時の旅人 一七
「忘れ物はない?」
菊池の祖母に声を掛けられて、尋人は手元の荷物を確かめ、部屋を見渡す。
三日間、寝泊りした部屋に片付け忘れたものがないのを確認し、
「大丈夫です」と返した。
「じゃあ行くか」
菊池が言い、尋人も頷く。
二人は今日の午前中の電車で地元へ帰るのだ。
玄関を出ると、祖父が車庫から車を出している最中で、二人は塀に寄り添うようにして立つ。
その先では、祖母が近所の主婦達と立ち話をしていた。
「昨夜、変な男達がうろついていて…」
「パトカー呼んだの、うちのお祖父ちゃんなんですけどね…」
「一晩中見回ってくれていたとか…」
「朝早くに、お巡りさんが一軒一軒回って注意するように言ってくれてるのよ…」
「何でも、お巡りさんが怪我させられたって話でね…」
「……」
「……」
聞こえてくる内容に、二人は顔を見合わせた。
無意識に表情が強張る。
昨夜、漠然と感じた不安が、今また胸中を襲った。
その男達は、本当に昨日のFF店で自分達を見ていた男達なのだろうか。
ならばどうして、そんな執拗に追ってくるのだろう。
「…平気さ。俺達はもう、こっからいなくなるんだし」
「…ん」
尋人を励ますように、菊池は彼の背を叩く。
車庫から出された車に乗り込み、祖母を呼ぶ。
「これから孫達を駅まで見送りに行って来るの…」
「また淋しくなっちゃいますね…」
行ってらっしゃい、また遊びにいらっしゃいね…、そう声を掛けてくれる近所の主婦達に軽く会釈し、車は発進した。
得体の知れない不安を残しながらも、少年達はこの町を去るのだった。
◇◆◇
ちょうど通勤・通学ラッシュを終えた時間帯、駅の人影はまばらだった。
尋人達が乗車予定の電車が到着するまで、十五分程の余裕があり、改札口の手前、自動販売機の前に設えられたベンチに座って待つ事にした彼らは、そちらを振り向くと同時に目を丸くした。
例え人込みの中であっても、その人物には気付いただろう。
栗色の髪に白磁の肌。
その隣に、寄り添うように立つ漆黒の髪、長身の男。
「…裕幸さん」
無意識にその名を呟く尋人に、当人はそっと微笑む。
裕幸と竜騎は、静かな足取りで尋人に近付いてきた。
「今日、帰ると言っていたから、…せめて見送りぐらいはしたかったんだ」
「…」
尋人の表情がわずかに歪み、裕幸の微笑みも複雑なものに変わる。
「……」
菊池は尋人の背を押すと、気を利かせ、祖父母の腕を引いて離れていった。
それを見つめ、感謝するように菊池に頭を下げた裕幸は、
「尋人君」
わずかな時間も惜しむように、少年の手を取った。
「これから、どうするかは決めた?」
「…」
静かな、それでいて暖かな眼差しに問われて、尋人は首を振った。
「判りません…何も……、まだ…」
「……中流さんのことが嫌いになった…?」
「! そんなこと…っ」
中流を嫌うなんて、そんなことはない。
有り得ない。
…本当は、会えるのなら会いたいのだ。
好きだと言ってくれたこと。
閉ざされた時間が共に在ったこと。
全てが、今もこんなに強く心を占めているのに……!
