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時の旅人 一三

 その家の周囲には“森”と表現しても過ぎない木々の連なりがあった。

 まるで家屋そのものを外界から覆い隠すように、四方に広がる緑の幕。

 ただ一筋、正門へと続く道は車一台がかろうじて通れる狭さで、彼らを迷わせることなく目的地へと誘った。

 何故、中流の親友が倉橋尋人と一緒にいるのかと問うた彼らに、

「二人を会わせるために中流の連絡先を知りたくて裕幸を待っていた」と答えた尚也と、

「先輩に…六条先輩にどうしても会いたいんです……」と訴えた尋人を、彼らはここに招いた。

 木々に囲まれた家屋――紺碧の屋根と白亜の壁。左右対称に描かれた外観の、その中央に位置する正面玄関へは左右に広がる天然木の階段を上る。

 大樹家本邸――親族の集まる中心地。

「冬に来た時も思ったけど…ホント森の中だよな…」

「…ってーか、この家は何だよ。どこの豪邸だ?」

 居間に通された尚也と菊池がボソボソと言い合うのを横で聞きながらも、尋人の意識はそこになかった。

 ただ、圧倒される。

 そして心の奥底が訴える。

 この大きな家、広い内装。

 裕幸、竜騎、汨歌を目の前にして、この部屋にいて。

 心が騒ぐのは、自分がこの場所を知っているから――?

「…ぁ、あの…」

「ん」

 声を上げた尋人に、キッチンに立つ裕幸が応える。

 静かで優しい、包み込まれるような微笑み。

 その穏やかさに、心の中の時計がリズムを狂わせてしまいそうだ。

「僕…、もしかして僕は…この…大樹さんのお家に、前にもお邪魔したことが、あるんでしょうか…」

「…」

 尋人の問い掛けに、汨歌が顔を上げた。

 裕幸をじっと見たまま動かなかった彼女だが、その裕幸が小さく頷くのを確認して部屋を出て行く。

「少し、待っていて」

 そっと笑んだ裕幸は、そうして手元の仕事を再開する。

 部屋に流れる甘い匂いは、裕幸が作っているココアだ。

 尋人が甘いココアを好きと知っているのか、それともただの偶然か。

 三月末の、まだ雪も残る北国の風に当たっていれば身体も冷えただろうと、この部屋に通されてすぐ、牛乳を温めていたのだ。

「本居先輩と菊池君も、甘いので大丈夫ですか? 珈琲や紅茶もありますが」

「―」

 甘いのが苦手な尚也は、ココアの匂いにも鼻先がむずむずしていたが、自分だけ違うものを頼むのは申し訳ないと思い、それでいいと頷きかけた。

 だが。

「遠慮しないで下さいね。お湯も別に沸かしていますから」

 絶妙のタイミングで言われ、敵わないなと思う。

「悪い。じゃぁ珈琲で…」

「はい」

 尚也が頼み、裕幸が答え。

「す、すみません。俺は水でいいです」

「え?」

「甘いのも珈琲も飲めないんで…」

 菊池が申し訳無さそうに、遠慮がちに言ってくると、隣で尚也が目を丸くする。

「…おまえ、珈琲もダメなの?」

「どうせガキだよっ」

 恐らく親や友人達に、それで子供だとからかわれたことでもあるのだろう。

 ムキになって言い返す菊池に、裕幸は楽しげに笑った。

 それからしばらく、誰も何も言わない。

 温かな飲み物の匂いだけが鼻腔をくすぐり、木々に覆われた光景を壁一面の窓ガラスから眺めるだけ。

 この家に着き、居間に通された尋人たちは、リビングのソファに座るよう促された。

 今は部屋を出て行った汨歌は、ソファとテーブルの置かれる一角にだけ敷かれた肌触りの柔らかな絨毯に直接座り、竜騎はキッチン寄りに置いてある食卓の椅子の一つに腰掛けた。

