。
コンコン、と扉が叩かれる。
入ってきたのは若い男と、彼に伴われた滝岡修司。
「…本当に二人きりにして大丈夫ですか?」
男は、一番後ろに立っていた江藤汨羽に問い掛け、彼女が頷くと、渋々納得して見せた。
「十五分だけだよ、十五分」
男は念を押すように繰り返し、部屋を出て行く。
逆に江藤汨羽は、
「…ゆっくり話しなさい」と穏やかに笑んで去っていった。
恐らく、扉のすぐ向こうには、あの男の刑事が立っているのかもしれないが、それでも良かった。
「…」
修司と話す場が持てた――それだけで、充分だ。
窓際に立つ菊地は、扉のすぐ脇に佇んだまま顔を上げようともしない従兄を見る。
一年半前に見たときよりも、少し髪が伸びただろうか。
背も、少し高くなったかな。
…その“心”には、なにを思っているのだろうか。
「……あのエータって奴、かなり回復してきたってさ」
「…」
「修司、おまえもちゃんと刑事さんに事情を話して…早く出て来い」
「…」
「本当は、人を刺すのは悪いことだし、こんな言い方は間違っていると思うけど…、あの男を刺したからって、俺はおまえを責めないよ」
「…」
「…」
何を言っても、滝岡は微動だにしない。
返事もない。
「…」
菊地は軽く息を吐き、仕方ないと、話し始めた。
「…俺がここに来たのは、修司にどうしても確かめたいことがあるからだ。三つだけ、質問させて欲しい」
「…」
「一つ目は、あのフィルムのこと」
「…」
「どうして俺のところに送ってきた? 六条中流に渡せ、なんてメッセージ付きで」
菊地の、ストレートな問い掛けに、だが本人は何も言わない。
指先一つ、動かない。
「……二つ目。なんで、あの男を刺した?」
「…」
「……三つ目。これは、無言もOKの返事だと取るから、そのつもりで聞けよ。先の二つの質問の答えを、俺が勝手に考えて、決めて、勝手に倉橋尋人に話してもいいか?」
「――」
このとき、初めて滝岡の顔が強張った。
倉橋尋人の名前に、微かだが反応を見せた。
だが結局は無言のまま。
菊地は、宣言どおり、それを彼の答えと取る。
「…俺、おまえが俺のところにフィルムを送ってきたのは、たぶん、そんなの受け取るのが俺しかいなかったからだろうと思ってる。まさか、俺のクラスに倉橋が転校してくるなんて思わなかっただろうし、何も知らない俺なら『ったく修司の奴、なんでこんなに人使い荒いんだ!』…とか文句言いながらも六条中流を探して渡しに行くって思ったんだろ? だって…倉橋が転校して来なかったら、俺はきっとそうしてたって、自分で思うから」
「…」
「六条中流に渡せって言ったのは、…自分じゃ処分出来なかったからだ」
「…」
「自分で処分するってことは、…自分がした悪いことを、なかったことにするみたいで出来なかった。…違うか?」
「…」
「六条中流に渡したら、あの人はきっと修司を憎んだ。…そうすることで、自分の罪をあの人にも覚えていて欲しかったんじゃないのか?」
「…」
「まだ無言?」
苦笑交じりに問う菊地に、やはり滝岡は何も語らず。
仕方ないと、二つ目の質問の答えも話し始めた。
「あのエータって奴、刺した後…、修司、償い方なんか知らないって言ったよな」
「…」
「あいつが、二度と倉橋の前に現れないように、………殺すつもりだった?」
「…」
「無言は肯定と取るぞ」
言っても、やはり無言の滝岡に、菊地は息を吐いた。
「…判った、そういうふうに説明するよ、皆には」
「…」
「俺さ、……どうしても、おまえが救いようのない悪人だと思えないんだ。…倉橋が、修司に助けてもらったことがあるって言うの聞いて、ますます、そう思った。修司は、…本当はそんなに悪い奴じゃない、って」
「…」
開いていた手が拳を握り、…唇はきつく結ばれる。
…何か言いたいことがあるのは明らかなのに、それでも君は、何も語ろうとしないのか。
