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二度目の楽園 五

 どこが壁でどこが床なのか、そこに人がいなければ判らなそうな真っ白の立方体が撮影の舞台。

 その中央に、ブランドなど全く興味のない人間でも一度は耳にしたことがあるだろう一流の有名ブランド【bliss】の衣装を完璧に着こなした彼がいた。

 ――否、彼は既に“彼”ではなく。

 踵まで届く長い銀糸の髪。

 透き通るのではないかと思うほど白く艶やかな肌。

 作り物の人形のように整った容貌は、まるで呼吸すらしていないようだった。

 だがその顔が、些細なことで和らぐ。

 それは写真家の他愛ない一言だったり、仕草だったり。

 穏やかな微笑は、ただそれだけで世界を一変させる。

 男だとか、女だとか。

 そういう枠で考えること自体が愚かしく思わせるその存在は、まさに天使――。

「はぁ…」

 自分の役目を終え、従弟の撮影をじっと見守っていた中流は、すぐ側で同じように見学している尋人が感嘆の息を漏らすのを聞き、そっと微笑する。

「すごいだろ?」

「すごいです…、なんか、世界が違うって言うのか…、すごく綺麗で…裕幸さんだって判っているのに、…全然違う感じがして…引き込まれるようで…」

 撮影の邪魔にならないよう出来るだけ小声で話す二人に、傍にいたCGデザイナーの穂高ほだかが混ざってくる。

 天使の笑顔としてKARA.Hを世に送り出すためには、写真家・六条至流の撮った写真を加工し、それが大樹裕幸という少年であることを悟らせないようにする職人が要る。

 それがこの穂高なのだ。

 KARA.Hの正体が裕幸であるということは事務所内でも極秘のことであり、撮影現場には彼らと本人、写真家・六条至流の他には、照明担当の男性と六条氏のアシスタントが一人ずついるのみ。その他の作業は出来る人間が担当することになっており、メイク等の装飾担当は全て穂高が兼任していた。

「裕幸君は特別だよ。あの子には生来の不思議なものがあるけれど、幸せそうな笑顔は何にも増して周りを和ませる。普段の穏やかさは頼り無くさえ見えるのに、ああいう格好をさせた時の彼は、まさに神秘」

 穂高の言に、中流も大きく頷く。

 穂高は真実を知らないし、それこそ知っているのは親族とほんの一握りの者達だけだったが、裕幸のそれは常人の目にも明らかだ。

「それを親父は見抜いた。blissに相応しいのは裕幸しかいないって、あいつのお人よしな性格に付け込んで粘り勝ち。けど親父は間違ってなかった。IMが発表された後で誰もが認めたんだからな、blissに相応しいのは裕幸――KARA.Hだって」