 まるで、それが自分達の指定席だと言うように。

「お待たせ」

 しばらくして人数分のカップを手にしてキッチンから出てきた裕幸は、最初に一つ、珈琲の入ったカップを竜騎の前に置いた。

 あぁ、それで湯も別に沸かしていたのかと、尚也、菊池が妙に納得していると、今度は菊池の前にカップが置かれた。

「?」

「甘いのも珈琲も苦手なら、あとはこれかなと思ったんだ。好みに合わなかったら無理しないで。――こっちは普通の水だよ」

 言いながら差し出されたグラス。

「ありがとうございます」

 礼を言い、カップを手にして口に運ぶ。

 気持ちの良い微かな匂い。

 ミルクティーだ。

 甘くも苦くもない、菊池にとって飲みやすい絶妙の味。

「美味い…」

「それは良かった」

「ぁ、あ、ありがとうございます、すごく美味しいです…」

 ほとんど無意識に呟いていた菊池は、ハッと我に返り慌てて頭を下げた。

 裕幸は笑んで応え、尚也に珈琲を。

 尋人にココアを。

 そして汨歌の指定席にカップを置いたと同時、どこからか戻ってきた彼女の腕には一冊のアルバムが抱えられていた。

 自分の席に置かれたカップに笑顔を覗かせながら、

「あったわ」と尋人が座るソファ近くの卓にそれを置いた。

「これ、一昨年のクリスマスに、この家で撮った写真が入ってるの」

「一昨年…?」

 聞き返す尚也に、裕幸が頷く。

「本居先輩が去年いらして下さった時も、叔父…中流さんのお父さんや、従兄弟達が好き勝手に写真を撮っていました。…覚えていますか?」

「あぁ…そういやぁ、何度か撮るって言われたな…」

 そして焼き増しして貰った写真が何枚か、自室の引き出しの中に入っていたかもしれない。

 そう呟く尚也の隣で、尋人はじっと閉じたままのアルバムを見つめ、菊池は固い表情で口を開いた。

「去年が本居…先輩で、……一昨年は倉橋がいたんですか?」

 判っていて。

 それでも確認する菊池。

 裕幸は頷き、アルバムを尋人の正面へ差し出した。

「――」

「…君が望むなら、是非見てもらいたいと思う。本当なら焼き増しして、君にも持っていてもらいたかったものだから」

「…」

 事故で記憶を失い、このようなことにならなければ、このアルバムはきっと倉橋尋人に手渡されていた。

「…ただ、見る前に、これだけは聞かせて欲しい。中流さんに会いたいと言った君は、どこまで記憶を取り戻しているの?」

 裕幸の問い掛けに、

「…っ……」

 しかし尋人は首を振った。

「何も…何も思い出してないんです…」

「…」

「ただ、逢いたいだけなんです…」

「尋人君…」

「逢いたいんです……っ」

 それしか言えない。

 それだけが全てだ。

 今の尋人には、幸せになれと言われ、抱き締められたことだけが“六条中流”の記憶。

「…ごめんなさい…っ…」

 忘れてしまってごめんなさい。

 思い出せなくて、ごめんなさい。

 それでも逢いたいなんて言って。

 中流を異国の地に追いやってしまって。

 こんなことに、なってしまって。

「…っ…」

 本当に、自分の涙腺は壊れてしまったんじゃないかと思う。

 ぼろぼろと零れ落ちる大粒の涙は隠すことも出来ず、腿の上で握られた拳を濡らした。

 自分は間違ったかもしれない。

 やっぱりこんなところにまで来るべきではなかったのかもしれないと、心の中、自分を責めた。

「…」

 だがそんな尋人の、濡れた拳を。

 不意に、温かな掌に包まれた。

「――」

「……全てを忘れたままでも、君の心は中流さんを追いかけてくれたんだね……」

 静かに語られた言葉。

 向けられた眼差し。

 その表情に浮かぶのは、疑いようのない微笑みだった。

「…ひろ…ゆき、さん……」

 だがその微笑は長くは続かず、すぐに悲しみの色を濃くする。

「…尋人君。もし…中流さんに逢えたとして…記憶を取り戻せるかどうかに関らず、…君と中流さんの間に何があったのか…伝えられる真実が、…もし、とてつもなく残酷なものだったとしても…」

 深く呼吸し、裕幸は続ける。

 汨歌と竜騎は、何も言わずに、誰もいない場所を見据えている。

「…中流さんがどんな選択をしても……それを受け入れることは、出来るだろうか……」

「…」

「君にその覚悟があるのなら…、それでもいいと言えるなら、中流さんに連絡を取ろう」

「ぇ…」

「ホントか?」

「連絡取れるんですか?」

 尚也と菊池が身を乗り出してくるのを、裕幸は頷くことで答えた。

「さすがにアフリカから呼び戻すのは難しいけれど、電話で直接、話しをすることなら出来ると思います」

「――」

 言い、再び尋人に視線を向ける。

「…どうする、尋人君」

 真摯な眼差しに問われて、尋人の中ではたくさんの言葉が蘇った。

 菊池や尚也、野口、辻貴士医師。

 両親、先生、…あの日の六条中流。

 たくさんの人達の姿と、言葉が一斉に思い出されて、尋人は目を閉じた。

 恐れないで。

 目を逸らさないで。

 例え、そこにどんな残酷な結末が待っていようと、立ち止まること、引き返すことだけはあってはならない。

「…お願いします…」

 吐息のように掠れた声は、けれど尋人の確かな意志。

「お願いします…六条先輩と、話をさせてください」



 ◇◆◇



 ヨハネスブルクから車でおよそ六時間。

 中流が南アフリカ最大の観光地でもあるクルーガー国立公園を訪れ、レタバ・キャンプに一泊した翌朝――正確には一夜を明かした、と表現するべきか。

 観光目的ではないにしても、ここまで来て野生の動物達を見ないなど勿体無い、時間の許す限りアフリカの自然を体感しながら、アフリカという大地を撮り続ける男の仕事を見ていたいのだと訴えた中流に、その男―佐伯幸也はあの一言を突き返した。