「…例のフィルムは、六条中流が処分したよ」
「…」
「……修司が帰ってくるの、待ってからな」
そうして、菊地は従兄の横を通り過ぎ、扉ノブに手を掛けた。
もう話すことは何もない。
相手に話す気もないのなら、自分の用件は済んだのだ。
帰ろう、と扉を押し開けかけて。
しかし途中で手を止めた。
「……最後に一つだけ、言っておかなきゃならないこと、あった」
「…」
「俺、修司が倉橋を好きになった理由、何となく判る」
「――」
「やっぱ俺達、血ぃ繋がってるよ。こういうとこ、似てンのかもしれない……すごい複雑だし、…なんか納得もしたくないけど」
「…」
「倉橋、六条中流とヨリ戻したよ。毎日すげぇ幸せなの、見てて丸判り。いい加減、腹立ってくるくらい」
「…」
「…倉橋は、ちゃんと笑ってるよ」
「………」
「じゃな」
言い終えて、一息ついてから扉を開けた。
もうここに来ることはないだろうと思いながら、その部屋を遠ざかろうとした。
が、不意に声が聞こえる。
菊地への応えなのか。
それとも独り言なのか。
「…俺はクズだ」
「―――」
「人のために出来ることなんか何もないし、…しようとも思わねぇ。全部、自分のためにしたことだ」
「修司…」
「…アイツが誰とどうなろうが関係ない。俺には…関係ない」
「…」
「俺は、俺のしたいようにしただけだ」
「……そっか」
応える菊地の口元には、自身にも解らないけれど、笑みが浮かぶ。
「うん…、わかった。……早く出て来いよ」
もう返事がないのは判っていて、それでも一言告げたくて。
思ったより遠く離れて自分達の話が終るのを待ってくれていた二人の刑事に頭を下げ、汨羽に改めて感謝の言葉を告げると、警察署を後にした。
外に出ると、肌寒くも優しい春の風。
菊地の心にも優しい風が吹く。
「さぁて、引越しの準備でもするか!」
あの町から祖父母の家へ。
入学式まで、あと三日だ。
◇◆◇
「で?」
「で!」
聞き返してくる野口に、尚也は力任せにリンゴの皮を剥きながらキッと空を見据えた。
「あの幸せボケした二重人格変態オヤジ系バカアホ野郎ときたら…っ」
「…幸せボケした二重人格系変態オヤジ……何だって?」
「二重人格変態系クソバカオヤジ!」
「…なんか変わってないか?」
「いンだよ、そこは問題じゃねぇんだから!」
「あ、そう。…しかし、そのリンゴの皮むきは問題だと思うぞ? どっちが皮で実なんだか判りゃしねー。おまえの皮むきはリンゴとの力比べかよ」
「人に剥かせといて文句か!? 食べたいなら自分でやればいいだろ!」
「だって俺、手、使えないし」
「カノジョにやってもらえば!?」
「美弥、仕事じゃん。彬先生と同じなんだから」
「だったら食うな!」
「昨日、中流はそりゃ見事な包丁捌きでリンゴを剥いて行ったぞ」
「おまえの怪我は中流のせいなんだから、中流が剥くのは当然だ!!」
心底苛立たしげに言い放つ尚也に、野口は笑いを噛み殺すのに苦労する。
何だかんだと言いながら、結局、尚也の怒りの原因は、ようやくアフリカから帰って来た親友が、恋人最優先で自分を構ってくれないのが悔しいだけなのだから。
それにしてもいい天気だな、と病室の窓から空を眺めて、野口は笑む。
この、大樹総合病院外科病棟の一室で目を覚ましたのは二日前。
視界が開けた途端に飛び込んできた両親の姿に驚いて。
すぐに恋人の松島美弥子の顔が見れた事に安堵し。
心配させたよな、悪い事をしてしまったな…と思っていたら、
「野口?」
控えめな声で呼ばれた。
「…野口さん…っ…」
今にも泣きそうなその声は、もしかしての、予想通りの人物だった。
咄嗟には信じられなかった。
けれど、ずっと、並んで歩いてくれることを願っていた二人の顔が揃っているのを見て、不覚にも涙がこぼれた。
――…お帰り……
