時の旅人 二一
その夜、中流は手元に広げた写真の一枚一枚に、言葉にならない声を漏らしていた。
どうしたら、こんなにも雄大な画が撮れるのだろう。
同じものを見て、同じ場所を歩いてきたはずなのに、自分が撮った写真と、佐伯が撮った写真では、写っているものの輝きの差が歴然としていた。
その差とは何だろう。
経験の深さ。
見続けてきた時間。
“命”をこれほど鮮やかに写し撮る佐伯は、その瞳で何を見るのだろうか――。
「…さっきから人の写真見て、何ヘンな声上げてンだ」
低く話しかけてくる佐伯の右手には小さなグラスが一つ。
どこから仕入れてきたのか、先ほどから日本製の焼酎を口にしている彼は、程よく酔ってきているらしい。
初めて会ってから今日まで四日間。
佐伯が酒を飲んでいるのを初めて見たが、彼の酔い方は悪い方ではないらしい。
声音は低くとも、いつもの威圧的なものではなく、どこかからかうのにも似た響きを含んでいた。
恐らく、チータの狩りという珍しい光景に遭遇できたのもご機嫌の理由の一つだろうと思う。
「ヘンな声だって仕方ないでしょう。こんな凄い写真見せられたら感動するしかないんですから」
「凄い写真?」
ハッ…と鼻で笑いながら、佐伯はグラスを傾ける。
「おまえだって凄い写真で、賞、撮っていたじゃねーか」
「え…」
まさか、あの雑誌で受賞した写真を佐伯も見たのだろうかと驚いた。
人生の半分以上をアフリカの大地で過ごしている彼は、日本にいることなど一年の内に一週間あるかないかなのだから。
「ま、俺に言わせりゃ“まだまだ”だがな」
「…」
得意気に言い、またグラスを傾ける。
そんな男に中流は苦笑し、彼もまた手元の写真に目を落とした。
「…ま。俺の写真を凄いと思うのは、俺の写真には、おまえの写真には写らないものが在るからだろうな」
「え…」
「…なんだよ」
「いえ…」
まさか、会話を続けてくれるとは思わなかった…と正直に言うわけにもいかず、曖昧に言葉を濁した中流に、佐伯は視線をきつくしたが、軽く息を吐くと再び話し出した。
「俺にはな、どんな被写体を前にしても必ず見えるものがある。写真は嘘をつかない。カメラは俺に忠実だ。俺が見えるものはコイツらが完全に写し撮る」
「見えるもの…」
「穴空くほど見たって、おまえにゃソレは見えないぜ」
「――」
「ソレは俺にしか見えない。だから俺だけが撮れるんだ」
最もな内容に、…素直に頷くしかないのだが、それは何となく、したくなかった。
だから、
「…佐伯さんには何が見えているんですか」と問えば、男は笑った。
「おまえ、恋人はいるのか」
「っ」
それを、一昨日のあの電話を聞いていたあんたが問うのかと苛立ちそうになった中流だが、相手は酔っ払いだと自制する。
何も応えない彼を、佐伯は笑った。
嘲うのではなく、ただ、笑ったのだ。
「言ったな。目が感情に負けるようじゃ、イイ画なんか撮れないって」
「…」
「だが感情の入ってない写真は紙切れと一緒だ」
「――」
「人間の心に訴え掛けられるのは心だけ。感動できないものを撮ったって、人を感動はさせられないだろ」
確かにそうだ。
綺麗だと思えないものを撮って人に見せても「綺麗だ」という言葉は返ってこない。
「…なら、感情に負けちゃいけないのに、どうやって感情を撮るんですか」
「俺以外の感情だ」
「…誰の?」
「………ふっ」
再度、聞き返す中流に、佐伯の口元が綻ぶ。
「――…っ……!」
それは中流が初めて見る表情。
こんなのは酒のせいだと自分自身に言い聞かせる。
そうでもしなければ。
……そうとでも思わなければ、この男が、まさかこんな顔を。
「決まってンだろ、大切な奴に」
こんな顔で、そんなことを言ってのけるなんて。
「〜〜〜っ、佐伯さんにもそんな相手がいるんですか!」
「いちゃ悪いか」
「悪いか…って、だって…」
アンタ、恋人にもその態度なんですか…という言葉を慌てて飲み込み、無難な質問を探す。
「…その人、アフリカの人なんですか?」
「俺が日本から掻っ攫ってきた純粋な日本人さ。今回はおまえがいるからジンバブエの部屋に置いてきた。今頃はヘソ曲げてヨーロッパ辺りに家出してるかもしれんがな」
「はぁ…」
ジンバブエといえば、南アフリカ共和国から北上した地域で、世界遺産“ビクトリアの滝”がある国と言えば理解しやすいだろうか。
佐伯に恋人がいるというのが初耳なら、自宅がそこにあるというのも今、知ったし、その恋人が家出でヨーロッパとは…世界が違いすぎる。
今度はどんな台詞で驚かされるのかと、半ば呆れていた中流に、しかし男は今度こそ中流の心臓を止めるような真似を仕出かした。
何と男は、自分のカメラを投げて寄越してきたのだ。
「ちょっ…アンタそれ!! うわっ!」