 ――俺の予定を狂わせるな……


 結果、佐伯幸也に同行した中流は一睡も出来なかった。

 いわく、その種族によって異なりはするものの多くの動物達が動き回るのは夕方十六時頃からの夜間。

 また早朝から動き出す種族も多い。

 イイモノが見たけりゃ目を離すなと言うことで、徹夜で連れ回されたのである。

「あのオヤジ……っ」

 午前八時過ぎ。

 太陽もすっかり上りきり、冬へと向かう、涼しすぎる風が吹く。

 つい四十八時間ほど前に日本の空港を飛び立ち、香港を経由しアフリカへ入国したのが三十時間前。

 それから時差に慣れる間もなく、ここ、クルーガー国立公園を訪れたかと思えばイキナリの徹夜。

 それは佐伯本人も同じだろうと思うかもしれないが、中流が生まれて初めて立ったアフリカという大地に感動し、その風景をフィルムに収めていた間に、佐伯はしっかりと睡眠を取っていたのである。

 若いだとか、体力には自信があるだとか言ってみても睡魔には関係ない。

 さすがに中流の疲労は限界だった。

「はぁ…」

 少しの間、眠ってしまっても平気だろうか。

 佐伯はそんな自分をどうするだろう。

 置いていかれるだろうか。

 これだから七光りは、と蔑まれるだろうか。

 それならそれでも構わないと自棄になる気持ちと、ここに来たのは自分の意志、自分の目標と言葉に責任を持ちたいという気持ちが、疲労と睡魔の渦に巻き込まれていった。

「…ん……」

 お世辞にも気持ち良いとは言えない、布団代わりの布切れに包まりながら、目を閉じた。

 どうか、このまま眠らせて――。



「おい」

「――…っ」

 不意に背中を蹴られて、中流は無理やり意識を引き戻された。

「おい起きろ、手間掛けさせるな」

「…、佐伯さん…」

「? 寝惚けてンのかよ」

 不機嫌を露に言ってくる佐伯に、中流は内心で息を吐いた。

 起きろ自分。

 起き上がって、立ち上がって。

 そうして相手の顔を見上げろと自分を叱咤する。

「…どうしたんですか。用事あるから街行くって…」

 このキャンプ場にはレストランやスーパーも揃っており、どこへ行くにしても一時間は休めると予想していたのだが…。

「その街で呼び出し食らったんだ、おまえに電話だってな」

「……電話?」

「日本から緊急らしいぞ」

 思いもしなかった返答に、一瞬、その言葉自体が飲み込めなかった。

 だが電話と言えば“電話”でしかなく、自分に掛けてくる相手など限られる。

「なんで…」

 次第に悪い予感が胸中を占める。

 わざわざアフリカまで電話してくる用事なんて何がある?

 しかも、それだけの理由を彼ら家族――大樹の血は抱えている。

 まさかあの従弟に何かあったのだろうか。

 それとも旅先の両親、仕事中の兄の身に何か起きたのか。

「佐伯さん、電話どこですか…っ」

「街のセンターだ。…乗れ」

 車を指し示されて、中流は足早に乗り込んだ。

 佐伯も素早く運転席に戻り、乱暴な走りで電話の繋がっているセンターへ連れて行った。

 車の中、中流は祈るような気持ちで拳を握り締めた。

 もし裕幸に何かあったなら、どんなに悔いても悔やまれない。

 旅先の両親や、兄に何かがあったとしたら、自分はどれすればいいのだろう。

 世界中を歩き回るのが趣味と化している両親にとってはそれも本望なのかもしれないし、兄に至っては私生活を顧みると自業自得の観が強い。

 嘆くのも悲しむのも彼らのためにはならないような気がして。

 だからと言って、どうすればいいのか考えがまとまるはずもなく。

 街までのわずかな道程が、何時間も掛かっているように感じられた。

 

 辿り着いたセンターの受付で、英語での会話。

 自分が六条中流だと名乗り、日本からの電話を繋いで欲しいと訴えた。

 そうして数分後。

 誰から、誰の知らせを受けるのかと表情を強張らせていた中流の耳に、静かな沈黙が届いた。

「……?」

 どうしたのか。

 緊急だと自分を呼び出しておきながら、あちらから一言も発さないのは何故だろう。

「もしもし?」

 呼びかけ、それでも続く沈黙。

 誰か、と口を開き掛けたそのとき。

 震えた吐息が感じられた。

「――」

 それは、なんの間違いか。

『先輩……』

「――」

『……六条先輩……?』


 焦がれて、焦がれて。

 消した想い。


 これは何と言う名の悪夢だろうか――……。




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