時の旅人 二
正確には一年半でも、尋人にとっては三年以上振りに見上げる町並み。
かつては毎日のように歩いた通学路。
四季折々の光景を彩る道脇の花々は、まだ芽吹く前の、冬の眠りから目覚めたばかりのあどけなさを残していた。
「…」
「なんか思い出す?」
隣を歩く菊池の問いかけに、しかし尋人は言葉が出なかった。
ずっと歩いてきたはずの道に、何故こうも戸惑うのか。
久々というだけが理由ではない。
見慣れない建物が増えたせいだけでもない。
この道を、自分は――どうやって歩いていただろう……?
「誰かと一緒だったのかも…」
「誰かって?」
「……誰、かな…」
「…」
尋人の視線が四方を彷徨う。
それはまるで、目の前の光景から、決して見えないものを見つけ出そうとするかのように。
「…僕の家は学校から十分くらいの、すごく近い場所にあって…。友達と帰ったりすることもあったけど、一人のことの方が多かったんだ。朝は誰より早く行ってたんだよ、人が多い時間にこの道を通るのは…なんか勿体無い気がして…」
「勿体無いって?」
「うん、…花が綺麗だし、…ほら、周りにあんまり建物が無いから、見晴らしが良くて、川沿いとか、公園の横とか…一人で歩くのが楽しかった…」
「ふぅん。…そういわれてみれば、倉橋ってあんまり大勢で帰ったりしなかったよな、俺達ともさ。たまに後ろ歩いてたりしたけど…なんつーか心ここに在らず、みたいな」
「見てたんだ?」
恥ずかしそうに。
それでいて、どこか気まずそうに頬を赤らめた尋人。
菊池は「悪ぃ悪い」と苦笑した。
「で? そんなふうに一人で歩いてたのに、誰かと一緒にいたような気がするって?」
「ぁ、うん…」
尋人は、そう問いかけてくる友人に、巧くかわされたのかもしれないと思いつつも、素直に頷く。
「一人で歩くのは、何だか淋しい気がする。菊池君と、こうやって話しながら歩いているのが…何か、懐かしいんだ」
「懐かしい、か」
学校までの道。
家までの帰り道。
いつも一人で歩き慣れていたこの道を、いつから、誰と、語りながら歩くようになったのだろう。
その相手の名を、二人は口にこそしなかったけれど、知っている。
きっとその人だと、確信に近い予感。
「…あれが、榊学園の校舎だよ」
二人の少年が向かう先に見えてきた巨大な複数の建物。
小学校、中学校、高校――最長で十二年間の一貫教育制度を設けている私立榊学園は、もう、彼らの目の前だった。
◇◆◇
尋人と菊池が学園校舎を目にしたのと同じ頃、榊学園校内では、時枝彬が、二年生の授業を終えて職員室へ戻るところだった。
今まで三年生の学級担任を務めていた彼は、教え子が卒業して以降、受け持っている二年生のクラスが無い時には代理教員として自習監督を任されたり、年度末に向けての書類整理に時間を費やしていた。
「いっそ連休を取って尚也と旅行にでも行ければいいんだけどね」とは、卒業式を目前にした恋人に、彬が半ば本音で漏らしたことだが、それはもちろん「仕事に責任持ちやがれ」と厳しく却下されてしまった。
本人としては、尚也と再会し、晴れて恋人同士となれたのだから、もう教師など辞めて構わないのだが、無職の男と付き合うつもりなどないと言われては仕方がない。
そのうえ、昨日あれだけ怒らせてしまったのだから、当分の間は彼の神経を逆撫でるような言動を慎もうと思う彬だ。
(…それにしても……)
内心で呟き、彬は口元を緩める。
昨日の、見知らぬ少年二人に自分達のキスシーンを見られてしまった一件。
あの時の尚也の、何と可愛かったことか。
呆然と立ち尽くす彼を車に乗せ、彬の自宅に向かった後、尚也は当然のごとく男を責めた。
だが、尚也の言う内容をまとめれば、関係がばれて自分達が引き離されることを何より怯えていた。
皆に知られて中傷されることよりも。
彬を失うことを怖がっていたのだ。
