時の旅人 一九
――尚也、急いで出て来い! 大樹総合病院だ!
恋人である時枝彬から連絡を受けたのは、およそ三十分前。
――野口が……
――…野口が……っ!
◇◆◇
「彬!」
大樹総合病院外科病棟。
元同級生・野口健吾が運び込まれたと聞いて駆けつけた集中治療室の扉の前には、自分を呼んだ時枝彬の他、野口の両親、警察関係者と見られる男が数人、…そしてつい一昨日、本人から聞かされた彼の恋人、松島美弥子の姿があった。
「っ…」
野口本人から聞いたのだから、何も悪いことはないはずなのに、真っ直ぐ相手の顔が見れない。
その上、彼女と野口の関係を知らないはずの彬が同席していることで、尚也の後ろめたさは募るばかりだ。
「尚也」
あと数歩で隣に並べる距離まで近付きながら、唐突に立ち止まった彼に、彬が硬い表情で呼びかけた。
「ぁ、ああ…野口は…」
「いま手当てを受けているが、……かなり危険な状態らしい」
「――…っ」
声を落として告げられた内容に、尚也は息を呑む。
一体、何が起きたのか。
どうして野口が、このような目に遭ったのか。
他の人々から多少離れて、彬が尚也に語った内容はこうだった。
警察から聞かされた話によると、野口は酷い暴行を受けた状態で、一晩、駅近くの高架下に放置されていたという。
全身に及ぶ打撲痕や裂傷。
加えて、三月末の、まだ雪も残る寒空の下で野晒しにされた体は、昨夜の天候如何では発見された時点で死亡していてもおかしくなかった。
「誰が野口を…っ」
「…警察も動いているが、まだ何とも…。発見された時に持っていた携帯の着信履歴から松島先生に連絡が来たようなんだが…」
言いながらハッとする。
尚也も同時に顔を上げ、複雑な顔をしている相手に頷いて見せた。
二人が恋人関係にあったことは、自分も知っているのだと。
「…一応、親御さんには、警察から連絡を受けたのは俺だった事にしてある。松島先生はたまたま居合わせて、…中等部時代の担任でもあったから心配して来た、ってことにな」
「そっか…判った…、あ」
不意に治療室の扉が開き、若い長身の医師が出てきた。
「ぁ…!」
忙しない動きで、その場に集まった人々を見渡す彼は、尚也と彬がよく知る人物。
「兄貴…」
「貴士さん…!」
「っ、やっぱり来ていたんだな…!」
互いの視線が絡み合い、医師が出て来たことで立ち上がりかけた野口の両親に、早口に現状を説明した後、貴士は迷わず尚也達に近付いてきた。
「貴士さん!」
「兄貴、野口の容態は…」
「まだ何とも言えん、予断を許さない状況なのは変わりない」
早口に告げながら、貴士は尚也に顔を寄せ、低く続けた。
「それよりも野口君は六条君を呼んでいる」
「っ?」
「意識はないのにそればかり…っ……熱に浮かされた状態で尋人君が危ないと、何度もそればかりを…!」
「ヒロト…?」
「倉橋尋人君のことか? 彼が危ないって一体…」
「尚也君、頼む! 尋人君を守ってやってくれ…!」
「え…?」
唐突に。
尚也の両肩を掴み、頭を下げた貴士は。
…その表情は、歪んでいた。
「野口君は暴力を受けただけだったが、これが“あの時”と同じ連中の仕業だったら…っ…同じ連中がまた尋人君を狙っているのだとしたら、あの子は……! もう二度とあんな目に遭わせたくないんだ……!!」
「…」
それが、どういう意味なのか。
何が、貴士をここまで追い詰めているのか、知りたいことは山ほどあった。
「…」
だが、それはずっと考えてきたこと。
貴士が何を知っているのか。
何を隠しているのか。
…その全てが、尋人の閉ざされた過去に繋がっていく事だけは確かだから。
「…判った。ヒロトは絶対に守る」
「尚也君…」
「だから貴士さんは野口を…!」
「――あぁ」
約束する。
自分に出来ることなら、その約束を違えることは決してないように。
「頼んだよ、尚也君」