ようやくアフリカから戻ってきた中流への言葉か。
中流の隣に、ようやく立ってくれた尋人への言葉か。
二人が一緒にいるのを知って、全部が無事に終ったのだと、野口は勝手に解釈した。――そしてそれは、あながち間違ってもいなかったのだ。
「しっかしさぁ、尚也」
「あぁ?」
「…」
何ともガラの悪い返事の仕方に苦笑しつつ、続ける。
「今からそんな不機嫌になってて、これから大丈夫なのか?」
「…どういう意味だよ」
「だってさ、もし本当にソレが実現しちゃったら、中流は当然、朝から晩まで恋人最優先。おまえは大学生で中流は社会人、生活時間だって違ってくるし、ますます構ってもらえなくなるだろ」
「っ、構ってもらえなくなるって何だよ!」
「だって、今だってそれで怒ってンじゃん」
「俺はそんなガキじゃない!!」
怒鳴る尚也に、いや全く以って子供だろ…とツッコミを入れたい気分になる。
「尚也、ほんっと中流が好きだな」
「―――っ! 好きって何だよ、俺は…!」
「ふぅん、尚也は本当は六条が好きだったのか…」
「!」
「あ」
唐突に、何の前触れもなく割り込んできた三つ目の声に、二人は同時にドアを振り返った。
立っていたのは長身の男が二人と、大きな花束を抱えた女性が一人。
彬と、貴士と、松島美弥子の来訪に、まず野口の顔が緩んだ。
「尚也、そこどけろ。美弥、ここ座って」
「! おまえも恋人優先か!?」
「当たり前じゃん、いまの俺は美弥の機嫌直すのに必死なんだ」
とんでもない無茶をし、散々、心配を掛けさせた野口に対し、松島美弥子は本気で怒った。
感情的に怒鳴り散らすということはなく、静かに、静かに、野口を圧迫するオーラは凄まじいものがあり、またその一方で、彼女が声を殺して泣いていたのも知っているから、野口は彼女への罪滅ぼしに、本当に必死だったのだ。
「ささ、座って座って。尚也、お茶」
「何だよ、その扱いは!!」
二人の遠慮のない言い合いに、大人たちはくすくすと楽しげに笑った。
「いいわ健吾。先にこのお花を生けてくるから、まだ本居君にゆっくりしていてもらって」
「いやいや、ゆっくりなんかさせられないなぁ」
「! なっ…」
彬が言い、人前であることすら憚らずに尚也を背後から抱きすくめた。
「彬! 何して…っ」
「何して、はこちらの台詞だな。何やら聞き捨てならない話を聞いた気がするが?」
「っ! なんも悪い話なんかしてない!」
「ほぅ、尚也は浮気を良い事だと思っているわけだ」
「う、浮気!? ンだよそれ! 中流の話をしてただけだろ!?」
「…まさかまさかと心配してはいたけれど、まさかそこまで六条を想っていたとはね…」
「だから何なんだよそれは! おまえは俺がダチと遊ぶのもダメだってか!」
「心の狭い男は嫌われるぞ」
「そうだそうだ!!」
貴士の合いの手を、これ幸いとばかりに活用した尚也に、だが彬は今まで以上にぎゅぅっと恋人を抱き締める。
「俺もたまには尚也の最優先になりたいんだけれどね」
「! 俺がいつおまえを二の次にしたよ!」
たまには、の一言にムッとして勢い任せに言い放つ。
「――」
と、一瞬の沈黙。
そして笑顔。
「へー…」
「そーなの…」
「…そうか、俺は余計なことを言ったかな」
野口、美弥子、貴士がそれぞれに口元を緩めて呟く。
彼らが何にそんな反応をして見せるのか、まったく気付いていない尚也の背後。
恋人を抱き締める男は至福の表情だった。
「どっちもどっち、おまえだって中流のこと言えないだろ」
「だから何が!」
「…おまえ、天然だね」
「ンだと!?」
「そこが尚也の可愛いところさ」
「〜〜〜っ、なんかおまえらすげぇムカつくんだけど!!」
言い合う彼らに、美弥子は笑う。
貴士も声を立てて笑いながら、いま、この空間があることを心から嬉しく思う。
