時の旅人 七
――……が認められたら世界旅行だな。パスポート用意しておけよ………
夢の中、暖かな温もりに包まれて。
…優しい声が、聴こえた。
微笑っている。
誰が。
誰と。
僕が、微笑っていた………。
◇◆◇
「……」
その部屋で二度目の朝を迎えた尋人は、上半身を起こすと枕元の携帯電話に手を伸ばし、表示されている日付に軽く息を吐いた。
わずかに歪む目元。
沈む気持ちは、だが昨日までの不安を併せ持つものではなく、諦めなければならないという哀しみ。
今日こそ命の恩人だという六条中流に再会し、微かな片鱗でも構わないから、記憶を取り戻すためのきっかけを得ようと決意した。
そのために、友人である菊池までも巻き込んでこの街に帰ってきた。
…なのに結果は、六条中流には逢えないと言う受け入れ難い現実だった。
「…先輩」
携帯電話を握る手に力を込める尋人の、小さな、小さな呟きに、隣の布団で寝ていた菊池は胸を痛めた。
尋人がどんな想いでこの街に来ることを決めたのか、少なくとも他の誰より近くで見てきた彼もまた、こんな結末は到底納得がいかない。
だが、会いに行くという手紙が届いていなかったのなら。
六条中流本人の手に渡っていなかったなら、もう、…諦めるしかなかった。
「…倉橋」
「――」
まだ眠っているとばかり思っていた友人に声を掛けられて、尋人は驚きに肩を震わせたけれど、自分の呟きを聞かれたという動揺はなかった。
それだけの信頼と理解を、二人は互いに寄せ合っているのだから。
「…おはよう、菊池君」
「はよ」
「昨日もだけど、早起きなんだね」
今朝も時刻はまだ六時前。
尋人は、内容こそよく憶えていないけれど、不思議と切なさを残す夢に意識の手を引かれるようにして起こされただけで、そんなことがなければまだ深い眠りの中にいる時間だ。
そんな尋人の言に、菊池は苦笑交じりに口を切る。
「早起きっつーか、家でも犬の朝の散歩は俺が当番だしさ。それに、これから高校通うようになったらもっと早起きしなきゃならないじゃん。今から慣れとかないとさ」
「もっと早く…?」
思い掛けな返答に、尋人は小首を傾げた。
「でも…菊池君は、春からはお祖父さん達と一緒にこの家で暮らすんでしょう? それなら、そんな早起きしなくても…」
春からはこの家に。
尋人は両親の許可がないから寮に入ることは出来ず、地元からの通学を余儀なくされているが、菊池には高校の傍に、ちゃんとした家族の家があるのだ。
言外に、どうしてそれを考えないのかと訴える尋人に、菊池は呆れたような――それでいて頼りがいのある“兄”のような顔をして見せた。
「バッカ。俺がここに住むようになったら、倉橋、一人であんな田舎から通う事になるじゃんか」
「――僕?」
「高校を卒業する秘訣その1、長い通学時間も楽しく過ごすこと、ってな」
ニカッ、と朗らかに笑う菊池。
「――」
思ってもみなかった言葉に。
…優しさに。
尋人はどう返せばいいのか混乱して。
戸惑って。
けれど胸に広がるのは確かな喜び。
「菊池君…せっかく楽に通える距離に住める家があるのに…僕なんかのために…」
「楽に通えるより、倉橋とガッコ通う方が面白そうじゃん」
「そんな…」
「いいんだって、これは俺が決めることだろ。それとも倉橋が俺のために一緒にこの家に住むか?」
「えっ…?」
尋人は、本気か冗談かも区別がつかないまま目を白黒させ、その様子に菊池はやはり楽しげに笑った。
「ま、この話は親とも話さなきゃだし、決定はまだ先だけどな。あくまで俺の希望ってこと」
「…」
尋人が高校に設けられている寮に入れないなら、自分も地元から通うことにする。
そんな大変な内容を、彼らしい口調でさらっと言ってしまう菊池が、眩しく見える。
「カッコイイな…」
「は?」
「菊池君。すごくカッコイイ」
「――」
繰り返し言われて。
その、あまりの内容に、カッコイイと言われたばかりの顔が情けなく茹で上がる。
「おまえっ、だからそういうことをマジな顔で言うなっての!」
「でも、本当にそう思う」
「おい〜〜〜っ」
いいかげんにしてくれと枕に顔を突っ伏した菊池に、尋人はくすくすと笑いながら、やはり素直な言葉を紡ぎだす。
「…ありがとう」
「…」
「僕のために、…いろいろ、本当にありがとう」
「……」
素直な言葉。
真っ直ぐな眼差し。
それが、倉橋尋人の強さで、眩しさ。
ある者は惹かれ、ある者は憧れ。
またある者を嫉妬させて、狂わせた。
「……倉橋、もっと自分てモンを自覚した方がいいんじゃねーの?」
「?」
ポツリと口をついて出た言葉に、当人は首を傾げる。
その仕草が、また何とも…。
「まぁなぁ、寝顔なんて自分で見れるもんじゃねーし」
「寝顔…? 僕の寝顔がどうかした?」
「すっげぇ可愛いけど」
「かわ……、―――!」
直後、先刻の菊池よりも真っ赤になった尋人の様子に、先ほどは笑われる側だった彼が意地悪な笑みを浮かべた。
「解ったか? そういうこと言われたら恥ずかしいだろ!」
「違う! カッコイイとかわ…っ、か、可愛いじゃ全然違う!」
「同じ褒め言葉じゃんか」
「男に対して“可愛い”は褒め言葉じゃないよ!」
――…可愛いだけじゃないぞ……
「!」
不意に、耳元を掠めるように聴こえた囁き声。
「? 倉橋?」
思わず動きを止めた尋人に掛かる呼び声。
目の前にいるのは菊池。
中学の同級生で、これから同じ高校に通う事になる友人。
ならば、この声は。
――…尋人は可愛いだけじゃないぞ。“芯の強い素直な人”に訂正しろ……
誰かが。
……誰かが、言ってくれた。
「…倉橋…?」
再び呼びかけられて。
まるで、それがきっかけだったように視界が揺らぐ。
どことなくぼやけて見えるのは、瞳が濡れたせいだろうか。
「……」
そんな尋人の様子をどう感じ取ったのか、菊池は静かになってしまった尋人の頭に軽く手を乗せた。
「…今日、せっかくだし映画でも観に行くか」
「…映画?」
「予定が変更になっちまって、今日なにするか決めてなかっただろ? 地元じゃ映画なんかそうそう行けないしさ、それにアレが上映中じゃん」
「アレって?」
「あれ…んん〜タイトルが出てこないんだけどさ、人気シリーズの最新作で…」
連想ゲームのように次々と関連する事柄を並べていく菊池に、尋人も知っている映画のタイトルを次々に言っていく。
しばらくして映画名を思い出した二人は、これだけ苦労したんだから…と、それを観に出掛けることにした。
名前を思い出すのにしばらくの時間が必要なほど、実際には関心のなかった映画だが、それでほんの数時間でも現実から離れられるならと思う。
今日一日、少しでも間があれば意識が“彼”に流れていくだろうことを、尋人も菊池も自覚していたからだ。
わずかな時間でも構わない。
少しでも“六条中流”を忘れていたかった。