「blissの意味は知っているかい?」

 穂高に聞かれた尋人が左右に首を振るのを見て、中流は言った。

「【至上の幸福】って意味だよ」

 何物にも代え難い幸せ。

 その意味に、尋人は素直に頷けた。

「なんだか判る気がします…。どうして裕幸さんだったのか…」

 実際にこうしてその姿を見て思う。

 目が離せなくなる存在感。

 惹き付けられる微笑は優しく、温かく、まるで癒されるような輝き。

【至上の幸福】を形にするには裕幸でなければならないと感じた写真家の気持ちが、KARA.Hの穏やかな美貌を通じて伝わってくる気さえした。

「…親父が裕幸を撮っている時に思ったんだ、俺も写真家になりたいって」

 言葉を失くしている尋人に中流は言う。

「普通じゃ気付かない、人間の本当の姿を撮れる写真家になりたいってさ」

「先輩…」

 中流の強い思いを聞いて、尋人は頬をうっすらと朱に染めた。

 これとは言い切れない様々な感情を含んだ眼差しで中流を見上げ、しばらく言葉に迷っているようだった。

 その間に撮影は終了し、写真家とKARA.H、二人が立てる音や声以外は何もなかった空間に現実感が戻り始める。

「さぁ六条君、次の撮影のために片付けを始めようか。裕幸君はとりあえず顔隠して控え室だ。急がなかったら正体がバレるぞ〜、バレたら仕事にならないぞ〜〜」

「…バレたら辞められますか?」

「いいよ、blissと出版社に解約料を払ってくれるなら」

「…」

 穂高と裕幸の遣り取りに、皆が笑う。

 中流も失笑しながら尋人を向いた。

「少しここで待っていてくれ。次の撮影準備が終わったら家まで送るからさ」

「あ、あの…、次も裕幸さんですか?」

「いーや。次は兄貴の方」

 簡単に言う中流とは逆に、尋人はただ呆然としてしまう。

 聞いていた事とはいえ、こう次々と中流の血縁関係の撮影が続き、そのために大勢の人間が動き回るというのは、凄いどころの話ではないように思われた。

 父親は世界に認められる芸術家。

 実兄と従弟は芸能人。

 おまけにあの大樹総合病院の創立者が祖父で、現院長が伯父だというのだから、こうして実感させられると自分とは住む世界が違うように感じられた。

「…すごい人なんですね、先輩て…」

 尋人が心から呟く台詞に、しかし言われた当人は複雑な笑みを零す。

「すごいのは親父達で、俺はただの高校生だぜ」

「え…」

「もちろん『今は』だけどな」

 十年後を楽しみにしていろと言い残して、中流は自分の仕事に取り掛かるため、その場を離れていった。

 その背を見送り、尋人はぎゅっと握った手を胸に当てた。

 いつになく早いリズムを打つ心臓を、深呼吸と「静まれ静まれ」という念で落ち着かせようと試みながら、忙しく動き回る中流を見つめる。

「…頑張って下さいって、言いたいのに…」

 中流の思いを、夢を聞かされて、そう言いたかったのに言えなかった。

 彼の真っ直ぐな目に見られると、どうしても言葉が出てこなくなる。

「…嫌われたくないのに……」

 気付かれたくないのに、このままではそれも時間の問題だと不安になる。

 中流は何も知らないから親切にしてくれている…、尋人はそれを自覚しているのに、彼の顔を見て、声を聞いていると抑えが効かなくなりそうになる。

 最初に会った時。

 自分の寝かされていた部屋が中流の部屋だと知った時。

 放課後は待っているから一緒に帰ろうと言われた時…、尋人がどんなに嬉しかったか中流は知らない。

 何も知らないから優しく接してくれるのだ。

「気付かれちゃいけないのに…」

 尋人は自分の胸に手を当てたまま大きく深呼吸をした。

 気を取り直し、普通に彼と話せるように。

 それだけを何度も心の中で繰り返し、自分に言い聞かせた。

「?」

 それからしばらくして、不意に周囲が今までと違った雰囲気のざわめきに包まれた。

 次の撮影のために続々と現場入りしている大勢のスタッフ達。

 尋人もつられて無数の視線が集まる先に顔を向けた。――そして一瞬、息をするのも忘れるほどの衝撃を受ける。

「あの人…」

 栗色の髪と青に近い色の目。

 一八〇は優に越えた長身と均整の取れた完璧な体躯を普通じゃ絶対に着ないようなデザインの衣装で飾り、日本人なのに異国の雰囲気を漂わせたその人は、肩下まで伸びた髪を後ろに結わえ、長い前髪をかき上げながらスタジオに入ってきた。