四日前、まだ意識の戻らない野口の見舞いに現れたのは、あの日、別々の道を歩み始めるしかなかった少年達。
――…記憶、取り戻しました……
そう語った少年は、隣に立つ恋人の手を握り、…その温もりに守られているようだった。
ようやく祈りは届いた。
願いは叶った。
この二人は乗り越えられたのだと、あまりの嬉しさに、泣きたくなった。
おめでとう。
お帰り、…どんな言葉も相応しいようで、相応しくないようで。
言えなくて。
何故か口をついて出た言葉は「ありがとう」だった。
野口があのような状態で病院に運ばれてきて、何が起きているのか、どうなってしまうのか不安だった貴士には、現在、この喜び溢れる空間があるのは彼ら二人が幸せになってくれたからだと信じている。
人間の幸せは、人間を幸せにする。
だから人間は幸せにならなければならない。
「……そういえば、今日だったかな」
野口の体調を診ながら話しかけると、彼もまた嬉しそうに頷いた。
「あいつ、最後まで背広着ていくべきかどうか悩んでましたよ」
「まるでご両親に結婚の許可を貰いに行くみたいだな」
「実際、その心境じゃないんですか?」
からかうように。
けれど嬉しそうに。
「俺、中流のあの顔が見たかったんだ」
笑う野口に、貴士は頷く。
尚也も彬も、気持ちはきっと同じ。
あの、幸せな二人が見たかった。
◇◆◇
「…やっぱり背広の方が良かったんじゃないか?」
「そんなことありません! 普通でいいんですっ」
「けど、二人で幸せになるって約束しに行くんだぞ? 言わば『結婚を前提にお付き合いさせて下さい』ってご両親に挨拶するも同然なのに、普段着ってのは…」
「け…っ!? け、けこ…結婚て…!」
途端に真っ赤になって狼狽する尋人を、可愛いと思う。
可愛くて。
愛しくて。
たった一人の特別な人。
この日、中流と尋人は、二人で電車を乗り継ぎながら倉橋家のある町を訪れた。
尋人にとっては四日振りの帰宅。
記憶を取り戻し、一応の決着がついた後も、野口の容態が心配だったり、滝岡修司の一件もあったりなどして慌しい時間が続いた。
そのため、尋人もK市に留まっていたのだが、それ以上に、中流と過ごす時間を一分一秒でも延ばしたくて、自宅に帰ると言い出せずにいたのだ。
四日前の両親への電話で、記憶を取り戻したこと、六条中流のこと、菊地のこと、滝岡のこと…一時間以上も受話器を握りながら今までの経緯を話し、少なくとも二、三日はK市を離れられないと、外泊の許可を求めた尋人に、
「ゆっくりしておいで」と言ってくれた両親。
だが、それも四日を越えてはさすがに申し訳ないと判断した中流が、一緒に家に帰ろうと切り出した。
それも、二人で過ごす未来のために。
「ぁ、あの、両親にはけっ、け…っ、結婚、とか…っ、言わないで下さいね…!」
「……ダメか?」
「だ…だって、そんな…だって…」
「あぁ、心配しなくて大丈夫だぞ、純白のウェディングドレス着せたりはしないから」
「! それは心配してません!」
「冗談だよ」
「……っ」
あっさり言い返されて、尋人は中流を睨んだ。
「先輩…っ…、どうしてそんなに意地悪なんですか…っ?」
「ん?」
クスクスと笑いながら、恥ずかしがりながら怒っている恋人の手を握る。
「先輩…っ」
「いろんな尋人の表情が見たいんだ」
「――」
「一緒にいられなかった時間の分も、…尋人のいろんな顔、いろんな声、…いろんな尋人が知りたい」
「…っ…」
「好きだから触れていたいし」
「先輩…」
「…好きだから、放したくない」
「―――」
不意に降りてきた唇が、尋人の唇に掠めるように触れて、去る。
クスッ…と緩む口元。
尋人は頬の高まる熱を自覚した。
「…っ…誰かに見られたら…っ」
「いいよ、俺は幸せだ」
「…っ…」
頬だけじゃなく、目頭も熱くなる。
たった一言で、なんでこんなに、…幸せな気持ちになるのだろう。
