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二度目の楽園 三

 複数の少年から暴行を受けて傷ついた尋人をどこで手当てし、どこなら着替えさせてやれるだろうと話し合った結果、中流は職権乱用を決意した。

 つまり、自分の仕事場である撮影所で尋人を休ませることにしたのだ。

 幸い、中流がほとんど毎日通っている撮影所は敷明小路から徒歩で五分も離れておらず、小道を南に抜けた正面の、如月出版の大きな文字が正面玄関に彫られた近代的な八階建ビル、それが彼らの到着地点だった。

 近所には大手デパートの煉瓦造りの建物や、金融機関、保険会社の有名な名を掲げた高層ビルが所狭しと立ち並び、四車線の車道と、両腕を広げるのが精一杯の狭い歩道は、猫一匹さえ休むゆとりが無いほど人と鉄の塊に溢れていた。

 それを最上階の、全面ガラス張りになっている展望台のフロアから見下ろしていた中流は軽い息を吐いて、中央のソファに座って沈んだ顔をしている尋人に歩み寄った。

「五時半過ぎて、帰宅ラッシュだから仕方ないんだろうけどさ。あんなに人の頭だらけだと気味悪いよな」

 陽気な声を作って言う中流に、尋人は恐る恐る目を向けたが、結局、何も言わずに再び俯いてしまった。

 ここに来てそろそろ一時間。

 怪我の手当ても着替えも済んだ尋人は、編集部の知人から裕幸が借りてきたワイシャツとジーンズを着てソファに座っていた。

 どうしてもサイズの合うものがなくて大きすぎる上下を着ているせいか、実際の年齢よりもずっと幼く見えてしまう。

 その彼が落ち込んだ表情で黙り込んでいるのが、中流には酷く苦痛だった。

「あー…っと、そういえば尋人、榊の生徒だったんだな。教えてくれれば学校で会いに行ったのにさ」

 必要以上に明るく言った中流だが、尋人がビクッと震えて表情を強張らせたのを見て、また言葉の選択を誤ったらしいと知る。

「…ご…ごめんなさい。こんなこと、恥ずかしくて……、先輩に知られたくなくて……」

 そう、今にも泣き出しそうな声で言われては、まるで自分が彼を虐めているような気になった。

「いや…その、謝らなくていいんだ。ただずっと気になっていたからさ、怪我の具合とか…」

「……すみません」

「…」

 何を言っても尋人を追い詰めるだけらしいと察した中流は、小さく息を吐いて口を閉ざす。

 こういう時こそ裕幸がいればいいのにと内心で呟く。

 ほんの一時間前に、尋人がなるべく人に会わないよう配慮して裏口から屋内に入った彼らは、顔見知りの警備員に身分証明し、最短距離で八階に上がって来た。

 撮影関係者の中流の仕事場は五階で、そこに行っても問題はなかっただろうが本来は休みの自分。運良く個室が空いているかどうかも判らなかったため、八階の展望室という、確実な場所を選んだのである。

 昼過ぎまでは昼食を取る社員などで賑わう展望室だが、日が落ちて空が暗くなってくると、ここを利用する社員はほとんどいない。

 もっと暗くなり、夜景が綺麗に見える頃になると、また違った意味でやって来る者もいるだろうが、今の時間帯にその心配が無用なことを中流は知っていたのだ。

 実際、彼らが来てから展望室にやって来た人は無く、しかも裕幸は、尋人の怪我の手当てを終えて着替えを借りてくると、竜騎がバイトに行く時間だからと言って見送りに行ったきり、まだ戻ってこない。

 そんなわけで彼らは二人きりになってしまい、会話らしい会話が一度もないまま、時間だけが過ぎていくという状況の中にいるわけだ。

 重苦しい沈黙は十五分が過ぎてもまだ続いた。

 中流がその空気に追い詰められ、無意識に溜息をつくと、それに気が付いた尋人は自分がどうにかしなければと思ったのだろう。

 意を決したように、強張った面持ちで口を開いた。

「あ…、あの…」

 微かに震えた声。

 中流は不意打ちの展開に、弾かれるようにして姿勢を正す。

「どうした」

「い…いえ…、あの……」

「ん?」

「…ここ、先輩の何なんですか…?」

「ここ?」

「裏口の…、警備員さんと顔見知りみたいでしたけど……その…」

「あぁ、このビルか? ここは俺のバイト先さ」

「バイト…?」

「そ」

 中流は、尋人がようやく話に乗ってくれたことを喜び、彼の質問に詳しく、またそれ以上のことも話した。

「俺は写真家志望で、ここの撮影スタッフに混じって修行中なんだ」

「写真……」

「?」

「写真、見ました……壁…、先輩の部屋の、たくさん貼ってあって…」

「見たのか」

「風景画が…、綺麗で……。さっきのあの人の写真も…」

「あの人…、って裕幸かな。あいつは従弟なんだ」

 答えてから、中流はふと思いついたように意味深な笑みを浮かべる。

「尋人さ、KARA.Hってモデル知ってるか?」

「え…、KARAって…あの、天使の笑顔って、すごく話題になっている…」

「そう、その正体不明、性別すら不明の謎の天使」

 楽しげに返して、中流は、フロアの端に複数並んだ自動販売機側のマガジンラックから一冊の雑誌を手に取った。

「この雑誌は知っているか? リーヴェって業界一位のファッション雑誌」

「…名前だけ」

「写真家の六条至流は?」

「……名前、だけ」

 申し訳なさそうに言う尋人に、中流はそっと微笑した。

「その六条至流ってのが俺の父親。結構売れてる写真家らしくてさ」

 実際は「売れている」どころではなく、世界的に名誉ある賞を幾つも受賞している一流の写真家だったが、そこまで説明すると、それほどの有名人を知らなかった事に尋人がまた落ち込むと考えた中流はその程度で済ませておく。

