時の旅人 一五
中流に会うことは出来なくても、電話で話をするくらいは出来ると言った裕幸は、それから何度か、受話器を取ったり置いたりしていた。
その間、彼が操った言語は何種類あったか。
英語は尋人の耳にもかろうじて聞き取れたが、他はまったくの理解不能。
判るのは日本語が一度も使われなかったと言うことだけだ。
(裕幸さんてスゴイ…)
天は人に二物は与えないと言うなら、目の前にいる存在は絶対に人ではありえない。…むしろ、人ではないと言われた方が素直に信じられる気がした。
「……」
それからしばらくして、
「…中流さんがつかまりました」
受話器を耳に当てたまま、そう教えてくれた裕幸の表情はどこか切なげで。
本当は繋がらなければ良かったのかな、と尋人を戸惑わせた。
手渡された受話器を握り締めて耳に当てると、今はまだ、何の応答もない。
現地のスタッフが中流を呼び出しているのだろう。
「…中流、素直に尋人君と話そうとするかしら…」
ふと汨歌がそのようなことを言い、食卓に座っていた竜騎の無表情が少し険しくなったように感じられた。
「中流の奴、ヒロトと話したがらないかもしれないのか?」
「…その可能性は高いと思います」
「…」
裕幸が素直に答えると、尚也はしばらく難しい顔をしていた後で、電話機についているスピーカー機能をONにした。
「本居先輩?」
「こうすりゃ逃がさないで済むだろ。…駄々こねるようなら俺がキレる」
「…」
尚也の発言に裕幸は複雑な表情を浮かべ、汨歌が腰を浮かしかけたが、その直後に竜騎が視線を合わせ、…おそらく制止したのだろう。
彼女は再び絨毯の上に座った。
それからまたしばらくして。
中流の声が届いた。
いよいよ、実際に会うことは叶わなくとも二人の時間が重なろうとしているのだと、その場の誰もが、それぞれの思いで見守っていた。
だが、裕幸達の危惧は現実となり、尋人と話そうとしない中流に、尚也は予告していた通りにキレたのだ。
「いい加減にしろよ黙って聞いてりゃ一人で辛いの背負ったみたいな言い方しやがって! オマエ俺に何て言った!? いつも偉そうに何言ってたんだよ!!」
裕幸から受話器を奪い取って怒鳴りつけた尚也。
自身を責めるように謝罪する裕幸。
そのいずれもが尋人の耳には遠かった。
――…忘れられないんだ……!
中流はそう言ってくれた。
――……俺…俺は…っ…まだ尋人を忘れられてないんだ…っ……!
話せない、たまらない。
まだ尋人を忘れられないから近づけない、…中流は確かにそう言ってくれた。
「…っ……」
話すことを拒まれたことが、奇しくも彼の本心を伝えてくれたのだ。
(先輩……っ…!)
言葉が声にならない。
ただ、胸の奥が熱かった。
「好きな奴に“好きだ”って言えるのがどんなに幸せなことかって俺に言ったのはおまえだろ!! そのおまえが何でヒロトから逃げンだよ!!」
尋人の心中を察することもなく、尚也はなおも中流に言い募る。
「忘れられたからって何だよ! ヒロトはおまえに会いに来たンじゃねーか!」
本気で怒鳴りつける尚也に“遠慮”の二文字はなかった。
己の感情のままに吐き出される言葉は、…直前の親友の叫びを――激情を、過去の中流の姿に重ねて紡がれる。
もう、あんな顔はさせたくないのだと。
尚也なりの、中流への想いの表れだった。
……だが。
「おまえの今の話し聞いたら誰だって判るっ、おまえがヒロトのこと今も好きなのモロバレだろ!?」
――…やめて……
「なんで好きな奴から逃げンだよ! 一人で勝手に決めるなよ!」
――…もう、やめて……
「いい加減、自分の幸せ考えろって! ちゃんとヒロトに言えよ! ヒロトだって…っ」
「ぁ…!」
「汨歌さん!!」
「――!」
刹那。
広い空間に響いたのは痛々しい衝撃音。
振り上げられた少女の右手は、拳で、尚也の右頬を殴りつけていたのだ。
その音は、確実に電話の向こうにいる中流にも聞こえていただろう。
「痛…っ…」
「汨歌さん! いくら何でも拳で…っ」
「黙りなさい!!」
弾くように言い放った汨歌の言葉は、自分を諫めようとした裕幸に向けてのものであり、中流を追い詰める尚也に向けたもの。
「いい加減にするのはアンタでしょ!? 何も知らないくせに勝手なこと言わないで! アンタに中流の何が判るのよ!!」
「…っ……」
「人の気持ち考えようともしないヤツに、うちの中流を罵らせたりなんかしないわ! そんなの絶対に許したりしない!!」
仁王立ちになり、鋭い眼差しを決して尚也から逸らさずに言い放つ少女は、その瞳をわずかに揺らしていた。
潤ませるではなく、彼女もまた内面に激しい感情を抱いているからだ。