「うるせぇな、しっかり受け取れ」
「受け取れって…っ、アンタ自分の商売道具を何だと…しかもこれ幾らすると思って…!」
「アホ、俺様の愛機は間違ったって触らせねぇ」
「愛機じゃなくたって…っ、て、じゃあこれは何の…」
「遊びで撮る時用だ」
「……」
「ベッドの中でとかな」
「〜〜〜〜っ」
頬を引きつらせる中流を、酔っ払いは豪快に笑い飛ばす。
(このオヤジ…っ)と内心で毒づきながらも手元のカメラだけは大切に抱えていた。
用途はともかく、佐伯が放り投げたのは十万以上する超一流ブランドの高性能機器なのだ。
ぞんざいに扱えるわけがない。
「で、…これを俺に持たせて、どうするんですか」
「アホか、カメラ持ったら撮るに決まってンだろ」
「〜〜〜」
地団駄を踏みたい勢いに駆られながら、何をしようと無駄なのは判っている。
カメラを持ったなら、すべきことはただ一つ。
ぞれは目の前の光景を撮ることだ。
…だが、いま彼らの眼前に広がるのは夜の闇。
寝泊りしているキャンプを背にサバンナを見渡すと、視界に捕らえられるものなど何一つなかった。
日本の夜とは違い、わずか一片の人工物も持たない真の闇を照らすのは月と星の淡い輝き。
これが、本来在るべき“惑星の夜”だ。
「…」
「撮れないか」
声を掛けられ、中流は頷く。
…頷くしかない。
「…闇が深くて。本当に…本当の闇の中で…確かなものがなければ何一つ捕らえられない…踏み込んではいけない…、そんな気がします」
「あぁ」
佐伯は応え、グラスに残っていた少量の酒を飲み干した。
「そうだ、闇はすべてを覆う。安易に立ち入ればたちまち食われるだろうな。何一つ見えない状態で撮ったって、撮った奴を絶望に追い落とすだけだ」
「…」
「だが俺は撮れる」
「――」
「俺は、この闇を好きだと言う奴を知っているからな」
「……それが、佐伯さんの大切な人――ですか」
その言葉に、佐伯はわずかに表情を崩すことで応えた。
「ファインダーの向こうには、いつだって奴の姿がある」
「…」
「俺は無心でシャッターを切るだけだ。目の前の光景に感情を持たせるのは、ファインダーの中の奴の仕事。奴が綺麗だと感じているものを撮る。残酷だと目を逸らしたがっているものを撮る。それでも目を逸らさないのはそれが真実だと知っているからだから」
「…一緒にいなくても一緒なんですね…」
「奴は俺の感情だからな」
「…」
一瞬の、どんな場面でさえ躊躇うことなくシャッターを切らなければならない佐伯に感情は不要のもの。
だが同時に、それは決して欠かせないもの。
佐伯に「俺の感情だ」と言わせる大切な人は、男を補う存在。
その人なら、この闇にすら形を与えてしまうのだろう。
「もしも奴が何も感じないなら、それでいいんだ」
中流の胸中での呟きを聞き取ったかのように佐伯は告げた。
「俺はそれを“虚無”と撮る。この世界にはこういう場所もあるのだと知る為に」
「――……」
この男は本当に酔っているのかと疑いたくなる。
締まりの無い表情は確かに高潮しているけれど、これが酔っ払いのする話か。
「俺はな、おまえの写真を初めて見た時、俺と同じタイプだと思った。――“心”を撮れる奴だってな」
「――」
やはり酔っている。
酔ってなきゃ――。
「“心”の声を聴ける写真家だと思ったんだ」
「――っ!」
酔っていなきゃ、こんなことは言えないだろう……?
「次に見たのが、あの雑誌に載った写真だな。前に見たのとは雰囲気が違ったが、やはり好い画だと思った。…好い画だが窮屈そうだった。無理に感情を押し殺そうとして、そのクセ、必死に何かを訴えかけてくる。ああいうのはマニアにはウケるが大衆には退かれるぞ」
「…っ…余計な、お世話ですよ…っ」
それこそ必死になって虚勢を張った。
そうでもしなければ、正気すら保てないと思った。
あんまりな言葉に、精神は今にも破壊されそうで。
佐伯はそれに気付いていて、それでも発される言葉に容赦はない。
「おまえがマニア受けを目指すなら今のままでいい。だが俺が最初に見たあの一枚が、おまえの本当に目指すものなら、現在のおまえには二度と撮れねぇぞ」
判っている。
解っているから、もう呼び起こすな。
あの日から必死に抑え込んできたものを。
「“心”の声を聴こうとしない奴に“心”は撮れない」
「…っ」
「“心”を拒む奴に夢は追えない」
「やめてくれ…っ」
「やめるかボケ」
中流の訴えを鼻で笑い飛ばし、男は一枚の写真を彼に向かって指で弾いた。
「―」
視界に飛び込んできた、その写真は。
「―――!!!!」
「黙って欲しけりゃ正直に答えな。おまえの“心”はどこに置いてきた?」
「…っ……」
なぜ、これがここにあるのだろう。
なぜ、この写真が佐伯の手に?