貴士は尚也と、そして弟・彬の肩に手を置いた。
何も話さないことを申し訳なく思いながらも、尋人と中流の未来を望む気持ちは同じ。
「よし! じゃあ彬、俺はこれからヒロトの家に向かうから…」
「送っていく、と言いたいところだが…俺はまず六条の従弟の家に行こうと思う」
「院長の息子さんのところか」
「何としてでも六条を呼び戻したい。…卑怯な手段かもしれないが、野口のこともあるからな」
「…」
一昨日の、尚也の話を聞けば、それが容易でないことは知れた。
だからと言って、これ以上、六条の不在を長引かせてはいけない…そんな予感が胸中を占めていた。
三人は互いに頷き、貴士は治療室へ。
彬と尚也はそれぞれの目的地へと足を向けた。
――その前に、彬には一つだけ、しなければならないお節介があった。
青ざめた顔を隠すように俯き、じっと座っていた松島教諭に、
「大切な用で、出なければなりません。ここはお願いします」と声を掛けた。
そう告げて頭を下げた彬に、彼女は彼に向かって、いっそう深く頭を下げたのだった。
◇◆◇
「ただいまー」
すっかり日の暮れた外から、母親が帰ってきた。
尋人は部屋から顔を出し、彼女が重たそうにしている買い物袋を受け取った。
「お帰り、寒くなかった?」
「寒かったわよ〜。また雪が降りそう」
言いながらコートの中に首を隠すという彼女の仕草に尋人は笑った。
「今日は友達と遊びに行くって言っていたのに、帰り早かったのね」
「あ、うん。皆も春からの準備で忙しいみたいで」
昨日まで、地元を離れて街に出ていた尋人と菊池。
二人から都会の話を聞きたいから出て来れないかという誘いが元同級生達からあったのは今朝だった。
土産を持参し、
「久しぶり」の挨拶の代わりに「テレビ観たよ」と声を掛けられた。
卒業式以来の友人達との集まりは時間を忘れさせたけれど、まだ中学校を卒業したばかりの少年少女。
それも、来週後半には新たな学び舎へと進んでいくのだ。
そう遅くまで遊んではいられない。
「そう…、尋人も来週には高校生なのね」
「ん。…ようやくね」
苦笑いする尋人に、母親も静かに笑む。
同じ歳の子達から、一年待っての高校生。
それは決して短くない日々だった。
「…」
記憶を失くした二年間に何があったのか、尋人が望んだ答えは、久々に帰ったあの街でどれだけ手に入れられたのだろう。
昨日、母親が心配そうな顔で聞いてきた。
「何もヘンなことはなかった…?」
その問い掛けは何に起因していたのか。
自分の足で歩き、見て、聞いてきたこと。
六条中流のこと。
それは。
…教えられた記憶は、果たして望んだ答えだったのか……?
「…」
袋から物を取り出す手が止まった。
頭の中、電話で告げられた中流の言葉が蘇る。
別れ際に告げられた裕幸の言葉が繰り返される。
――……会いたい……
「っ…」
鼻の奥がツンとするのを自覚し、尋人は慌てて首を振った。
母親に気付かれたら心配させる。
何か違うことを考えて気持ちを切り替えなければならない。
と、不意に鳴り出したのは電話のベル。
「お母さん、僕が出るから」
内心で安堵しながら、足早に電話の置かれている廊下に出た。
「はぁ…」
途端に身を包む冷気に身体を震わせながら、受話器を取った。
「もしもし倉橋ですが、どちら様ですか?」
丁寧に応答する尋人に、相手は名乗る。
自分は本居尚也だと。
あの街の、六条中流の親友。
突然の電話に戸惑う尋人だったが、あの街で起きている騒ぎを知らされ、言葉を失う。
「――」
寒さにではなく、恐怖に身が竦んだ。
もう、逃げられない。
「……お母さん」
電話を切り、居間に戻った尋人は、台所に立つ母の背に声を掛けた。
「ん?」
静かに。
いつもと変わりない穏やかな表情で振り返った彼女は、その場に佇む尋人の姿に何を思っただろう。
彼らの時間は急速に動き出していた。