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時の旅人 一八

 遥か彼方、地平線に重なるように浮かぶ影はトムソンガゼルの細い四肢。

 それより手前、伸びた草の中を掻き分けるように忍び寄るのはチーターだ。

 もうすぐ陽が沈む頃。

 中流は、チーターの狩りを見る機会に恵まれていた。

 それを「残酷だ」とか「平気で見ていられるなんて信じられない」と非難する声もあるだろうが“生きるための姿”を目撃出来るのは非常に稀なこと。

 トムソンガゼルも、チーターも。

 命を繋ぐために生きている。

 その貴重なワンシーンを目に焼き付けられるのは、この上ない幸運だと信じている。

「――」

 中流も、佐伯も一切口を開くことなく、動物達の一挙手一投足に息を呑む。

 チーターが全速力で走れるのは、長くても二百メートル。狩りの成否は、ガゼルにどこまで忍び寄れるかで決まるのだ。

 彼らはカメラを構え、そのファインダーから見つめる。

 静かに、静かに距離を詰めるチーター。

 何に気付くことなく、草を食むガゼル。

 どちらも近くに群れの気配はなく、もしかするとガゼルは迷い子だったかもしれない。

 陽が沈むにつれて動物達の姿は黒く塗りつぶされていくようで、チータの黄金色の毛並みも鮮やかさを失っていく。

 風に吹かれて、草が揺れて。

 地平線が揺らいだ、その刹那。

「!」

 気付いたのはガゼル。

 大きく跳躍し、駆け出したのを、全速力のチータが追う。

「……!」

 わずか二百メートルの死闘。

 中流のすぐ隣で連続するシャッター音が途切れた時には、彼らの戦いも決していた。

「……」

 地平線に溶け込むように消えていったガゼル。

 獲物を逃したチータの後姿が、複雑な感情とともに中流の心を痛めた。

「…」

「撮ったか」

 チータの姿を見つめていた中流は、唐突な問い掛けに言葉を詰まらせた。

 それを佐伯は彼の返答と取り、

「目が感情に負けるようじゃ、イイ画なんか撮れないぜ」と冷たく言い放つ。

 これには、どんな言い訳の仕様もなく。

「はい…」と返せば、佐伯は無感情な一瞥をくれて先を進み始めた。

「戻るぞ。出すものがあるならおまえも出しておけ」

「ぁ、はい」

 今日の撮影はこれで終わり、キャンプに帰る。

 街に寄るから、現像するフィルムがあるなら途中で出して来い…と言うような内容を、今のように告げる佐伯に、中流は内心で苦笑した。

「…」

 ったく…と軽く息を吐きながら、荷物を肩に背負い、佐伯の後を追った。

 この独尊的な男の物言いにも随分慣れてきたが、その一方で、相変わらずな態度に安心している自分がいた。

 あの日――突然の日本からの電話を受けて、佐伯の目の前で取り乱したあの日から、既に二日。

 傍にいた受付の職員には日本語の会話など理解出来なかっただろうが、佐伯には全てが筒抜けだった。

 自分がどうして予定を早めてまでアフリカに来たのか。

 日本に何を残してきたのか、あの電話を聞いていれば、たとえ中流の一方的な言葉しか聞いていなくとも大体の事情は知れてしまっただろう。

 にも関わらず、佐伯の態度は変わらない。

 叱るわけでも、蔑むわけでも、…ましてや慰めたりなどするわけもなく、相変わらずの言動で中流を振り回すのだ。

 有り難いと、心から思う。

 この人について写真を撮っている間は、本当は逃げてはならない事全てを忘れて、目の前の現在に集中出来るから。

(…尚也、怒ってるよな)

(……尋人、どうしてる……?)

 カメラを下ろすと、そればかりが脳裏を過ぎる。

(……さっきのチータの狩り……尋人だったら…何て言ったかな……)

 あの、心優しく純粋な少年なら、狙われたガゼルに。

 そして獲物を逃がしたチーターに何を思うのか…。

(…アホか俺は)

 そうして中流は、あまりに情けない己に自嘲せずにはいられなかった。



 ◇◆◇



 尋人、菊池がこの街を去った翌日の午後。

 日本。

 放課後の榊学園高等部から、中等部への渡り廊下を歩く時枝彬の手には携帯電話が握られていた。

「…」

 手の中でそれを弄びながら、時折、開こうと指の位置を変え、…だが何かを考えながら結局は握り直す。

 電話を掛けたいのに掛けられない。

 メールで済む内容ではないから、どうにか連絡を取りたいと思っても、今頃、彼―尚也がどんな気持ちでいるのかと考えれば考えるほど、自分から話を振ることが出来ずにいた。

「…まさか…だったよな…」

 ぽつりと呟く彬の眉間には深い皺。

 脳裏には、尚也の憔悴し切った姿と、兄・貴士の苦渋の表情が蘇えった。

 昨夜、尚也と二人で兄の部屋を訪ねた彬は、決して口を割らない貴士に説得を続けた。

 尚也は、中流と尋人が電話で話したこと、最後まで一緒にはいなかったけれど、あの様子では二人の仲は修復されなかったことなどを説明し、「中流と尋人の力になりたい」と訴えた。

 あの二人のために、どうしても真実が知りたい。

 どうしても中流に幸せになって欲しい。

 …その気持ちだけで、貴士に、過去の出来事を語ってほしいと頼み込んだ。

 それでも口を開くことを拒んでいた貴士は、しかし彬が生徒から聞いた「自殺説」を持ち出すと表情を一変させた。

 尋人がイジメに遭っていたこと。

 それを苦に自ら高所より飛び降りたこと。

 決して肯定はせず。

 だからといって真剣な尚也を前に否定も出来ずに、

 

