時の旅人 十
「君と中流が付き合い始めたのが、正確にいつからなのかは知らないけど、思い当たる時期はあるんだ」
「あ〜…、もしかして、あの人格崩壊の時か?」
野口が言う内容に、尚也もすぐに思い当たる時期があった。
高等部二年時の、二学期が始まって間もない頃だったはず。
「いつもは一段高いトコから俺達のこと見てるみたいに、大人びて冷静だったアイツがさ、あの時は一日中、顔緩みっぱなしで人の話は聞いてないし、教師すらアイツ避けて通ってたんだぜ」
「マジ狂ったんじゃないかと思ったよ、俺達も」
「まさに幸せの絶頂。…結構、長い時間、一緒にいたけど、あんな中流は見たことなかった」
「…」
野口と尚也が交互に語り、頷きあう正面で、その席に座り直した尋人は、しかしうつむいたまま一言も発することは無く、だから菊池も口を挟むことが出来ずにいた。
尋人が、本当は六条中流の恋人だった。
誰よりも大切な、たった一人の存在だったのだと告げられて。
…記憶のない少年にとって、それはどれほどの衝撃を伴うものだったか。
その上、こうして告げられた新たな情報が確かなものなら。
二人が付き合い始めた時期が、本当に彼らが高二の時だったなら、その日々は丸ごと失われたことになる。
――…僕は、先輩との時間を全部忘れてしまったんだ……
だから。
…だから彼は、会いに行くという手紙を受け取って、この国を離れる事にした。
どんな方法を取っても会いに行けない場所へ、予定を早めてまで。
――…僕が忘れたから…
――…先輩の存在を消してしまったから……
「…先輩は…」
ふと呟いた尋人に、三人の視線が集まる。
呼吸しているのかどうかも疑わしかった尋人が何を言わんとしているのか、彼らは静かに待った。
「……僕が、記憶を失くして……先輩のことを…」
付き合っていた人のことを。
恋人を。
「先輩を忘れてしまったから…、だから…嫌われたんでしょうか…」
「え――…」
「だから逢ってくれないのかな…っ……」
新たな涙が頬を濡らし、尋人の言葉は嗚咽に呑まれた。
「…ぅっ…」
「倉橋…っ」
声を殺し、肩を震わせ。
俯いていた顔を、なお隠すように下げて尋人は泣いた。
「…僕…先輩に嫌われている事にも気付かないで…っ……」
逢いたい、なんて手紙で追い詰めた。
決して会えない場所まで去ってしまうほど、彼は自分に会いたくなどなかったのに。
恋人を忘れた自分が、恨まれないはずなんかなかったのに……!
「倉橋…!」
悲痛な姿を見せる尋人に、菊池は居た堪れない表情で呼び掛けた。
どんな言葉が適当なのか分からない。
慰める方法も思いつかない。
記憶を取り戻す為に、この街に戻ってきて、帰る日には全ての真実を手にしていることを願った。
取り戻した記憶が尋人に心からの笑顔を浮かべさせると信じて、願ったのに。
最後には、こんな風に泣かすことしか出来ないなんて。
「…っ」
現在は所在どころか生死さえ不明の従兄が脳裏に浮かび、狭いテーブルの上で握られた拳が震えた。
菊池の目頭も熱を持つ。
そんな二人の少年達の正面で、尚也と野口も痛々しい表情をしていたが、それは胸から溢れてきた言葉。
「中流は嫌ってなんかない」
同時に。
図ったわけでもないのに、わずかな乱れも無く重なった二人の言葉。
口にした本人達が一番に驚き、互いの顔を見合わせた。
「…」
尋人と菊池が、少なからず大きくした目で尚也達を見上げる。
そんな様子に、二人はやはり揃って苦笑して。
「…真似するなよ」
「どっちが」
言い合う言葉に含まれる思い。
息の合い様。
真実は知らなくとも、尋人の失くした記憶を返すことは出来無くても、自分達にだけ伝えられる“真実”がここに在る。
「中流は、君を嫌ってなんかない」
「これだけは断言出来る。中流は絶対にヒロトを嫌ってなんかない」
「…どうして、分かるんだよ」
「判るからさ」
菊池の問い掛けに即答したのは尚也。
「何年あいつと過ごしてきたか判るか? 十二年の付き合いは伊達じゃないんだ。…中流はヒロトを嫌ってなんかない…忘れられたことを悲しんだって、それで相手を恨むような奴じゃない」
