時の旅人 二三
「菊池君、どうしたんだろ…」
電話を置いてポツリと呟く尋人は、何となく母親のいる居間に下りる気になれず、ベッドに寝転んだが、ほぼ同時に玄関のベルが鳴ったため飛び起きた。
「尚也さん、…かな」
先ほどの電話が、既に隣町まで来ていてのものだったから、時間的にも、そろそろ着いていい頃だ。
「…どうしよう、今夜は家に泊まってもらって…」
母親のこともある。
今は急く事無く穏便に行きたいと考えながら来客を迎えた。
だが、相手は確かに本居尚也だったが、その表情は煌々としていて、一瞬、驚きと恐れで後ずさりしそうになった。
「な、尚也さん? どうし…」
「聞いて驚け!」
開口一番でそう叫んだ尚也は、尋人の肩を掴み一息に言い放つ。
「中流が帰ってくる!!」
「――」
「あいつ、アフリカから帰ってくるんだ! もう日本に向かってるっ、さっき彬から連絡があった!」
「ぇ…?」
「新千歳に到着が明日の昼過ぎ! 今度こそあいつに会えるんだヒロト!!」
「…ぅそ……」
「嘘じゃないっ、マジだって! これから俺と一緒にあの街、戻ろう! これから彬が迎えに来るから、待っている間に準備済ませて…」
「ま、待ってください!」
「え?」
「待ってください…今は……、今は、まだ、…行けません」
「――! どうして! 中流が帰って来るんだぞ!?」
「だって…」
だって、まだ母親と話していない。
彼女が抱ええてきた秘密を打ち明けてもらっていない。
時間が欲しいと言った母。
…今にも泣きそうな顔で告げられた。
だから待つしかない。
それが容易に語れることではないのだろうと察しが付く分、静かに待つことだけが自分に出来ること。
だが、それを包み隠さず説明するわけにもいかず黙ってしまった尋人に、尚也は言い募った。
「だって、やっと帰って来るんだぞ!? 今までずっとオマエと会おうとしなかったアイツが、ようやく帰ってくるんだ、ヒロトに会うために! ヒロトだって会いたいって言ってたじゃないか!」
「会いたいです、六条先輩に逢いたくて…っ、そのために……、…だけど今は…」
今は。
母親が、苦しんでいるから――そう思う尋人は、背後の人の気配に気付く。
「……っ」
ここは玄関。
尚也が顔を合わせるなり声を張り上げたものだから、玄関で言い合っていた二人の会話は、すぐ隣、居間にいた母親の耳にも途切れることなく聞こえてしまっていただろう。
「お母さん…」
泣いていた。
「お母さん…っ!」
「っ…尋人……尋人……!」
涙を流して。
膝をついて。
泣き崩れた彼女に、尋人は駆け寄った。
「尋人…お願い……っ、お願いよ…!」
「お母さん…」
尋人の腕を掴み、訴える。
行かないで、と言いたいのか。
思い出さないで、と言いたいのか。
…それとも、六条中流と会わないで、と。
「お願い尋人……!」
「…ごめんなさい…」
尋人は、無意識に呟く。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
……真実を求めるのは、悪いことですか……?
◇◆◇
「…うん、ちょっと今日は行けそうにないから…」
倉橋家の塀の外で携帯電話を使用していた尚也。その相手は、こちらに向かって車を走らせていた時枝彬だ。
今日中に尋人を連れて戻るのは無理だと判断した尚也は、彬に引き返してくれと連絡を入れたのだ。
「なんか…ヒロトの母さんは、ヒロトが記憶を取り戻そうとするのを良く思ってないみたいで…」
『あぁ』
「?」
自分が「どうしてだ」と思ったことを、彬は妙に素直に受け入れている。
「…、何か…納得してる?」
『あぁ』
「あぁ、って何だよ」
『……』
多少、強い口調で言い返すと、彬からは無言が返ってきた。
「オイ!?」
苛立って言い放つと、軽く息を吐く音。
『…少し考えていた。確かに母親にしてみれば尋人君の記憶は戻らない方がいいのかもしれないな、と…』
「どういう意味だ?」
『……兄貴が言っていたことを覚えているか?』
「? ああ、ヒロトを守れって。野口を襲った連中が、またヒロトを狙っているから、って……」
『そうだ。……狙われているのは“また”なんだよ』
「……それは、俺だって気付いたさ。ヒロトが前に野口と同じ目に遭わされたんだろうなって」
『兄貴はこうも云ったろ、野口君は暴力を受けただけだったが、……って』
「――」
『尋人君が、野口を襲った連中からされた仕打ちは……暴力だけじゃなかったんだよ』
「…」
それが、どういう意味なのか。
母親をあそこまで動揺させる、尋人の隠された過去とは…?
