時の旅人 二二
「……お母さん」
電話を切り、居間に戻った尋人は、台所に立つ母の背に声を掛けた。
「ん?」
静かに。
いつもと変わりない穏やかな表情で振り返った彼女は、その場に佇む尋人の姿に何を思っただろう。
尋人の思いつめた様子に目を見張り、何か良からぬことが起ころうとしているのを察した。
「尋人…?」
どうしたのかと尋ねると、彼はその場から動くことなく口を切る。
失くした記憶を取り戻すことを心よしとしていない彼女は、必ず何かを知っている。
全てではなくとも、何より知らなければならないことを教えてくれるのは母親しかいないのではないかと、尋人は漠然と感じていたのだ。
「お母さん。…僕は、本当のことが知りたい」
「――」
「一年前、…僕は、あの街で何をしたの…?」
「尋人…」
「あの街で何があったの」
母親の顔が青ざめていくのを見て、尋人は胸に鈍い痛みを自覚した。
だが、もう逃げられない。
真実からは逃げられない。
「菊池君と行ったあの街で、僕は男の人に尾けられていた」
「――!」
「それに気付いて、僕が無事に家に帰れるように、その人達を足止めしてくれた先輩が…、…先輩が、今日、病院に運ばれたんだ」
「っ…」
「殴られて、怪我をして、…それでも僕が危ないからって、必死に伝えてくれたんだって……」
「…っ……そんな…」
「…その先輩……、六条先輩の、お友達なんだ」
「――」
声にならない悲鳴を聞いた気がした。
母は六条中流を知っている。
それを確信した。
「お母さん。僕は…僕を狙っているのは誰なの…?」
「…っ…ダメよ…教えられないの。…教えちゃいけないの…」
「でも」
「ダメなのよ! そうよ、しばらくは絶対に外に出てはダメ……っ、しばらく家でおとなしく…」
「お母さん」
「二度とあんな目には遭わせない…絶対にそんなこと…っ」
「あんな目って何!」
「尋人…っ」
「お母さん、僕はもう逃げない。――逃げちゃいけないんだ。野口先輩は僕のために襲われた。大変な目に遭ったのに、それでも僕が危ないって伝えてくれたんだ! もう「思い出せないから」なんて理由で忘れた時間を見ないフリしたくない」
「…っ…」
「お願いします。お母さんの知っていることを教えてください。お願いします…!」
頭を下げ、何度も、何度も訴える尋人に。
…いつしか深く息を吐くのが聞こえた。
それは自分を落ち着かせようとする母の呼吸音。
あの日の、…あんな出来事を、本当に伝えなければならないのかという、迷いと恐れ。
「…少し時間を頂戴……」
「…」
「お願い…」
頭を抱える彼女に、尋人はコクリと頷く。
「…苦しませてごめんなさい…」
その謝罪の言葉は、同時に、どんな残酷な真実があろうとも受け入れる――そんな少年の覚悟を思わせるものだった。
◇◆◇
『何だって!?』
電話の向こうから放たれた菊池の大声。
尋人は思わず受話器を耳から離してしまった。
『何で…野口サンが襲われて病院…て、それが店で俺らを見張ってた奴らだって言うのか? 間違いないのか?』
「うん…」
それもあり、尚也が今こちらに向かっていることなども告げると、菊池は呻くような声を漏らした。
「…それで、僕…、どうしても本当のことが知りたくて、お母さんに言ったんだ、何か知っているなら教えてほしいって」
『……そしたら?』
「ん…。少し時間を頂戴…って」
『そっか…』
尋人の過去に隠された真実。
記憶を失くした本当の理由。
それを知る術は、母親の心の中。
『…』
そして、菊池の部屋にも。
「…」
菊池は自分の机の上に置かれた鞄、その中に仕舞い込んだままのフィルムを思う。
恐らく全ての元凶と思われる従兄が、六条中流に渡せという、たった一言のメッセージを添えて送ってきた。
そこに写っているものが何であるのか、菊池はずっと気になりながら、自分が勝手に現像していいものではないと自制してきた。
だが。
尋人本人が記憶を取り戻すことを望んでいる現在、その鍵を持っているかもしれない自分が、フィルムの存在を隠していていいのだろうか……?
「…倉橋」
『ん?』
「……もし…」
『うん?』
「もし俺が……」
俺が。
…その後に何と言えばいい?
何を教えられるのだろう。
『菊池君?』
「…っ」
自分を友人として信じてくれている尋人。
もしも自分が、彼の従弟だったと知ったら。
前の学校で、君を虐めていた男の血縁者だと知ったら。
「…倉橋…、あの…」
あの。
「滝岡…って、覚えているか…?」
『え…?』
「!」
戸惑うような相手の声に、ハッと口を閉ざす。
「いや、何でもない! 今の忘れてくれ!」
聞いてどうする。
自分を苦しめてきた男の名前など、聞きたいはずがないのに…―――、だが。
『滝岡…って、もしかして同じクラ…えっと、一年の時に同じクラスだった滝岡修司君のことかな…』
「ぇ…?」
『同じクラスにいたよ、滝岡君。本当は優しい、いい人なんだけど外見が恐くてよく誤解されていたよ』
「――」
いい人?
あの従兄が……?
尋人からは見えない場所で目を見開く菊池に、彼は素直に頷いた。
『一度、あんまり良くない先輩に学校でからまれたことがあったんだけど、その時に助けてくれたんだ』
「……!」
助けた。
尋人を?
あの滝岡修司が…?
「…っ」
修司。
――……おまえ 何やってんだよ…!
『菊池君が言う“滝岡”って、その滝岡君のこと…?』
「…ぁっ…いや…」
聞いてはいけないことを聞いた気がした。
知ってはならない過去を、言わせてしまった気がした。
「なんでもないんだ…、ぁ、悪い。いま母さんが夕食だって呼んだから」
『あ、うん、ごめんね、こんな時間に電話して』
「いや…、じゃあな」
『うん、またね』
回線の切れた電話を握り締め。
菊池は頭を抱えた。
「……っ」
悩んで、悩んで、悩んで悩んで。
少年は飛ぶようにその場を離れると、机の上の鞄を手にし、部屋を出た。
「母さんっ、ちょっと友達の家に行って来るから!」
大声で叫び、次いで携帯電話を取り出すと元同級生に電話した。
春からは自営の豆腐屋を継ぐ修行を始めるものの、写真家の夢は追い続けると語った友人。
彼の部屋には手作りの暗室があるのだ。
「もしもし俺だけど!!」
怒鳴るように声を上げた菊池。
その頭上からは細やかな雪が落ち始めていた。