時の旅人 一一
失った記憶。
消された時間。
事故に遭ったことすら、人から聞いて知っているというだけで、時には他人事のように感じることがある。
本当は、みんなが僕をからかっているだけで。
この生活は全部が夢で。
明日の朝、目が覚めたら中学一年生の体育祭が始まるんじゃないかって。
本当は、僕は十三歳のままなんじゃないかって、今だって、そう思うんだ。
けれど、これだけは本当のこと。
十四歳、十五歳の自分が在たことは信じられなくても、貴方の特別な相手が僕だったと言われて嬉しかった。
何も思い出せないのに、貴方が他の誰でもない、僕の特別な人だったと聞かされて、嬉しかった。
何も判らなくたって、好きになったのは同じ人。
やっぱり貴方だった。
――……幸せになれ……
あの日の抱擁は、貴方にとっては最後の別れのつもりだったのだと、今なら判る。
何も言わずに、僕のために、たった一言で送り出してくれた。
貴方を忘れた僕を恨みもせずに。
僕の幸せだけを考えてくれた。
だから、もう逃げない。
逢いたい。
いま、ものすごく貴方に会いたい……。
◇◆◇
「こうなったら、何がなんでも中流と会わせてやるからな!」
「会わせるっつったって、そりゃ幾らなんでも無理がないか?」
「ンだと!? おまえは会わせてやりたくないってのか!」
「出来るもんならそうしてやりたいけどさ、中流が今どこにいるのか忘れてないか?」
「どこにいたって呼び戻せばいいだけだ」
「アフリカから簡単に呼び戻せるわけないだろ。連絡の取りようだってないのに」
「携帯とかさっ」
「アホ。欧米なら通じる地域もあるだろうけど、中流がいるのはアフリカだぞ? それもサバンナだぞ? どこに電波が通じてるって?」
「うっ…」
「…、おまえはあんまり口開かない方が良いぞ、バカ丸出しだから」
「〜〜〜」
野口の容赦ない台詞に、尚也は悔しさや苛立ちを感じながらも、正面に座る少年二人が、何とも言えない表情をしているのに気付いて口を噤んだ。
どうにかして中流と倉橋尋人を再会させてやりたいと思う彼らだったが、それにはアフリカという国はあまりに遠かった。
「…連絡だけでも取れれば、考えようもあるんだけどな…」
「…」
野口は眉間に深い縦皺を刻み、何か方法はないだろうかと思案する。
尋人が中流に逢いたいと言う。
好きだから逢いたいのだと、そう聞かされたら絶対に会わせなければならない。
もう、中流にあんな顔をさせていなくても良いのだから。
「………あの」
ふと上がった遠慮がちな声に、尚也、野口、菊池の三人は尋人を見た。
「どうした?」
「何か方法を思いついたのか?」
「ぁ、いえ…」
期待するような視線を三方から受けて、尋人は臆しながらも首を振った。
「いえ、そうじゃなくて…あの、……アフリカは、…遠いですよね」
「? そりゃぁ、飛行機で十三時間だか掛かるし…」
尚也が、数分前の遣り取りなど忘れたように口を開き、中流から聞いていた飛行時間を告げると、尋人は少しだけ歪んだ笑みを浮かべた。
「…六条先輩は夢のために、…写真家っていう夢のためにアフリカ行きを決めたんですよね…?」
例えば尋人と会わないために出発の予定を早めたのだとしても、それ以前からアフリカ行きを決めていたのは、それが中流自身の夢につながっていくからだ。
「せっかく十三時間も掛けて、夢のためにアフリカに着いたのに…、たったの数日で僕なんかのために帰国させてしまったら、申し訳なくて、僕は自分が許せなくなります」
「でも」
「それに、僕…僕達は、明日には地元に帰るんです。今すぐに連絡がついても、会うことは出来ません…」
「それなら、もう二、三日くらい帰るの延期すればいいじゃん。祖父ちゃん達だって、もうしばらく泊まらせてくれって言ったら喜んで…」
菊池がすぐに提案するが、尋人も迷わず首を振った。
「ダメだよ…、今回のことだって、両親は本当なら僕をこの街に行かせたくなんかなかったんだ。僕の記憶のことだって、忘れたままならそれでいいって思ってる…、思い出すのを怖がっているようにも見える。もうしばらくこっちにいるって言ったら、…きっとものすごく心配させることになる…」
「…」
この街に来る日、見送りに来ていた尋人の両親の姿を思い出して、菊池は「あぁ…」と髪を掻き回した。
そうだ、倉橋夫妻はこの遠出を快く思っていない。
尋人の記憶が戻ることを望んではいなかった。
「…その、尋人君のご両親のことは、俺達には判らないけど…、会えないまま帰る事になって、君自身はそれでもいいのか?」
野口の問い掛け。
尋人は小さく頷く。
「今回がダメでも、次がありますから…」
「…」
逢いたい気持ちに変わりはない。
記憶が無くても、好きになった想いに偽りもない。
だから、今回はダメでも、また次の機会がある。