「三年くらい前に新設されたブランドがあってさ、その撮影を依頼された親父が選んだモデルが、このKARA.Hだったんだ」

 その謎の天使、KARA.Hが載ったページを開いて尋人に手渡す。

 広げられたそのページには、薄手の衣装を纏って佇む、月色の髪の美しい人。

 その身体に女性特有の胸元の膨らみはなく、かといって喉元に男性特有の突起も無い。

 幼い子供なのかと思えば、時折見せる表情に漂う艶めいた色香。

 本人は雑誌を通してすら己の口を開くことがなく、所属事務所及び関係者も一切何も語らずの姿勢が数多くの疑惑と謎を呼び、存在さえ疑問視されている人物だが、その謎めいた存在が人々の関心を引いて止まないのだ。

 だが、それがどうしたのだろう。

 中流の父親がKARAを世に送り出したというだけの話なのだろうかと、小首を傾げた尋人は、トントンと雑誌の中のKARAを指差し、意味深に笑む中流と目が合った。

「……?」

「これ、俺の従弟」

「――」

「さっきの大樹裕幸。あいつがKARAの正体」

「え……」

「ナイショだけどな」

「ぁ。え、あ、はい…」

 どう反応していいのか、それすら判らずに動揺しているふうの尋人に、中流は笑い、雑誌をめくっていく。

「それで…、これが兄貴の六条出流」

「…お兄さん」

 次に開かれたページには、長い栗色の髪をかき上げ、読者に挑戦的な目を向ける青年の姿が在った。

「この間まで連ドラに出ていたから、もしかしたら見覚えがあるかもな」

 中流が言うと、尋人は初めて頷いた。

「…でも…先輩とお兄さんより、お兄さんと従弟さんの方が似ているんですね」

 雑誌の中のKARAではなく、先刻まで一緒にいた大樹裕幸の顔を思い浮かべて、尋人は言う。

 栗色の髪もそうだし、肌の色もそう。

 日本人のはずなのに、どこか異国の雰囲気を漂わせ、高貴な印象を纏った美貌。

 それらが共通した二人の違いを上げるとするなら、兄と言われた六条出流は、内面までが気高いことを知らしめるようで、ひどく恐ろしく感じられた。

「…話し方とか、は…、先輩と従弟さんの方が似ている気がします…。何だか不思議ですね…」

「それは祖母さんの血が濃いか薄いかの違いだな」

「お祖母さん…?」

「え…っとな。祖母さんが北欧の…確かノルゥエーだったと思うんだけど…、まぁとにかくそっちの出身で、孫の俺達はクォーターだから、兄貴と裕幸と、裕幸の兄貴、この三人が特に祖母さんの血が濃くて、顔も似たってわけ。…今の説明で判ったか?」

 不安な面持ちで問うと、尋人が大きく頷くから、中流もホッとして続ける。

「それに少ししか受け継いでいなくても、俺の髪と目も、角度によっては色が変わるんだぞ」

「それは…、知っています」

「? 知ってる?」

「先輩…、学園で、有名人ですから…」

「俺が?」

「本居先輩の親友だって…」

 その名を出されて納得する。

 今は幸せボケをしていて、どうしようもない奴だが、学校全体でも五本の指に入ると言われる抜群の運動神経と多大な人気を誇っているのが本来の本居尚也だ。

 彼と一番親しい中流なら、同じく知られていても不思議はない。

「俺も有名か…。ってことは、尋人は二週間前から俺が誰か解っていて、何も話さなかったってことか?」

 ふと気がついて言った中流の前で、尋人は瞬時に顔を赤くし、俯いてしまった。

 その様子に、また自分が言葉の選択を誤ったのだと悟った中流は自己嫌悪に自分を殴りつけたくなった。

「あ…、あの、すみませんでした。…怪我の理由とか気が付かれていると思ったら……、知られるの恥ずかしくて…。だって虐められているなんて、情けないですし…」

「いや、いいんだ。ごめん、俺の言い方が悪い」

「え…」

「責めるつもりじゃないんだ。ただ、本当に心配だったからさ、あの後、どうしたとか。だから同じ学校だって判ってれば…って、これさっきも言ったよな。だからそうじゃなくてだな……」

「…」

「つまり…、えっとさ…だぁっ、もう何て言ったらいいのかな…っ」

 また尋人が無言になってしまっては困ると思い、慌てて言葉を取り繕いながら頭をかき回す中流に、尋人は初めて表情を和らげた。

(お? これはもしかするとイイ感じじゃないか)と胸中に呟く中流に、尋人は告げる。

「先輩…、ありがとうございます」

 その感謝の言葉も今日初めてのこと。

 まず最初に中流を襲ったのは純粋な驚き、それから、喜び。

 尋人がようやく心を開いてくれたことが嬉しくて、彼の気持ちは妙に浮かれた。

 それからしばらくして戻ってきた裕幸は、自分がいなかった間に尋人の表情がすっかり和らいでいるのを見て、やはり中流と同じように安堵した。

「もう少ししたら叔父さんが車で送ってくれるそうですよ」

 階下で撮影をしているのだろう父親からの伝言を聞いて、中流は、尋人にも家まで送るという約束を取り付ける。

 六条至流が仕事を終えて彼らを呼びに来るまでの十数分。

 三人はその場で穏やかな時間を過ごせたのだった。




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