どうして、こんなに好きな人を忘れていられたのだろう。
悔しい。
好きだったから忘れてしまったのだとしても、一緒にいられなかった取り戻せない時間が、何よりも悔しかった。
「…」
だから、これからは一緒に。
時間の許す限り、たった一度の日々を共有出来るように。
「高校の入学式は三日後か。…イキナリ引っ越すことにしたから、かなり慌しくなるな」
「…構わないです。自宅までそう遠いわけじゃないし、必要なものだけ持っていって、…足りないものは、週末に取りに戻ります」
「ご両親、本当に許してくれるかな」
「…たぶん。電話では、反対はしていませんでしたし、…先輩の家が一番安全だって、思ってくれてます」
――…一番“安全”ねぇ…
それは少々責任が重いな…と胸中に呟きながらも、隣を歩く尋人を見て、その言葉は飲み込んだ。
三日後から高校生になる尋人の進学先を聞いたとき、中流は自分の耳を疑った。
何故ならそれは、自分の住む街からでもバスに乗って三十分は掛かる遠方の高校で、尋人の自宅からでは二時間近くの道程だ。
確か寮があったと思い出し、入寮するのかと尋ねれば答えは否。
どうしてそんな遠い場所に進学を決めたのかと尋ねると、その学校の教育システムに惹かれたからだと言う。
入寮は両親が認めない。
自宅から通うか、もしくは菊地の祖父母の家に厄介になるか…という話を聞いて、中流は、ならば自分の家に住めばいいと考えた。
そうすれば、菊地が暮らすようになる祖父母の家にも近いし、学校に通うのも楽だろう。
その上で尋人と中流、二人が一緒にいられる時間が増えるなら、当然、大歓迎だ。
尋人も、最初こそ戸惑っていたものの、今は中流と暮らすことを望み、両親との電話での話し合いを経て、この案は順調に実現に向かっていた。
二人、一緒に暮らす。
それは春から高校生と言う新生活を控えた尋人に、二重の期待と不安を抱かせた。
…そう。
期待ばかりではなく、不安も確かにあった。
何もかもが良い事ばかりではない。
今だって、尋人の心には傷が残る。
中流の傍にいるのが自分でいいのかと怖くなる。
それでも、隣には中流がいる。
彼が一緒にいてくれることは、何があろうと信じられるから。
「一緒に暮らそうな」
そう言って、中流は笑う。
「いつか一緒にアフリカに行こう」
どうしても会わせたい人がいると、楽しげに笑う。
貴方を失くしていた時間。
君がいなかった時間。
たくさんの人に助けられた。
たくさんの人に守られた。
たくさんの人の力を借りながら、ようやく重なった二人の時間。
幸せにならなければ罰が当たる。
「尋人」
君の名を呼ぶたび。
たくさんの人の声が聴こえる。
「先輩」
君にそう呼ばれるたび、たくさんの人に想われている事を知る。
親父
兄貴
尚也
先生
野口
裕幸
時河
汨歌
――佐伯さん
ありがとう――どんな言葉も足りないくらい感謝してる。
菊地
滝岡
――…二人の関係を聞いたときには驚いたけれど、二人がいなければ現在がなかったのも事実。
複雑なものもあるけれど、…やっぱり、感謝するしかない。
おまえたちがいてくれて良かったよ。
おまえたちがくれた現在だから。
時は巡る。
風のように。
想いのように。
行き先未定の旅人を乗せ。
限りない明日を探しに行く。
例えばどんなに哀しい涙が毀れても、君が教えてくれるんだ。
生きる喜び。
生きる幸せ。
君とだから知れるもの。
「尋人」
「はい?」
「絶対、幸せにするから」
「――」
「俺を好きになったこと、絶対に後悔なんかさせない」
真っ直ぐに見つめて告げる。
今はまだ、これが精一杯の誓い。
「好きだぞ、尋人」
「…っ」
泣きそうな顔になって。
でも、微笑って。
「大好きです…」
そうして、抱き締め合える君とだから知れるもの―――。
THE END