時の旅人 三
視線を感じて振り向くと、教師らしい男性と、まだ学生らしさの残る私服の青年が、怪訝な顔つきでこちらを見ていた。
「き、菊池君…」
「ん?」
どうしたのかと目で聞き、尋人の視線の先を追った菊池は、そこでようやく二つの視線――彬と野口に気が付いた。
「…どうしよう、何だか…睨まれてる…」
「部外者が校内にいるから不審がられてるンだろ。気にするなって、事情を話せば理解してくれるさ」
「…」
菊池はそう言うけれど、彼らの視線には穏やかでないものが感じられる。
教師と卒業生、だろうか。
以前は自分もここに通っていた。
もしかしたら面識があるのかもしれないし…、それならば、彼らにあのような目で見られる理由もあるのだろうか…?
「――ぁ…っ」
どこかで会ったのかもしれないと、再度彼らの顔を見やった尋人はハッとする。
教師の人目を引く容貌。
その、視線。
「菊池君っ、あの先生! 昨日の駅の駐車場の…っ」
「は?」
尋人の動揺振りを、最初は不審そうに見返した菊池だったが、昨日の駅の駐車場と言われてみれば、ようやく気付いた。
昨日、この街に着くなり駅近くの駐車場で目撃してしまった男同士のキスシーン。
まさかその片割れが、榊学園の教師だったとは……。
(世も末…)
内心で息を吐きながらも、菊池は彼らに向かって一礼した。
それは、彼らから声を掛けてくるきっかけを与えるため。
すると攻が奏したのか、教師の方ではなく、私服姿の卒業生が足早に歩み寄ってきた。
「野口?」
教師が彼を“野口”と呼ぶ。
尋人が、無意識に後退りした。
「在校生じゃない部外者が、こんなところまで入り込んでいいと思ってるのか?」
突然、攻撃的な口調で言い放った野口に、彬は驚いたし、菊池はムッとして彼を睨み付けた。
ましてや、射抜くような視線に見据えられた尋人は逃げ出したい衝動に駆られる。
だが、矢継ぎ早やに放たれた次の言葉が、尋人をここに留まらせた。
「君は転校して、もう榊の生徒じゃなくなったんだろ?」
転校したから、榊の生徒じゃなくなった。
そう言えるのは、彼が尋人を知っているからに他ならない。
「ぁ…あの、貴方は…僕を知っているんですか……?」
意を決して訊ねた尋人に、野口は眉根を寄せ、
ただ一言。
「俺は中流のダチだからな」と言い返した。
六条中流の友人。
その言葉は、野口にしてみれば相手を威嚇する為に選んだ返答だった。
友人にあんな顔をさせ“別れ”を選ばせた尋人にとって、六条中流の名前は禁句に近いものだろうと思っていたからだ。
だが、そうして尋人の見せた表情に、野口の方が言葉を失う。
何故、別れを選ばせた尋人の方が、そんなにも哀しい顔をするのか。
「ヒロト君…?」
「貴方、は…六条先輩のお友達で…、僕を知っているんですか……? 本当に…?」
「ホントに…って……」
少年の真剣な眼差しが、自分が今まで思い込んでいた過去に疑問を生じさせる。
あんなにも幸せそうだった中流と尋人が“別れ”を選んだ。
「本当にいいのか」と問うた自分に「仕方ないんだ」と返した中流。
尋人には引っ越した先で本当の幸せを見つけて欲しいと告げ、泣く代わりに微笑うことを選んだ友人。
それ以上は何も語ろうとしないから、中流が尋人に振られたのだと、…中流がまだ尋人を好きでいるのは明らかだったから、彼が一方的に振られたのだと勝手に思い込んでいたけれど。
「……ヒロト君、一つ訊いていいか?」
「はい…」
「君、どうして榊から転校していったんだ?」
まさかと疑う野口に、尋人は明かす。
「事故で、二年前からの記憶を失くしてしまって……」
「――」
二年前から――中流と付き合う以前からの記憶を、全て失くして。
中流を忘れたから。
…忘れられたから、別れを選んで、あんな顔を……?
「…っ…、それで、今日は…中流に会いに来たのか? あいつのこと、…どうして知ったんだ?」
「六条先輩は、事故に遭った僕を助けて、病院まで搬送して下さったんです。…命の恩人というか……」
命の恩人。
そんな嘘の過去で、騙して。
「六条先輩には、明日、お逢いしようと思っているんです。…その前に、少しでも以前の自分のことを知っておこうと思って、学園に…」
「明日…?」
彼らの会話を黙って聞いていた彬は「明日」という言葉に首を傾げたが、野口はそれで合点がいったようだった。
「明日、会いたいって…、それ、中流に伝えてあるのか?」
「はい、…一週間くらい前に手紙で…」
「――」
一週間くらい前。
それが、中流がアフリカへの出発を早めると決めた頃に一致すること。
野口も、彬も、確信する。
――…っ……あのバカ……っ!