中流が自分の予定を終えて帰ってきてからでもいいのだ。
それからでも、きっと逢うことは出来るから。
「…」
野口は軽く息を吐く。
菊池も何も言えない。
…ただ一人、尚也だけは。
「ダメだ」
「ぇ…」
尚也だけは、それを受け入れるわけにはいかなかった。
「そんなのダメだ…っ、会いたいって思ったんだったら…ヒロトがそう思っているんだったら、中流にいつまでもあんな顔をさせてちゃダメなんだ!」
好きな相手に好きと言えず、会いたいのに会えなくて浮かべた淋しい笑顔。
笑うなら。
微笑むなら、心から幸せだと感じて笑って欲しい。
それが出来るのはたった一人、倉橋尋人だけだから。
「…だから、そうしたいのはやまやまでも連絡先が判らなきゃ帰って来いとも伝えられないだろう」
「だったら知ってそうな奴に聞く!」
「知ってそうっつったって、中流の家族は滅多に家にいることないって言うし…」
父親は天才写真家の呼び名を欲しいままにしながら世界を飛び回り、母親は彼と一緒に家を空けることがほとんど。
兄の六条至流はモデル出身の俳優として毎日過密なスケジュールをこなしているらしい。
「そんな人達にこそ、どうやって連絡取るんだよ」
「家族じゃなくたって、誰か一人くらい知ってそうな……」
【家族】と口にした拍子、脳裏に浮かんだ面影。
少年であるはずなのに少女のようで、静かに微笑う姿には不思議と癒されるその人に、尚也は、中流を見送った日の空港でも会っていた。
「あ……っ、いた! 連絡先知ってそうな奴っ、いや絶対に知ってる奴!!」
「え…」
「尚也?」
唐突に大声を上げた尚也に、尋人と菊池は面くらい、こういうことに慣れている野口は一人冷静に応えてみせる。
「それって誰」
「中流の従弟だよっ、松浦に通ってるって言ってたイトコ! あいつン家、不気味なくらい親戚仲もいいだろ? 中でもそのイトコとは一番親しいって言ってた…っ」
「あー、そういえばそんなことも言ってたな」
「だろ!」
意気揚々と宣言し、これで連絡が繋がると確信した尚也は既に興奮状態。
野口は、まだ幾分かの不安も拭い去れなかったが、可能性があるのならそれに賭けてみたいと思った。
「尋人君、菊池君。君達の予定さえ問題がなければ、尚也と一緒に、その中流の従弟に会ってみないか?」
「…」
「帰って来いとは言えなくても…、声を聞いて、話をするだけでも価値はあると思う。それこそ次の機会に繋がるように、さ」
「……倉橋」
菊池が、静かな表情で尋人を見つめる。
他に何を言うわけでもないのに、その瞳からは励ましの声が聞こえるようだった。
「尋人君」
「ヒロト!」
野口と尚也からも同様の視線を向けられて、尋人は決意する。
「…お願いします。その従弟さんに、会わせて下さい」
「よっしゃっ!!」
深く頭を下げた尋人に、尚也は拳を握り、菊池と野口は優しい笑みを浮かべた。
例え再会することは叶わなくとも、尋人と中流が話しを出来ること。
二人の間に何らかの光りが射し込む事を、願わずにはいられなかった。
◇◆◇
FF店を出て、バイトの休憩時間を大幅に過ぎてしまい苦い表情をしている野口に見送られて、尋人、菊池の二人は尚也の案内で松浦高等学校へと向かうことになった。
だが、そうして別れる直前。
どこか硬い表情の野口が尋人に問いかけた。
「…君、この辺に知り合いとかいるのかな。元同級生とかじゃなくて…、そうだな、例えれば講義をサボった大学生風の…」
「ンだよ、それ」
唐突な野口の問い掛けに、尚也は呆れた表情で言い返し、尋人も首を傾げた。
「なんで、そんなこと聞くんだ?」
菊池が怪訝な顔で聞き返すと、野口はいっそう声を潜めた。
「…さっき。後ろに座っていた男二人が、君達のことを盗み見ていたから」
「ぇ…」
「男二人?」
野口・尚也と、尋人・菊池は向かい合って座っていた。
少年二人の後ろにそんな男がいただろうかと考えるが、尚也にはそんな覚えがまったくない。
「ぁ…」
と、思い当たることでもあったのか声を上げた尋人は菊池を振り返る。
「菊池君、もしかして昨日のテレビ…とか」
「あ」
「テレビ?」
なんのことかと思う年長者二人に、昨日の街中で偶然、テレビに出てしまったことを説明した。
「だから…もしかしたら、それに気付いた人がいて、見られていたのかも…」
「そっか」
「かもなぁ」
野口と尚也がほぼ同時に頷き「またおまえは…」と顔を見合わせ苦笑する。
明日、地元に帰る少年二人が乗るJR時刻を確認し、時間が合えば見送りに行く、今日の戦況も聞きたいし…と、そんな会話を最後に彼らは別れた。
尋人、菊池、尚也の遠ざかる背を見送り、…野口は周囲を窺った。
誰もいない。
自分達と同じ頃に席を立ったあの男二人の姿も、どこにもなかった………。