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時の旅人 六

 アフリカ大陸最南端に位置し、日本国土の約2.3倍の土地を擁する南アフリカ共和国は、

 第二次世界大戦後に独立し、十数年前に人種隔離政策アパルトヘイトを完全に廃止した事により、ようやく目覚めたばかりの若き国家だ。

 近年では観光客も多く、グレーター・セント・ルシア湿地公園や、スタークフォンテン、スワークランズなど、広く知られた世界遺産や観光地も少なくない。

 温暖な気候は暑過ぎず、寒過ぎず。

 春には花が咲き乱れ、秋には紅葉。

 そして何よりも、何処よりも広大で悠然とした大自然と、そこに息づく無数の動植物。

 人々を魅了して止まない美しさで世界最高峰を誇る一方、この国には支配と差別の哀しい歴史が綴られてきた。

 六条中流がアフリカへの渡航を決めたのは、ただの思い付きや興味本位からではない。

 ずっと昔から。

 …それこそ、父親の写真を目にし、画の中に風を感じ、自らも写真家を志すと決めるよりも早くから、アフリカは少年の憧れの土地であったのだ。

 日本との時差、およそ七時間のこの国に、こちらの時間にして昨日の夜八時頃に入国した六条中流は、いま、ある写真家と合流していた。

 佐伯幸也さえきゆきや――アフリカの大自然に魅せられ、この土地を何十年も撮り続けている彼の写真は、日本だけで十五万部を売り上げた実績を持つ。

 この佐伯幸也氏が、中流の実父にして名誉ある賞を数多く受賞した世界に名だたる天才写真家・六条至流と旧知の仲だったことから、アフリカに行く息子の面倒を見て欲しいという具合に、大人達の間で話が進んでいたからだ。

 当初はこれを快く思わなかった中流だが、現実の問題として、アフリカという国の治安が良いとは決して言えない。

 街中を歩いていて強盗に遭うなど珍しいことではなく、夜間に限らず白昼堂々、街中ですら起こる犯罪に、しかし周囲の人々が手を貸してくれることはほとんどない。

 そのうえ“日本人はお金持ち”という誤った認識が根強いのに加え、ヨハネスブルクの犯罪率は別格だ。

 アフリカ初心者の日本人が単独で乗り込めば狙われるのは必至。

 そこにカメラやバックパックを担いでいるのでは「襲ってください」と言っているようなものなのだ。

 そういった事情を、いくら資料を読んで頭に入れてみても、実際に現場に立てば“知識”は何の役にも立たない。

 そんな国に息子が行きたがるのを聞いて、心配しない親はいない。

 単身、異郷の地で撮り続けている写真家から学ぶこともある、それは必ず将来のためになる――親であり“師”でもある六条至流にそこまで言われては、中流に拒否することなど出来なかった。



 そうして昨夜。

 突然の予定変更にも拘らず、無理を聞き入れ、ヨハネスブルク国際空港まで迎えに来てくれた佐伯幸也氏は、だが異国に降り立ったばかりの中流に対し、歓迎の“か”の字も表しはしなかった。

 その上、

「俺はガキのお守りはゴメンだ」

 とりあえず助手席に座らされ、滞在先まで向かう途中の車内。

 佐伯氏は中流の顔を一度も見ることなく言い放った。

「六条…、おまえの親父が面倒を見てくれと頭を下げたから迎えに来てやったまでだ。天才の父親に感謝することだな」

 そう言われて、返す言葉がなかった。

 結局は親の七光り。

 ここまで来る渡航費も、カメラも、受賞した写真も。

 技術を教わる以外は全て自分自身で積み上げてきたものでも、他人から見れば「天才・六条至流の息子」に過ぎない。

 それほどまでに、父親はこの世界で偉大な存在なのだ。

「ご面倒を、お掛けします」

「全くだ」

 即座に返された声音は冷淡で、わずかな感情も読み取れない。

 それきり何も言えない中流に、佐伯氏は軽く息を吐き、ヨハネスブルク市内のバックパッカーに車を停めると、ここに一泊することを告げた。

「悪いと思うなら手間を掛けさせないようにしろ。明日は四時に出発する。行き先はクルーガー国立公園だ」

「え…」

 出発時刻は間違いなく朝方の四時で、日本から着いたばかりの、まだ時差すら自覚出来ていない体をどれだけ休ませられるのか疑問だが、そんなことよりも、明日の行き先として告げられた場所に、中流の表情は無意識に輝いた。