野口は胸中に叫んだ。
それが出発を早めた理由か。
日本から逃げ出した理由か。
言い様のない怒りが募る。
どうして逃げなければならないのか。
記憶を失くして、忘れられたからなのか。
詳しいことも、正しいことも。
…中流の考えていることも、何も判らないけれど。
「…っ……、残念だけど、君、中流には会えないよ」
「ぇ…っ」
「何でだよ!」
野口の言葉に、今度は菊池が勢い良く食って掛かった。
「会えないって何だよ! 六条中流の方に会う気がなくたって俺達は…っ」
「会う気がないとかじゃなくて、…あいつ、一ヶ月前からアフリカに行ったままなんだ」
「――!」
「…」
一ヶ月前からアフリカに。
野口のついた嘘に、…だが彬は敢えて何も言わなかった。
「だから、中流に君からの手紙は届いてないし、この街に戻ってきてることも知らないままだ」
「そんな…」
「タイミング悪かったな。帰ってくるのだって、いつになるか判んないしさ…」
「…」
目に見えて落ち込んでしまった尋人の様子に、野口は罪悪感を募らせた。
この嘘にどれだけの効果があるかは判らないが、せめて、中流が尋人から逃げたことだけは知らせずに帰したいと思った。
「君が会いに来てたこと、俺が責任持ってアイツに伝えておくよ」
「…」
「ごめんな…」
「ぇ、あ、いえ、貴方が悪いわけじゃ…っ」
唐突な謝罪の言葉に、尋人は慌てて顔を上げると、真っ直ぐに野口を見返した。
その視線に感じ取れる、最初とは異なる感情の色に、尋人の心には切なさが溢れそうだった。
会いたい人はいない。
一月前から日本を離れていたなら、自分の手紙が彼の目に触れることは無く、…返事が来ないのも、当然だ。
「……あの、お願いします。僕が…、お礼を言いたがってたって……お伝えしてください」
「ん」
「倉橋…いいのかよ、それで」
「だって…手紙も届いていなかったんじゃ仕方ないよ…。突然会いたがった僕が悪いんだし…」
「でも…」
違う――と、野口も彬も、思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
ここで“嘘”を壊すわけにはいかない。
尋人に申し訳ないと感じるのは本音でも、彼らは彼らなりに六条中流という人間を知っているから。
「……あの、最後に…一つ…、お聞きしてもいいですか?」
「…何かな」
「貴方は、六条先輩のお友達で……、どうして…僕のことを知っていたんですか……?」
事故に遭った尋人を、偶然助けて病院に搬送した六条中流。
そこに“偶然”以外の繋がりが存在しないなら、六条中流の友人だと言う野口が尋人を知っているのは、どういう理由か。
「……」
転校していった理由を知らなかった自分に、事故に遭った尋人を助けたと聞いたなんて嘘の上塗りは通じない。
野口は必死に頭を働かせ、もはや勢いで口を開いた。
「…二年前の体育祭だったかな…同じチームで戦ったことあっただろ」
「ぇ…僕と、先輩がですか?」
「そ。俺と君と、中流も」
「…」
「でさ、去年の暮れに中流の写真が受賞して…って、あいつが写真家目指してるのは知ってるか?」
「…」
コクンと頷くのを確認して、続ける。
「それからしばらく、ストーカーみたいなのがいてさ…とっくに榊の生徒じゃない君がこんなところにいるから、まさかと思ったんだ」
「それで…最初、あんなに怖い顔で…?」
「ごめんな、誤解して」
「倉橋がストーカーなんかしそうに見えるかよ」
「だから、悪かったって」
憮然と言い放つ菊池に、野口はもう一度謝り。
…最後に、深く頭を下げて校舎を出て行く尋人を見送った。
小さくなる二つの背中。
久方ぶりに見た、あの日の少年。
「あのバカ……っ」
今度こそ声にして中流を責める野口に、彬はようやく口を開く。
「……野口、どうしてあんな嘘を?」
「…」
「あの子…ヒロト君だったかな。……彼は、六条の何なんだ?」
「………」
逸らされない視線。
この男を、信用はしてもいいと思う。
だが、彼が尋人を知らなかったのは、中流が彼に…そして尚也にも、何も話していないからだろう。
ならば、それを自分が話していいはずはない。
「…俺からは何も話せない」
「野口」
「ただ言えるのは、…中流が救いようのないバカだってことだ……っ!」
心から悔しげに言い放つ野口の、その言葉は、
何よりも中流を気遣うように響いた……。