時の旅人 四
彼に会えない。
先輩は、もういない…。
六条中流には逢えないという結末が、尋人の心に重く圧し掛かった。
そういう結果を、考えていなかったわけではない。
一週間以上前に出した手紙に対して、六条中流からの返答は何もなく、もしかしたら避けられているのかもしれないと不安になることもあった。
だから、故意的に無視されていたわけではないと判っただけ「良かった」と思って良いのかもしれない。
…だが。
「倉橋、大丈夫か?」
「……うん」
隣を歩く友人に気遣われて、すぐに頷きはするものの、その胸中が「大丈夫」でないのは見れば判る。
「……倉橋―。…ほら、ショックだったとは思うけど、…嫌われて無視されてるわけじゃなかったんだから、まだ良かったじゃん」
「…………ん」
菊池も同じことを言う。
そうなんだ。
自分が来ることが伝わっていなかったなら、会えないのは仕方がない。
偶然が重なって知り合った、というだけでしかない自分が、どんなに逢いたがったところで、連絡も届かずに待っていてもらえるはずがないのだ。
「……」
「…倉橋」
仕方がないのだと思っても。
…そう割り切ろうと思えば思うほど、どうしようもなく胸が締め付けられるけれど、泣きそうな顔を菊池に見られて、尋人は潤む視界を拳で振り払った。
なんの関係もないのに、ここまで一緒に来てくれた友人に、情けない姿は見せられない。
「大丈夫。先輩に会う機会は、これからもあると思うし…高校に通うようになったら、この街は毎日来る事になるんだから。…今回は駄目だったけど、次は逢えるんだって、信じることにする」
「あぁ」
強がりだと判っても、そう言って笑む尋人に、菊池も笑い返して頷く。
そうだ、逢う機会は今回だけじゃない。
尋人が逢うことを望んでいる限りは、いつだってそれを叶えることが出来る。
「…よし、じゃあ予定より少し早いけど、教科書買いに街へ出るか?」
「うん」
本当は、榊学園で元同級生達と話が出来たらと考えていたのに、六条中流と会えないのなら、それらは全て意味を持たないように思えた。
一度も振り返ることなく学園を後にし、徒歩で駅へと向かった。
その途中に通る、駅最寄の駐車場。
「ぁ、…そぅ…言えば、昨日、ここで…あの、キスしてた男の人…」
尋人が言葉を濁しながら切り出すと、菊池も眉間に皺を寄せて肯定する。
「別に同性愛に偏見なんか持っちゃいないけどさ、あれがまさか教師だったとはな…。ま、相手の奴にまで学校で会わずに済んで良かったけどさ」
「うん…、でも、綺麗な人だったよね」
「――は?」
菊池が怪訝な表情で聞き返すと、尋人は動揺しつつも繰り返す。
「学校で会った先生…の、こと。なんか…清潔な印象って言うのかな…」
「もしかしたら教え子に手ぇ出してるかもしれない変態教師だぞ?」
「ぇ…と、うん、僕の勘違いかもしれないけど、……何だか、貴士医師に似ている気がするから」
「タカシ…って、あぁ、昨日の医者?」
この街に着いてすぐに訪れた大樹総合病院。
そこで尋人の担当医だったと紹介された辻貴士の、理知的で懐の大きそうな外観を思い出しながら、菊池はますます顔を歪ませた。
「あの医者とあの教師じゃ似ても似つかない気がするぞ」
「う〜ん…」
菊池が心底疑わしそうに返してくるから、もともと自信があって言っていたわけじゃない尋人もつい情けない顔になる。
「そっかな…僕の気のせいだね」
「そうだそうだ。そんなこと言ったら貴士医師に失礼だぞ」
「うん…」
当人達が聞いていれば、一体どんな反応を見せるか興味深い会話をしながら、少年二人は駐車場を過ぎて駅へ向かい、教科書販売の指定店がある街まで電車で向かった。
快速に乗っておよそ十五分。
平日の昼前ということもあり、そんなに混み合っていない車内。
そこから街中へと降り立った二人は、一瞬、同時に足を止めてしまった。
「……すげぇ人だな、おい」
菊池が隣で呟くことに、尋人もコクコクと頷く。
引っ越す以前なら何度かこの街を訪れることもあったはずだが、三年前までの記憶しか持たない体は、無意識にすくんでしまう。
週末の光景を知る者ならば、今日など実に歩きやすい街並みだったが、田舎から出てきたばかりの少年達にとっては信じ難い人の数だ。