 クルーガー国立公園。

 国の北東部・ムブマランガ州と、リンポポ・プロビンス州にまたがる一帯に広がる南アフリカ最大の観光地。

 総面積約二万キロ平方メートル。

 生息する動植物は世界最大。

 この中、車で走れるよう設けられた舗装道路は二千キロメートルに及び、主なポイントを通過するには最低でも三日は掛かる広さだ。

 もちろん観光に行くわけではないが、安全を重視したうえでアフリカという国の自然に触れられるよう配慮してくれたのかもしれないと思うと、途端に心が軽くなった。

「一秒でも俺を待たせたら置いていく。分かったか」

「はい!」

 今までの硬い表情はどこへやら、元気良く返事した中流に、佐伯氏は怪訝な顔をしてみせたが、それきり何も言わずに自分の部屋へと姿を消した。

 中流のチェックインすら気にも留めずに。



 そのときのことを思い出して、中流は我知らず苦笑する。

 この国では、英語が出来ればどこででも通じると知っていたから、別段焦りもしなかったが、佐伯氏も「ここまで来るからには英語くらい喋れて当たり前」と思っていたのだろう。

 数時間の仮眠を取り、四時出発ということだったため、三時半にはロビーに出た。

 間違っても佐伯氏を待たすようなことはないように。

 だが、にも拘らずこの三時半というのがギリギリの時刻で、この五分後には当人がロビーに現れ、出発は三時四十分に繰り上がってしまった。

 どうにも食えない相手だと、中流はこのときに確信したのだった。



 そうして、今。

 中流の目の前には広大なサバンナが広がっている。

 ヨハネスブルクから車でおよそ六時間。

 クルーガー国立公園の南に位置するメルレーン・ゲートから入り、園内ほぼ中央に位置するレタバまで向かった二人は、そのキャンプ場にテントを張り、これから数日間、寝泊りする場所を確保した。

 その後、

「俺は自分の予定を変えない。おまえは自分で好きにしろ」と言い残した佐伯氏は、車で出掛けてしまった。

 残された中流は、多少は苛立つものもあったが、それならそれでと、レタバ・キャンプを見て回った。

 園内の地図を手に、キャンプを離れ、サバンナを一人歩く。

 その途中に、何度も遭遇した野生の動物達。日本では定められた場所にしか存在しない動物達が、まるで犬猫のように木陰で昼寝し、草を食み、大地にじゃれつき、生きている。


 ―――………


 世界が、違った。

 世界は無かった。



 ここが、地球だ。



「…っ……」

 遙か彼方、地平線。

 緩やかな弧を描く、それは地球の輪郭。

 幼い頃には写真の中の画でしかなかった場所に、いま、こうして立っている。

 風を感じ、熱に触れ、草木の声に耳を澄ませて命の音を聴く。

 人類発祥の地と詠われ、世界最大の大自然と動植物を誇る国は、支配と差別の哀しい歴史を抱えながら“命”を輝かせている。

 この美しい国に。

 強い大地に。

「…おまえを連れてきたかったな……」

 ぽつりと、それは無意識の想い。

 中流は自嘲するように口元を歪め、感情を払うように頭を振ると、腰を落とし、写真機を構えた。

 この国で撮る最初の一枚。

 その一瞬を得るためなら、何時間でも待ち続ける。



 そんな中流を、無言で見守る男。

 ――佐伯幸也。

 いつ戻ってきたのか、中流のすぐ傍まで近づいていた彼は、だが声を掛けることはせずに、ただ見守っていた。

 中流が、彼に気付くこともない。

 ファインダー越しに映る世界。

 それだけが、今の彼の全てだった。





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