時の旅人 九
映画を観ることにした尋人と菊池の二人は、その日の新聞で目的の上映開始時刻を確認し、敷明小路の映画館へやって来た。
余裕を持って家を出た二人は、観る前に昼食を取ろうと映画館近くのFF店に入る事にした。
そうして彼らを見つけたのだ。
「菊池君、あの人…」
こちらに横顔を向けている彼を、昨日の学園内で知り合った野口健吾だと最初に気付いたのは尋人だった。
次いで、彼と向かい合っている少年が、二人がこの街に到着したその日、駅近くの駐車場でキスしていた人物だと知り、特に菊池の方が顔を歪めた。
野口と一緒にいるということは、彼も榊学園の生徒である可能性が高く。
…とすると、予想通り、昨日の教師は生徒(しかも男子生徒)に手を出した変態教師だったということになる。
「やっぱり、貴士医師に似てるって言ったことは撤回した方がいいぞ」
「うん……」
尋人も複雑そうな表情で頷き、せめて彼らから離れた位置に座ろうと踵を返そうとした。
だがその直後。
「ヒロトのことに決まってるだろ」
確かにそう聞こえた。
野口に向かって、もう一人の彼が、その名前を口にしたのだ。
「…あの人達、僕のことを話しているのかな…」
ヒロトという名前が“尋人”のことだと断言は出来ない。
だが、話している人物が双方、倉橋尋人との関りを持っているなら、その可能性は限りなく高いだろう。
「……近く行って、聞いてみるか」
「え…でも……」
「だって気になるだろ! もしかしたら六条中流のことだって、何か分かるかもしれないじゃん」
「…」
六条中流のことを、知れるかもしれない。
そう言われれば否とは言えなかった。
会いたかったのに、会えなくなってしまった人。
一時でも忘れたいと望み、映画を観に来たけれど。
盗み聞きが良くないことなのも分かっているけれど、…それでも、自分には知らされない何かが知れるかもしれないという誘惑には勝てなかった。
「あの野口って奴の裏に行こうぜ。あの鉢植えの影だったら隠れられる」
「…ん」
二人は静かに歩み寄り、自然を装いながら席に着いた。
野口健吾に程近い鉢植えの裏。
野口と尚也の声は、尋人、菊池の耳に鮮明に聞こえていた。
◇◆◇
「おまえが俺に会いに来た理由って、やっぱアノ件?」
「そうだよ、ヒロトのことに決まってるだろ」
冷たく言い放つ尚也に、野口は失笑した。
内心の憤りを隠そうともしない友人の姿が、何故だか嬉しかった。
「ヒロトのことか…」
あの少年のこと。
そしてそれは、同時に中流のことにもつながる。
「尚也。おまえ、中流からヒロトの名前って聞いたことあるか?」
「…ない」
その返答を、かなり不機嫌な口調で言い。
「俺がヒロトの名前を聞いたのは去年…一昨年のクラスで、大勢いた時に、他の連中が言ってるのを聞いただけだ。中流から個人的に聞いたことなんか…一度もない」
「だろーなぁ。おまえ、あの頃は浅見に狂ってたし」
言うと、途端にすごい目で睨まれる。
それを、やはり失笑でやり過ごして、野口は本題に入り始めた。
「…で、先生からはどこまで聞いた?」
「昨日のことなら全部。おまえが中流を庇って嘘吐いたことも聞いた」
(嘘…?)
昨日の、嘘。
その言葉に尋人と菊池は顔を見合わせた。
野口の、どの言葉が偽りだったというのだろう。
中流を庇ったとは、どういう意味なのか。
「じゃあ何だ。おまえは、俺がヒロト君に嘘吐いてまで中流を庇った理由が知りたいわけ?」
「…っ、全部だよ! おまえが中流を庇った理由も、嘘吐いた理由も、おまえがそこまで中流のことに詳しい理由もっ、アイツの事をどこまで知っているのかもだ!」
「――」
知りたいことを一息に言い放たれて、野口は思わず呆気に取られたが。
「…」
つまりは、何だ。
それを、そんな不機嫌に言い放つのは、そういうことか?