「…じゃあ…まさか…自殺の原因て…」
『……だと思う』
「……っ、じゃあ……じゃあ中流は……っ…それを知ってて……」
『…と、思うよ』
そうでなければ、これほど尋人との再会を避けるはずがない。
記憶を失くしてなお自分を想ってくれた尋人を突き放し続ける理由。
…それは傷物になった尋人がどうこうというのではなく――中流がそんな理由で心を変える男でないのは充分承知している。
だから。
だからこそ判る気がした。
中流が尋人と別れた、真の想い。
「……だからって、…記憶が戻った時にヒロトがどんなに傷ついても…俺は、中流とヒロトを離れたままにはしたくない」
『尚也…』
「ヒロトは中流が好きなんだ。中流だってヒロトが好きなんだ。俺は二人ともに幸せになって欲しい」
『…』
「二人を幸せに出来ンのは、二人だけなんだろ…?」
『……そうだよ』
「…」
返してくれた彬の声音から、笑顔なのが伝わってきて、尚也の表情も強張りが解ける。
『尋人君を連れて来ることが無理なら、俺が六条を乗せてそっちに行く。二人は必ず会えるよ』
「ん…」
『尚也、おまえはいつものおまえらしく尋人君の傍にいなさい』
「彬」
『六条の代わりに、…野口の分も、今はおまえが尋人君の支えになるんだよ』
「判ってる」
囁くように答えて。
尚也は力強く頷いた。
◇◆◇
真夜中。
客間で尚也を休ませ、尋人も自室で休むつもりだったが、あらゆることがいつまでも頭を巡り、眠れる状態ではなかった。
「…」
水でも飲もうかと一階に下りると、ダイニングで小さな明かりが灯っている。
「…」
足音を忍ばせ近付くと、食卓に、母親が座っていた。
「お母さん…」
「っ」
呼びかけた尋人に、彼女は怯えるように身体を震わせながら顔を上げた。
「尋人…」
驚いていた顔が、いつしか切なげに歪められて。
…尋人も、切なくなりながら彼女に歩み寄った。
「お母さん…眠れない…よね…」
「…貴方もでしょう?」
そう返しながら浮かべられる、無理な笑み。
それが自分のせいだと思うと、尋人の胸は痛んだ。
けれど気持ちは曲げられない。
真実から逃げたくない。
それだけは、判ってほしい。
「お母さん、ごめんなさい……、でも、僕は記憶を取り戻したいんだ。…どうしても、知らなきゃならないことなんだ…」
「…どうしても…?」
「ん…」
答え、尋人は意を決する。
最初は、決して言うまいと考えていた。
こんなこと、本当なら言ってはいけないと思う。
だが真実を求めるなら隠し事は出来ない。
これだけが、記憶を失くしても変わらなかった本当のことだから。
「僕…」
「…」
「……僕、六条先輩が、好きなんだ…」
「――」
「先輩のことが好きで…逢いたくて…」
「尋人…」
「……ごめんなさい…」
ごめんなさい。
男の人を好きになってしまったこと。
普通じゃない子供に育ってしまったこと。
「ごめんなさい…っ…本当に…ごめんなさい…!」
「……」
頭を下げて、何度も、何度も謝る尋人に、しばらく何も言わなかった彼女は、不意に微かな声を漏らした。
唇から毀れるのは、安堵にも似た吐息。
「…一年半前…まだ貴方が榊学園に通っていた頃ね…、お母さん、貴方に言ったことがあるのよ。最近、楽しそうね、って…。そしたら貴方、とても優しい先輩と仲良くなったんだって答えたの」
「――」
「貴方が十四歳、十五歳だった頃…」
それは記憶から消えてしまった二年間の日々。
「…その頃の貴方、学校に行くのを本当に楽しそうにしていたわ」
母親だから気付いたこと。
一緒に暮らしていた彼女だから持てた確信。
「…貴方が失くした時間は、きっと、六条さんを想っていた時間ね」
「……!」
あの日、病院で目覚めた尋人の記憶は、中学一年生の体育祭が始まる“朝”を最後に途切れてしまっていた。
中学一年生の体育祭。
――それは尋人が中流を好きになった日。
このことを、今現在、知っているのは中流一人だけだけれど、ここにも――尋人の一番近くにも、それに気付き静かに見守っている人がいた。
それからの楽しい日々――辛い日々。
乗り越えられたのは中流への想いがあったからだ。
学校に行けば会えるから。
だから、学校でどんなに苦しく辛い目に遭うと判っていても、登校を拒むことはなかった。
「…あの日、貴方に何があったのか…、それは、お母さんには言えない。貴方がそれを知る必要があるとは思わないもの」
「でも…!」
「それを貴方が知るべきかどうかを決めるのは、…六条さんの役目だと思う」
「――」
「全部を知っていて…、それでも貴方を愛して、貴方のために何も言わずに別れることを決めてくれた…」
幸せになれ――、そのたった一言で、自分のいない時間を歩き出した尋人を送り出してくれた人。
「素敵な人を好きになったわね」
「…っ」
「貴方は素敵な人に愛されていた…、六条さん、病院で意識が戻らない貴方の手をずっと握っていてくれたのよ」
「お母さん、知ってた……?」
「当たり前でしょう? 私は貴方の母親よ…?」
「……っ」
そっと微笑んで。
抱き締められた腕は温かくて。
「…記憶を取り戻したいなら一つだけ約束して頂戴。六条さんと逢って、もう一度やり直すことが出来たなら、…その時には二人で家に帰ってらっしゃい」
「お母さん…」
「今度こそ幸せになることを、二人で、私とお父さんに約束してちょうだい」
「……っ…」
「…約束してくれるかい?」
「!」
不意に大きな手に頭を撫でられ、驚いて顔を上げると、父親の複雑そうな笑顔があった。
「お父さん…!」
母だけでなく、父親も知っていたのか。
それとも母親から聞いたのか。
両親は、揃って笑顔だった。…複雑そうな微笑ではあったけれど、尋人に向けられる眼差しは広く深い温もりに溢れていた。
「…っ……約束する…」
「尋人…」
「約束する…絶対……っ!」
「…絶対だよ」
尋人と、彼を抱き締める母親を、父親が大きく広げた腕で包む。
両親の“約束”が、過去の真実を知らされたときの尋人を案じてのものだと、今の少年には知る由もない。
ただ、両親の深い愛情から得た勇気は限りない。
それは尋人の“心”の力になった。