「なんか僕…人に酔いそう」
「…だな」
二人は顔を見合わせ、そんな自分達に苦笑すると、まるで冒険を始めるような心持で足を動かす。
合格発表の後、自宅に郵送されてきた入学案内書、そこに同封されていた指定店の地図を頼りに目的地を探し始めた。
なかなか見つからないまま昼を過ぎ、腹が空いたからとファーストフード店に入り、セットメニューでエネルギー補給。
店内でもう一度地図を確認し、再び出発。
地元では考えられない店の多さに、
「教科書を買ったら少し見て回ろう」と話していた二人だが、実際に店を発見し、教科書を購入してしまうと、その重さに愕然。
余計な寄り道は断念せざるを得なかった。
そうして駅まで戻る途中。
中学を卒業したばかりという幼い少年達が、春から使う何十冊もの教科書を重たそうに抱えている姿が人目を引いたのだろうか。
「こんにちは〜」と妙に明るい声を掛けられた尋人が顔を向けると、マイクを持った若い女性が二人の傍に近付いてくる。
「ぇ…」
「あ」
どこかで見覚えのある女性。
その背後には何の動物なのか判断しかねるデザインの着ぐるみ。
その正体には、尋人よりも菊池の方が先に気付いた。
「倉橋、テレビテレビ」
「え?」
そう言われても、いまいち呑み込めずにいた尋人。
マイクを持つ女性はくすくすと笑いながら、
「こんにちは“2時☆ステ”です」と、さすがの尋人も聞き覚えのある番組名を口にする。
“2時☆ステ”と言えば昼以降の駅周辺の状況を中心に、街の人気スポットや周辺の名店紹介、または色々なお得情報を流すという、いわゆる地方番組だ。
北海道全土で放送されるため、もちろん尋人達の地元でも放送されているわけで。
もしかしたら家族や友人が目にしているかもしれないと気付き、途端に背筋が伸びた。
「ぁ、あ、こんにちは」
「こんにちは」
女性は、もちろんテレビに出ているせいもあるだろうが、とても感じ良く、尋人の挨拶に何度目かになる「こんにちは」を返してくれた。
「随分重たい荷物を持っているようだけど、もしかして春からの教科書が入っているのかな?」
「は、はい」
戸惑いながらも頷くと、女性はニッコリと笑い、少し時間いいかなと訊ねてきた。
あと数分で番組が切り替わり、この周辺の状況を放送するため、その間に話を聞かせて欲しいと言うのだ。
尋人は菊池と顔を見合わせ、困った表情を浮かべるが、女性アナウンサーの話術は巧みで、嫌味がなく、尋人達から自然な返答を引き出させた。
ほんの数分の間に、春から通う高校のこと、どこから来たのか、地元で待っている家族へのメッセージ……様々な内容を語ってしまった。
「ありがとう」と女性に礼を言われた後で、何を喋ったのかほとんど思い出せなかった二人。
ようやく解放されて家へと帰る途中、緊張と同じくらいの興奮で、二人は今までになく喋り捲った。
それが、後にどんな影響を及ぼすかなど、考えもしないまま。
◇◆◇
「…今の…」
ある家屋の一室。
アパートの一室。
または、ある店の中。
特に意味もなく流れていたテレビ番組に知人が映ったのを知り、彼らは呆然と呟いた。
「今のガキ……っ」
男は歯軋りし、今見た少年の、あの日の出来事を思い出した。
ようやく見つけた。
自分をこんな闇に追い落とした奴。
「テメェのせいで、あれからオレ達がどんな目に遭ったか……っ!」
時を経て、少しは薄れたと思い込んでいた憎悪が、いま再び膨らむ。
“復讐”――その言葉が脳裏に燃え上がる。
やっと見つけた報復相手に、男は力強く拳を握り締めた。
◇◆◇
「…あいつら……」
その少年の無意識の呟きを、その場の誰一人として聞きはしない。
紫煙の燻る暗い店内。
…ただ、少年の立ち尽くす姿だけが異様だった。
◇◆◇
「…尋人君…いつ、この街に戻って…?」
おそらく独り言だろう呟きに、隣で聞いていた彼は何の返答もしなかった。
ただ、アフリカへの出発を早めた六条中流の本心が見えた気がした。
「……中流さん……っ」
胸が痛い。
あの夜、流れ込んできた残酷な映像が蘇える。
「…」
彼は、隣で泣きそうな顔をするその人の手を握る。
静かに。
…静かに、包み込んだ。