「…おまえ、もしかして俺が、おまえの知らない中流のコトを知ってるのが面白くないのか?」
「――! 違っ…」
言葉では否定しても、瞬時に赤くなった顔が尚也の本音。
「…っ…は…、あははははは!」
「なっ…テメェ、野口!」
「いや…だって、おまえ…っくくく、おまえ、ソレ嫉妬っつーかさ…、俺に妬いてるだけじゃん? 親友のおまえより、俺のが詳しいから悔しいんだろ?」
「…っ」
「一緒になるのは生まれ変わってからだって言ってたじゃねーか」
「ンな昔の悪ふざけ持ち出すなっ」
「けど、それっくらい中流のコト愛しちゃってるんだろ?」
「妙な言い方すンなって!」
いい加減にふざけるのは止せと言い放つ尚也に、だが野口は笑いを止めない。
だって、それが尚也の本音なら。
親友なのに何も知らないことに憤慨し、知っている野口を敵視しているだけなら。
「俺、おまえに話すことなんか何もないよ」
「!?」
「自分が中流の親友だって誇示するためだけに知りたがってるなら当然だろ。あの頃、女に狂ってたおまえは中流が辛いのに気付かなかった。中流も話さなかった、だから尚也は何も知らないんだろ? それを、俺が勝手に話せるわけない」
「………っ」
「知りたいんだったら聞く相手を考え直せよ」
冷淡に、鋭利な刃のように尚也の心を切りつける言葉。
尚也の気持ちを全て跳ね除けて、否定して。
確かに、野口の言うことも最もだけれど。
……だけれど。
「…っ……だったら野口…、おまえ、今の中流が苦しんでるの知ってるか……っ」
「…」
「中流がっ、好きな奴に好きだって言えないでいるの知ってるか? 卒業式前にあれだけコクられといて全部断って! 今は誰も好きになれないって…忘れられない奴いるって…忘れられないのに言えないって…あんな……あんなっ…泣きそうな顔で微笑う中流を見たことあるか……!?」
「……」
野口に嫉妬したのは事実だ。
自分の知らない中流のことを、普通の同級生でしかなかったはずの野口が知っている――その現実が居た堪れなかった。
自分の存在を無視されたようで腹立たしかった、それは本音だ。
だが、あんな顔で笑う中流を。
――好きな奴に好きだって言える…こんな幸せなことないぞ……
そんな言葉を、あんな顔で言う中流を、どうにかして助けたいと思うのも本当。
この気持ちだけは否定させない。
「人には幸せになれって言っておいて…自分の幸せなんか考えもしない…あんなバカ…っ、どうにかして本当に笑わせてやりたいって! 俺だって、そう思うくらい中流が大事なんだよ!」
「…」
中流が大事。
自分の幸せなんか考えもしないで。
いつだって人のために。
…尋人のために。
あんな顔で、微笑った。
泣く代わりに「大丈夫だ」と微笑った。
それが六条中流なんだ。
「…」
野口は小さく笑う。
そして、これが本居尚也だったんだと、苦笑う。
「……今の台詞、先生の前では言うなよ」
「…なに…?」
「今度は先生が中流に妬いて、それこそ殺人が起きかねないからな」
「妬くって…」
まさかと目を丸くする尚也に、野口は今までと違った笑みを作る。
「センセ、尚也のこと独占したがりだもんな。中流のことこんなに心配してるおまえ見てるのも、相当面白くないと思うぜ」
「―――! なっ、野口、おまえ…っ」
「ん」
自分と時枝彬の関係がバレていると察し青くなる尚也に、だが驚かせた当人は静かに笑い掛け、真っ直ぐに友人を見返す。
「秘密の恋愛には鼻が利くんだ。見てりゃ判る。自分がそうだったからだと思うけどさ」
「そう、って…」
「俺も人に言えない恋愛してたってこと」
「―――」
突然の告白に尚也は二の句が継げない。
だって、この友人に恋人がいるなんて。
付き合っている相手がいたなんて、それだけでも驚愕ものの告白なのに、それが人に言えない相手と聞いてしまったら、どう反応すればいいのかなど咄嗟に判るはずがない。
「人に…って、まさかおまえも…相手…」
「勘違いするなよ、俺の相手は女だからな」
恐らく同類だと勘違いされていることを察した野口が苦笑しながら続けると、尚也は一瞬、気の抜けた顔をして見せたが、では相手が女性で何故隠す必要があるのかと疑問に思う。
「…女、…で、秘密…なのか?」
「そ。何せ教師だから生徒と恋愛関係にあるなんて公にするわけにいかないだろ」
「―――」
それを、あっけらかんと言われて。
「中等部の松島センセ。おまえだって覚えてるだろ」
「松島…って…っ、野口…っ」
脳裏に、中等部時代に世話になった数学教師がポンッと思い浮かんで声が震える。
(松島先生……!?)