 ――…頼む。尚也君の気持ちも判るが……あの二人に幸せになって欲しいのは俺も同じだ…、同じだけれど…、どうか、彼らをそっとしておいてあげてほしい……


 そう言った。

 …泣きながら。

 あの貴士が、涙を流しながら願ったのだ。

「…つまり“自殺”が記憶を失くした本当の理由だってことだろ…」

 肯定はされずとも、それは確信。

 尋人が記憶を失くしたのは交通事故の後遺症ではなく――。

 中流が尋人の気持ちを受け入れようとしないのは、それを思い出させたくないから。

 もしかするとイジメの原因の一つには、彼ら同性同士の恋愛もあったのではないか。

「…」

 だが、その奥に、更に何か大きな秘密が隠されている気がしてならない。

 何故なら、あの貴士が泣いたのだ。

 他人のために泣いて訴えた。

 ――どうか彼らをそっとしておいてやってくれ……

 両親の離婚ですら表情を崩すことのなかった貴士を、それほどまでに追い込む“過去”。

「…何があったんだ、六条…」

 今は異国の地にいる元教え子を思い、彬は深い息を吐いた。

 しばらくして中等部の職員室に立ち寄った彬は、二、三の所用を済ませて高等部に戻ろうとした。

 が、ふと視界の端に映った女性の姿に足を止める。

 校庭に面した窓を背にしている彼女は、確か中等部の数学を担当している人物で、松島美弥子という名前だったろうか。

 時々、全等合同の集会などで顔を合わせた程度だが、二十代後半とは思えない愛らしい童顔にふくよかな体つきというアンバランスな外観は、例え元教え子の男子生徒と恋仲にある彬でも気になるところだ。

「…?」

 その彼女が、溜息をついている。

 目線の先には閉じたままの携帯電話。

「…」

 彬は、自分の手の中にある携帯電話と彼女を交互に見ながら、ふと思うことがあった。

「松島先生」

 もしかして…と考えながら呼びかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、顔を上げた。

 どことなく顔色が悪く、何かに怯えているらしいのは明らかだ。

「どうしたんですか。体調が良くないなら保健室で休まれるとか…」

「い、いえ…なんでもないんです。…ありがとうございます」

「しかし…」

 なおも声を掛ける彬に、彼女は左右に首を振り、まるで隠すように携帯電話を手に取った。

「…」

 その動作に(やっぱり…)と思う。

「原因は恋人ですか?」

「え…っ」

 ギクリと目に見えて強張る彼女に、彬は「いや実はですね」と微笑んだ。

「いま、僕も恋人に連絡出来なくて悩んでいたところだったんです。もしかして僕の大切な人も、今の松島先生みたいに辛そうな顔をしているのかなと…まぁ、勝手な想像ですけど、心配になってしまって」

「――」

 対して面識もない間柄で、ここまで私生活を明かす彬に呆然としていた松島教諭は、だが男の口調が惚気るのにも似ていると気付き、苦笑を漏らした。

「時枝先生ったら…、こんなところで恋人の話なんかして、生徒に聞かれたら大変なことになるんじゃありません? 先生のファンは多いんですから」

「松島先生ほどじゃありませんよ」

「そんなこと仰って…」

 くすくすと笑う彼女に、彬は最後の決め手とばかりに絶品の微笑みを浮かべた。

「ん。やっぱり先生は無理にでも笑っている方がいいですよ。周りで落ち着かない人もいるでしょうしね」

 彬の台詞に、周囲で不自然に逸らされた視線が複数。

 彼女自身はそれに気付かず、冗談を聞いたように笑っている。

「それに、相談事なら僕が聞きますよ?」

「それは…でも…」

「恋人とケンカして連絡が来ないとか?」

「…」

 冗談めかしていう彬に、だが彼女の表情は複雑に歪んだ。

「ケンカはしていない…はずなんですけど……」

「連絡が来ない?」

「…いつもの時間に電話がなくて…」

 ほとんど誘導尋問のように言わされている松島教諭に、彬はそっと頷いた。

「昨夜は忙しかった、とか」

「そういう時にはメールでも、何か一言くれていたので…」

 一晩、まったく連絡が無かったのは初めてだと。

 そう、言い終えようとした矢先。

「っ」

「ぁ…」

 松島教諭の手の中、着信の振動が起きる。

 彼女は慌ててディスプレイに表示される名前を確認し、

「済みません、ちょっと…」と彬を避けるように職員室を出て行った。

 その表情があからさまに安堵していて。

 ようやく恋人から連絡が来たらしい彼女に(考えすぎか)と、彬の口元にも笑みが浮かんだ。

 そうして今度こそ高等部に戻ろうと廊下に出た彬だったが、その耳に届いたのは穏やかではない言葉。

「警察?」

「――」

 松島教諭が、電話の相手に対して、そう聞き返していた。

「待ってください、この電話の持ち主…って…! あの、本当なんですか? 本当に健吾なんですか!?」

(健吾…?)

 聞き覚えのある名前に、彬はもう一度彼女に歩み寄る。

「松島先生、警察って…、――!」

 廊下の角で、真っ青な顔で携帯電話を握り締めていた彼女は。

「…健吾が……!」

「――!」

 何故か心臓が早鐘を打つ。

 その“健吾”が誰かなんて、知るはずもないのに。

「松島先生、電話を代わっても? ――失礼、私、松島の職場の同僚で時枝と申します。恐れ入りますが、もう一度ご説明願えますか?」

 早口に告げた彬に、返された答え。

 それは――。




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