「…」
唇を噛み締め、必死に何かを抑え込もうとしている少年。
その悲痛な姿に、裕幸は意を決する。
まだ迷いはあったけれど。
不安、恐れは拭えないけれど。
「…」
見上げた竜騎の眼差しが逸らされることはなかったから。
失うことはないと、信じられるから――。
「――中流さんは、きっとこんな事は望まない。君が苦しむことなんか、…絶対に」
「…?」
「けれど…もしも君自身が記憶を取り戻すことを…、中流さんとの時間を取り戻したいと望んでくれるなら…」
たとえどんな過去があろうと、それを乗り越えてくれるなら。
「君の記憶は、俺の中に在る」
「――」
「俺の言葉を理解するのは難しいと思う。けれど、君の記憶は消えたわけじゃない。君の中では閉ざされてしまっていても、それは確かに在るんだ」
「裕幸さん…?」
不安と戸惑いに満ちた表情で呼ばれ、裕幸は苦しげな顔になる。
だが、その言葉は明瞭だった。
「人の心を動かすのは、人の心だ」
「…」
「心は、心でしか動かせない」
「心…」
「尋人君。君は、君の望むものを願ってごらん。君には、それを実現させられる味方がたくさんいる。俺も…俺達も、君の願いが叶うことを望んでいるんだ」
例えこの場にはいなくとも、閉ざされた時間の中、君を想う人は限りない。
「どうか信じて欲しい。君の願いは必ず叶う。心からの想いは、運命すら変えるよ」
「…」
「ね、尋人君」
裕幸の言葉を、尋人はどこまで理解出来たのか。
それは当人達にも判らなかったけれど、少年は「ありがとう」の一言を残して去っていった。
――…ありがとうございます…
――ありがとう……
自分の中で、あらゆる言葉を呑み込もうとするかのように。
「嫌な予感がするんだ…」
「…」
「あの夜、兄さんと出流さんが施した術は遠からず解けてしまう。…解くのは、記憶を取り戻したいと願う尋人君自身の“心”だ」
「…あぁ」
「全てを思い出したとき、…尋人君が乗り越えてくれることを祈るしかない……」
呟き、二人は空を見上げた。
ここからならアフリカはどちらの方角か。
――…中流さん、貴方は大切なことを忘れています……
◇◆◇
時間を前後し、尋人と菊池の乗る電車が到着したホームの端、障害者用エレベーターの影に二人の男が佇んでいた。
発車数分前、その電車に尋人が乗るのを確認し、男達は笑んだ。
自分達も同じ電車に乗り込み、下車する駅、向かう街まで尾行する。
家を突き止めれば彼らの仕事は終わりだ。
あとは最後の“お楽しみ”を待つばかり。
「行くか」
卑しい笑いをこぼし、男達は動いた。
標的より二両離れた扉から乗り込み、ゆっくり近付いていくつもりで。
だがその肩を。
「ちょっと待った」
不意に掴んだ男の手。――否、男と言うには若く、かと言って少年の域は過ぎたであろう力強さ。
「何だテメェ」
「アンタら昨日もあの子達を尾けてたろ」
「――」
言われて、男二人も気付く。
そこに現れたのが、昨日のFF店で標的と一緒にいた“野口”と呼ばれていた人物だと。
「…何の用だ」
「別に用なんかないけどさ、何となく、あの子達と同じ電車には乗って欲しくないんだ」
「…」
顔は笑っている野口だが、その眼差しは真剣だった。
そして、その真剣さが男達の不興を買う。
「…ざけんな」
「邪魔だクソが」
「!」
肩を掴む手を払い落とされ、振りあがった足が野口の腹部を狙った。
「おっと、おっかないな」
それすら軽口を叩きながら躱した野口は、尚も手を伸ばして男一人を車両から引き摺り下ろした。
「!」
「アンタも降りろよ!」
二人目の男も強引に下ろさせ、車両から遠ざける。
エレベーターの影。
ホームに佇む車掌から、その姿が隠れる場所へ。
「テメェッ!!」
同時、発車を促す笛の音。
アナウンス。
「おいヤベェぞ!」
「早く乗れ!」
「行かせるかよっ」
「ウゼェ!」
「っ!」
足首を蹴られ転倒した野口を踏みつけて車両に向かう男達。
だが野口はそれを許さず、仕返しとばかりに自分の背中を踏んだ男達の足首に腕を絡めてやった。
「!」
「なっ…!」
「言ったろ、アンタらにあの子達とは同じ電車に乗って欲しくないってな」
「…っ…」
扉が閉まり、電車は動き出す。
尋人と菊池を乗せた車両は、危険因子を残し、この街を去っていく。
「テメェ……っ!」
「覚悟出来てンだろうなぁ…っ?」
凄む男達に、野口は笑う。
尋人と菊池。
あの二人に、また会えればいいなぁと思いながら。