そして尋人も、失われる以前の記憶に在る松島教諭の姿を思い浮かべ、思わず漏れそうになった声を押し殺した。
「おまえ、それ俺に言ってもいいのかよ!」
「もう卒業したんだし時効だろ? それにおまえが他言しなきゃ何の問題もない」
「…そりゃ…、もちろん、誰かに言ったりはしないけど…」
自分も公には出来ない恋愛をしているのだ、それで誰かを追い詰めるような真似など決してしない。
けれど、言う言わないよりも、この同級生が中等部の――それも一度は教科担任として世話になった人物と恋仲にあったという突然の告白に、ただただ驚くばかりだった。
「……だからさ、中流の時もそうだったんだ」
「ぇ…?」
「今のおまえと同じってこと。尚也と先生の仲に気付いたみたいに、中流とあの子の関係も見てて気付いただけさ。中流が教えてくれたんじゃない、俺が勝手に気付いて、勝手に取引を持ちかけた。おまえが誰と付き合っているのかは誰にも言わないから、俺が誰にも話せないでいる彼女とのコトを聞いてくれってさ」
「おまえ…」
呆れた顔で見返してくる尚也に、野口は苦笑する。
正確には、そうじゃなかった。
野口には中流の相手を公表して回る気などさらさらなかったが、一番分かりやすい説明をしようと考えると、そういう言い方が自然に出た。
「でさ、俺が惚気話しするようになったら、あいつも対抗心が燃えてきたのか、自分のことも話すようになったんだ。…だから、中流が自分の恋人のこと、どんなに好きだったかは知っているつもりなんだ」
だから、別れることになったと聞いた時は信じられなかったし。
中流の姿を見ているのは辛かったし。
誤解していたせいもあって、昨日は尋人の姿を見て怒りが募った。
同時に、事情を知って、切なくなって。
…嘘を吐いてでも、庇わなければと思ったんだ。
「尚也、おまえの予想は当たりだよ」
「野口…」
「中流が、好きなのに好きだって言えない相手。今でも忘れられない恋人」
それは、たった一人。
「尋人君――中流が、たった一人大切に想っていた恋人は、あの子だ」
尋人が。
中流の、大切な。
たった一人の、恋人。
「…っ……」
唐突に、尋人の瞳から零れ落ちた涙。
「―――…倉橋…」
そんな友人を気遣い、思わず声を漏らしてしまった菊池。
「!」
背後からの声に。
聞こえた名前に「まさか」と野口は振り返り。
「あ…っ」
尚也も、その姿を視認した。
「尋人君……」
野口の背後、鉢植えの影の席。
何も言えずに、ただ肩を震わせて涙を零す少年の姿。
野口と、尚也と。
菊池と。
尋人と。
真実の欠片の一つは、そこにあった。