 一歩を進めるだけでも絵になる、誇り高い貴公子然とした美貌。

 裕幸に似た外観でありながら、彼とは正反対の他を圧倒する眼差しに、尋人は無意識に後退していた。

 名を六条出流ろくじょういずる

 五日前の八階の展望室で、中流から兄貴だと言われて見た雑誌の中にいた彼が、現実の存在として立っていた。

「遅れました」と、その後ろから小走りに駆けて来るのは、俳優の仕事もしている彼のマネージャーだろうか。

「先輩のお兄さん…」

 中流とは似ても似つかない冷たい空気に、尋人は違和感を拭い去れない。

 そのうち、出流の方が尋人の視線に気付き、不審な顔をして彼に近付いてきた。

「っ…」

 逃げ出したい衝動に駆られて、それでもその場に留まれたのは、他にも大勢の人間がいる事実と、彼が中流の兄だということを知っていたからだ。

「誰?」

 顔は笑んでいたけれど、隙のない、胸の内まで見透かされそうな眼差し。

 尋人は怯えながらも必死で言葉を紡ぐ。

「ぁ、あの…、倉橋尋人、です…」

 尋人が名乗ると、出流は目を細めて少年の頭から足先までを見定める。

 そうして、どう見ても中学生にしか見えない少年が怯えているのを出流も悟ったのか、わずかに目元を和ませた。

 それでも優しさという感情が切片も見られないのは、彼の冷たい美貌のせい。

 裕幸とよく似た面差しであるのに、他者を威圧する眼差しが、いっそう彼の恐ろしさを際立たせるようだった。

「どうした? 具合でも悪いのかい?」

「い、いえ…あの……っ」

 尋人の怯えは膨らむ一方で、もう逃げ出してしまいたいのに足が動かず、どうすることも出来なくて俯いた。

 先ほどまでとは異なる理由でぎゅっと握られた拳にはいやな汗が滲み、全身が小刻みに震え始める。

 ――その時だ。

 穏やかで静かな声が、恐怖のどん底にいた尋人を救い上げた。

「スタジオに入るなり見学者を怖がらせて楽しいですか、出流さん」

「っ、あ、裕幸さん…っ」

 それが、メイクを落とし、着替えも終えて戻ってきた裕幸だと知り、尋人は弾かれたように彼の後ろに逃げ隠れた。

 出流が怖かったという気持ちを如実に行動で示されて、出流と裕幸はもちろんのこと、遠巻きに見ていたスタッフ達も失笑する。

「そんなふうに逃げられると、いくら俺でも傷つくんだけどね」

「だったらもう少し優しい顔をして話し掛けたらどうですか? 特に尋人君みたいな初対面の相手には」

「そのつもりだったんだが…、そうは見えなかったかい?」

「貴方は普通に笑うだけじゃ怖さを増すだけですよ」

 裕幸は、意味深な笑みを強める出流に強い口調で言い放ち、まだ背後で震えている尋人を振り返る。

「尋人君。そんなに怖がらなくても、彼は中流さんのお兄さんだから心配ないよ」

「…はい…」

「? 知っていたの?」

「先輩に聞いて…」

 それでも怖いと感じてしまったのは、写真で見たのとは比べ物にならない、この強烈な存在感のせいであり、よく判らない危険信号が頭の中で鳴っているせいだった。

 だがこの危険信号の意味を、尋人はすぐに知ることとなる。

「その子、中流の知り合いなのか?」

 出流の言い方に一際大きな不安が尋人を襲い、悪寒が背筋を駆け上る。

 これは一体、何なのか。

 自問自答する間にも出流に対する恐怖心は膨らむ一方で、細い手足は震え続ける。

「榊学園の後輩だそうです。撮影現場を見学してみたかったとかで、僕が叔父さんの撮影で丁度いいからって」

「なるほど」

「尋人君。出流さんは、性格は悪いけれど根は悪い人じゃないから怖がらないでも大丈夫だよ?」

「フォローになってないね」

「フォローする気はないですから」

 そうしてニッコリ微笑む裕幸の本心がどこにあるのかも尋人には解らない。

 出流は軽く声を立てて笑い、今しがた自分が通った出入り口から弟が戻ってくるのを見つけると声をかけた。

「中流」と。

 よく通る呼び声に、呼ばれた本人は驚いた顔をして彼らに駆け寄ってきた。

「兄貴…、と尋人? どうした?」

 何やら顔色が青ざめている後輩の様子に眉を寄せた中流は、次いで裕幸、兄の出流を順に見て何かを察した様子。

「…で。尋人に何をしたんだ兄貴」と、そう来るから二人の血縁者は揃って笑った。

「解りましたか、出流さん。皆がそう思うんです」

「みたいだな。まぁそれなりに自覚はしているが、弟にまで疑われるのは悲しいよ」

「はぁ? 一体何があったんだ?」

 中流は解らないまま首を傾げて尋人や裕幸に答えを求めるが、それよりも早く出流が口を挟んだ。

「ところで、そんな事よりも」

 彼はくすくすと笑いながら言い、だが目には意味深な光りを含ませて中流を見た。

 そして続ける。

 尋人が一番聞きたくなかった言葉。

 彼の本能が無自覚のまま危険信号を鳴らしていた、その理由。

「中流。突然の宗旨替えは何か理由があってのことか?」

「――っ!」

 尋人の肩が大きく跳ねたのを、幸か不幸か中流は見逃した。

 少年の顔色が青ざめたというより蒼白に変色するのも、まだ気付かない。

「宗旨替え…って何のだ? 別に宗教に入った覚えなんかないけど」

 中流が顔をしかめて聞き返せば、出流はちらと尋人を一瞥した後で小さく笑う。

「あぁ…それは悪かったな。俺の思い過ごしか。…どうした裕幸?」

「何でもありません」

 かすかに目つきを鋭くして自分を見ていた裕幸を不敵な笑みであしらった出流は、次に、弟と従弟の間で小刻みに震えている少年に目線を落ち着けた。

「尋人君、だったか?」

「は、はいっ…」

 怯えた眼差しを向ける少年を、出流にキツイ視線を送る裕幸がそっと支える。

「今度は俺の撮影も見学においで。中流の友人なら歓迎するから」

「あ…、ありがとう…ございます…」

 今にも消え入りそうな声で頭を下げた尋人は、それきり顔を上げようとしなかった。

 何も解らないまま、中流は尋人の青ざめた顔色を心配そうに見つめ、裕幸がいつになく柔らかな声で話しかける。

「もう帰るんですか?」

「え、ああ。俺の仕事は終わったし、尋人もそろそろ送らないと時間がさ」

「だったら、帰る前に少しホールで休ませてあげたらどうですか? ずっと立ちっぱなしだったのに加えてこの人に会ったんじゃ、緊張して疲れたでしょう」

「そんな、人を化け物みたいに言わないで欲しいな」

「似たようなものですよ」

 裕幸の、耳を疑うような冷めた声と敵意を顕にした表情。

 常に穏やかな物腰を崩さない彼からは考えられないキツイ態度に、中流は驚きを隠せなかった。

 だが、そんな冷たい態度が出流以外に向けられることはなく、尋人や中流に対するときはいつもの穏やかな裕幸だ。

「尋人君。外で休んで、それから気を付けて帰るんだよ。…中流さん、ちゃんと送ってあげてくださいね」

 後半は中流に向けて告げる裕幸を、尋人はしばらくの間、不安げに見上げていたが、相手の笑みが和らぐのを見てこくんと頷く。

(なんで裕幸に…)

 その一部始終を見ていた中流は、妙に面白くないものを感じていた。

「じゃあ中流さん。また今度」

「っ、え…、ぁ、ああ。じゃあ……行くか、尋人」

 裕幸に呼びかけられ、ハッと我に返った中流は、自分が今まで何を考えていたのか気付いてうろたえた。

 だがそれを悟らせまいと、尋人を促して外に出る。

 兄と従弟の間に流れる不穏な空気を感じながら。




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