自分がどうなったって、他人の幸せのことしか考えない。
尋人のことだって、自分が忘れられても、尋人の幸せだけを願っていたはずだ。
だって、そうでなきゃ、あんな顔で微笑わない。
あんな、泣きそうな顔で別れない。
突然の予定変更。
見送りの空港。
最後に向けられた、あの眼差し。
それは、尋人がこの街に来ることを知っていて。
…近付いてくることを判っていて、縋るように。
「俺達は“六条中流”を知ってる」
「中流は、絶対に君を嫌ったりなんかしてない、これだけは信じてくれていい」
「…」
はっきりと、迷いなく言い放つ二人を、少年達は黙って見返した。
中流が尋人と会うことを望まず、この国を離れてしまっても、それが、イコール「尋人を嫌っている」という答えにはならない。
尚也も野口も、それだけは自信を持って断言できるのだ。
「…じゃあ、なんで六条中流は倉橋に会おうとしないんだよ……」
ポツリと呟く菊池に答えたのは、尚也が先だった。
「…記憶を失くしたヒロトに、おまえの恋人は“男”の自分だって言えなかったからじゃないのか?」
「――」
記憶を失くし、何もかもを忘れた尋人に、おまえは【同性と恋人同士だった】などとは。
それは尚也が彬と二人で考えた理由。
中流に限って【同性同士】が理由になるとは思えなかったが、そこに自分達の知らない理由が加われば自然な理由に成り得る。
尋人のため――そう考えることにも無理はない。
「ん…、俺もそれは考えた。何も憶えていない君に、自分達は恋人同士だったと告げて受け入れてもらえるとはさすがに思わないだろう。…君の将来のことを考えたなら尚更だ」
次いで野口も、尚也の意見を支持するような言葉を繋ぐ。
「実際、今だってかなり動揺しているんじゃないのかい? 自分が…男同士の恋愛をしていたと聞かされて」
「――」
野口の気遣うような問い掛けに、…だが尋人は目を瞠った。
そう。
そうなんだ。
自分と六条中流が。
男同士で恋人同士だったと聞かされて。
普通じゃない関係に、動揺するのは当たり前で。
否定したくなるのが普通で。
…本当は、混乱するのが普通だと、頭では知っているのに。
なのに。
だったら。
この心を満たす気持ちは?
鼓動の早さは?
「ぁ…」
毀れた呟きに、尋人は咄嗟に口元を覆った。
「尋人君?」
「ヒロト?」
野口と尚也が自分を覗き込むようにしているのが、わずかに見開かれた瞳に映る。
「ぁ、僕…」
僕は。
僕が、ここに来たのは。
「…先輩に…」
彼に。
「六条先輩に…会えば……解る、…かも…知れないって……」
「え?」
「倉橋…?」
「先輩に会えば…」
言葉と一緒に、頬を濡らすそれは。
「会えば解るかもって……、どうして……どうして、こんなに、先輩に逢いたいのか……」
逢いたくて。
ただ、逢いたくて。
声が聴きたくて。
あの温もりに触れたくて。
――…幸せになれ………
その言葉が、胸に響いて。
どうしてこんなに逢いたいのか。
会えば判るような気がして。
だから、逢いたくて。
逢いたくて。
「……どうして、そんなに六条中流に逢いたがるんだ…?」
「…っ……」
菊池の、ある種の確信を伴った問い掛け。
忘れても。
全てが偶然だったとしても。
それでも、どうしても逢いたいと、願うほどに。
「…好き…だから……っ…」
そうして、ふたたび零れる雫。
芽生えた想い。
息吹いた言葉。
どうして気付かなかった。
どうして判らなかった。
気持ちは、いつだって彼を――六条中流を追いかけていたのに。
「逢いたいんです…っ…先輩が…っ…六条先輩が、好きなんです……っ」
「倉橋…」
菊池の応え。
待っていた答え。
自覚して欲しかったのは、その想い。
今度こそ忘れないでほしかった。
「…そっか…」
野口の呟き。
「そっかぁ………」
腕に顔を隠すようにして毀れる言葉は、微かに震え。
「あぁ…」
野口も、尚也も、深く息を吐き、乗り出していた身体を座席に委ねた。
そうして願う。
親友の“幸せ”。
尋人の想いが、その自覚が。
中流が想い人に逢える“許し”だと信じたかった――……。