「…んで……」
それは、あの日の最後の笑顔。
“心”を撮った、最初で最後の――“心”。
「…っ…なんでアンタがこれを持ってる…?」
「親バカ親父にでも聞いてみろ」
「…っ」
「ま。この一枚がなけりゃ、おまえの面倒を見てやろうなんざ思わなかったさ。…二日前のあの電話がその子だろ。どんな事情があるかは知らんが、バカみてぇに純粋なもんだから、つい虐めてやりたくなってな」
あの父が何を思い、いつ、どこでこの写真を佐伯に渡したのかは知らない。
だがその瞬間から、この日が来ることを知っていたと言うのだろうか。
――…ま。この一枚がなけりゃ、おまえの面倒を見てやろうなんざ思わなかったさ…
天才・六条至流に頼まれたから仕方なく世話を引き受けたと言っていたのに、本当は、面倒を見てやろうと思ってくれていたのか?
“心”の写真を見て。
あの受賞した写真を見て。
違いを知り、あの電話を聞き。
――…どうにかしてやりたいと、自分を思ってくれていたというのか、この男が。
「…っ……アンタ…酔ってるよな…?」
「さぁな。酒は美味いぜ」
不敵に笑う男に、中流は無意識に苦笑した。
もう、笑うしかなかった。
この写真があったから。
(尋人……っ!)
例えば、その手を取ることで残酷な過去を思い出してしまっても。
この存在が君を苦しめてしまうのだとしても。
…それでも“心”を受け入れたなら君は笑ってくれるだろうか。
隣で、昔のように微笑ってくれるか…?
「俺様は寛大だからな、もう一度だけ言ってやる。心を騙す奴に心は撮れない。――絶対にだ」
一緒にいなくても一緒にいる。
ファインダーの向こう側、その人にだけ見える“心”の姿。
尋人。
君ならこの闇に何を思う?
この大地に、何を想う………?
東の地平線から陽が昇る。
世界を。
生命を照らす輝きは、遮るもののない地上に無償の光りを注ぐ。
どんな言葉も声にはならず。
けれど君は真っ直ぐに見つめるだろう。
地球が黄金に染まりゆく姿を。
朝の到来を、希望とともに迎えるだろう――。
「覚悟を決めたか」
「……はい」
雲一つない空を仰ぎ、中流は佐伯に応えた。
いま撮り終えたばかりのフィルムを手の中で転がし、スッ…と男に差し出す。
「現在の俺の精一杯です。…佐伯さんに持っていてほしい」
「ヒヨっ子が、この俺様に写真を持たせるのか」
「だって佐伯さん、俺のファンなんでしょ?」
「クソガキ」
即座に言い返されるも、昨日までのような冷たさは感じられない。
だが変わったのは彼の態度ではなく、自分自身の受け止め方。
心の声を聴くのは、こんなにも簡単なことだった。
「俺、日本に帰ります」
「フン」
小馬鹿にしたような態度で、彼は中流の額に何かを突きつけた。
「…え」
「日本行きのチケットだ。今日の午後発」
「午後…っ?」
これから空港に向かい、空席がなければキャンセル待ちをしてでもなるべく早い便で帰るつもりでいた中流にとって、それは思い掛けない贈り物だった。
まさかと恐る恐る開いた封筒の中には、男の言う通り、確かに今日の午後発日本行きのチケット。――問題は、その離陸時間。
「一時!?」
「俺は送らんぞ、自力で帰れ」
「それは当然…って、だって一時って…!」
この国立公園から空港のあるヨハネスブルクまでは車で六時間。
現在時刻は六時前。
今すぐにバスが捕まるかも不明なのに、この離陸時間は…。
「あと十五分で街の停留所からヨハネスブルクまでのバスが出るぞ」
「!」
中流の内心を読んでか、あっさり言ってのける佐伯幸也。
「アンタ鬼かよ!」
「言ったろ、ガキのお守りはゴメンだってな」
「くっ…」
そうだ。
確かに言われた。
だったら見ていろ、と内心で言い返す。
次に会う時には言葉も失くすほどの“心”を撮って見せてやる。
「――佐伯さん!」
急いで荷物をまとめ、街の停留所まで行かねばならない中流は、だがその場で自分を見送る男を振り返った。
このアフリカの大地に立つ男。
“心”を聴く写真家。
アンタと過ごせて良かった――。
「いろいろありがとうございます! お世話になりました!!」
そうして去っていく背に、男は何も返しはしない。
ただ、笑った。
「これでバス逃したら笑ってやるよ」
言い、空を仰いだ。
どこまでも途切れることなく続く空。
「――さて」
フッ…と口元を綻ばせ、佐伯は中流を見送ったのとは逆方向に歩き出した。
その先には影が一つ。
昨夜遅くの頼み事に文句を言いつつも、急ぎ、ここまで航空券を運んで来た人が、いま、男に駆け寄って来た――……。