「尋人君のこと今さっき知ったようなヤツが、中流に偉そうなこと言わないで!!」
「…っ!」
「汨歌さん!」
いくら何でも言い過ぎだと、裕幸が彼女の肩を抱く。
「…っ…だって悔しいじゃない…っ、コイツ中流のこと何も知らないくせに中流のこと傷つけてる…! 中流に“あの時”みたいな辛い思いさせてる……っ!」
「汨歌さん」
もう何も言わないで下さいと、その細い腕に彼女を抱き締めた。
汨歌は裕幸の胸にしがみつき、ぎゅ…っと唇を噛み締める。
そんな二人に。
「…どうせ俺は何も知らない…」
「本居先輩…」
「アイツは…っ…中流は! 俺には何一つ話してなんかくれない…俺はいつだって役立たずだ……!」
“あの時”なんて尚也は知らない。
尋人のことを知ったのも、彼らの言うとおり、この一日、二日のことで、中流の口から聞いたことなど一度もなかった。
それでも、中流にあんな顔をさせたくなくて。
尋人に忘れられて傷ついている中流に、もう一度、現在の尋人の気持ちを聞かせてやれれば笑顔にしてやれるんじゃないか、って。
本当の幸せ、掴ませてやれるんじゃないか、って。
そう、思ったのに。
……そう、信じただけだったのに。
「…っ………!」
「先輩!」
ドンッ…と叩き付けるように受話器を手放し居間を飛び出した尚也は、それきり大樹家から姿を消した。
開け放たれたままの扉を複雑な表情で見つめる菊池。
何も言えない尋人。
複雑な沈黙が降りた、その中で、食卓の椅子に座ったままだった竜騎が立ち上がり、投げ出された受話器を手に取った。
「…」
短い息を吐く彼は「どいつもこいつもガキかよ」と言いたげな険しい表情。
「…っ……言っとくけど! 私は絶対に謝ったりしないわよ! 私は悪くないでしょ!」
汨歌の可愛げの無い台詞に、竜騎は再度、息を吐き、
「…だそうだ」
受話器の向こうに話しかけた。
『…』
そうして、しばらくして聞こえてきた、苦笑い。
『あぁ。…尚也に謝らなきゃならないのは俺だ……』
「なんでアンタが謝るのよ! アンタは、それこそ何も悪くないでしょ!?」
『俺が悪い』
「中流!」
『逃げているのは俺だ』
強く言い切った中流に、尋人の顔が歪む。
それを視界の端に捉えて、竜騎は口を切った。
「…どうする。尋人と話すか」
『…』
わずかばかりの沈黙。
返答は、否だった。
『話さない。……話せない。俺には、尋人の声を聞いて、平気でいられる自信がないんだ……』
「…」
「中流さん…」
『けど…このままで、俺の声が届くなら……聞いてくれ』
「!」
聞いてくれ――それは間違いなく、尋人に向けられた言葉だった。
最初は、あまりの不意打ちに正気を保つのも困難だった中流だが、そこに居るという覚悟が決まれば、しばらく冷静を装うことくらい可能な」はずだった。
『…尋人』
「…っ」
呼びかけられて、応えたかった。
だが声が出ない。
どうしても言葉が見つからない。
『…おまえが、何を知って、何を思い出そうとしているのかは判らないけど……、俺がおまえをどう想っているかもバレただろうけどさ……、それは全部、過去のことだ』
「ぇ…」
『もう過去の話なんだ。いまの俺達には何の関係もない』
「でも…っ」
「尋人君」
言いかけた尋人を制し、裕幸は首を振った。
何も言ってはいけない。
中流の言葉を受け入れなければならない。……何故だか、裕幸の無言の瞳からは、そんな言葉が聞こえてくるようだった。
『過去を振り返るな。昔に戻ったりするな。俺達がまた逢うことは二度とないから…』
決して。
絶対に、中流が尋人との再会を望むことはないから。
『…未来だけを向いて歩け』
「先輩…」
『未来で、ちゃんと、…幸せになってくれ』
「……っ…」
――…幸せになれ……
それはあの日の別れの言葉。
全てを忘れ、中流との時間を閉ざしてしまった自分に向けられた、最後の想い。
「…もう……無理なんですか……?」
掠れた問い掛け。
いまの尋人の表情は、きっと中流の瞼に浮かんでいた。
『…あぁ』
静かに、静かに。
『俺は、二度と尋人とは会わない。……会いたくないんだ』
「…っ……」
『ごめんな、尋人……』
謝らないで。
ごめんなさいは、本当は、僕の台詞。
貴方を忘れてしまって、ごめんなさい――。
「尋人君…」
「倉橋…」
菊池と、中流の従姉弟達に囲まれて、尋人は深く頭を下げた。
竜騎の持つ受話器に向かって、深く、長く。
「…いろいろと、ご迷惑ばかりお掛けして、済みませんでした……」
冷静を装って語られた言葉に。
微かな吐息だけが応える。
中流と尋人、二人の想いは交錯しながらも、重なることは叶わなかったのだ……。