決して尚也の傍を離れはしない。
ずっと愛していると告げ、…まぁそういう展開に流れ込んだわけだが。
(まったく…いつの間にあんなに素直に…)
自分に抱かれて感じている恋人の姿を思い出し、男の表情はいっそう緩んだ。
それは陽の高い時間に、しかも清き学び舎で聖職者がする顔ではない。
ただ一つ幸いだったのは、それを生徒が見てしまうより早く、指摘する者が現れたことだろう。
「…センセ、その顔、アブなすぎ」
心底呆れた物言いで声を掛けてきたのは、本当なら既にこの場にはいないはずの少年。
数週間前に榊学園高等部を卒業した、彬の元教え子、野口健吾だった。
「――野口、どうしたんだ、学校にいるなんて」
彬が少なからず驚いて応えると、野口は苦笑して自分の顔を指差す。
「それはこっちの台詞。そういう顔するんだったら、学校にいるべきじゃないんじゃないの?」
遠慮のないことを言う彼に、彬も苦笑するしかない。
「…そんなに問題ある顔をしていたか?」
「かなり問題アリだね、夜の恋人の顔を思い出して興奮してたって感じ」
「………」
当たらずとも遠からず…、否、まさにその通りの指摘に、言葉が詰まってしまう。
「…おまえは腕のイイ探偵にでもなれそうだな」
「…センセ、今のはちょっと否定して欲しかったトコだけど」
本当にそんなことを考えていたのかと、野口は自分の読みの鋭さに感心するやら頭痛がするやらで眉を顰めたが、担任がこういう男だったから卒業まで楽しかったのも確かで、呆れこそすれ、軽蔑は出来なかった。
ただ、自分の読みが本当に正しければ、その相手が相手だったりするわけで。
「はぁ…まさかホントにねぇ…」
そう呟く野口の言い方に、なにか深い意味を感じ取った彬だったが、それを問おうとすると、
「俺は部活の後輩に届け物があって来たんだけどさ、それより…」と、逆に問われる形になってしまった。
「センセ、中流の見送りに行ったんだろ?」
「あぁ。あいつ、おまえが見送りに来られなかったことを残念がってたぞ」
「だったらイキナリ予定を早めるなっての。俺だって見送りに行きたかったのにさ、急すぎて仕事のシフト変えてもらうことも出来なかったんだぜ」
軽く息を吐いて言い放った野口は、しかし何かを探るような視線で彬を見た。
「…で、アイツ元気そうだった?」
「? あぁ、いつもと変わらない様子だったよ。あいつらしい別れ方だった」
「そっか…」
彬の返答に、野口はどこか安堵したように笑った。
「何か心配することでもあったのか?」
「いや。ただ、あんまり急な出発だったからさ…やっぱ気になってて。行っちまう前に会いたかったし」
「おまえに、よろしく伝えてくれって言ってたよ」
「そっか」
そうして野口は複雑そうな笑みを覗かせた。
中流を案じているのが明らかな表情。
元教え子のそんな姿を見ていて、彬は自分の恋人が言っていたことを思い出す。
中流は自分のことを話さない。
自分の幸せのことなど考えもしない。
いつだって他人のことばかり思い遣る六条中流は、……ならば誰になら本音を語れるのだろう。
「――野口、もしかして…」
もしかして。
おまえには、何か言い残したことがあるのか?
そう問い詰めようとした矢先、視界を横切った私服姿の少年達。
「?」
まだ春休みには早い。
卒業生にしては体つきが幼すぎる。
見慣れぬ二人連れを目に留めて、数秒後。
彼らが昨日の――自分と尚也のキスシーンを目撃した少年達だと、その外観を思い出した。
「…」
まさか尚也の不安が的中し、彬を榊学園の教師だと知り、何かを言いに来たのだろうか。
それとも探りに来たのか?
「――」
「…センセ?」
何かを言いかけながら、意識が自分から外れている事に気付いた野口が、彬の目線の先を追った。
そうしてそこに佇む少年二人の――少年の姿を目にして、野口の思考も停止した。
「ぇ……?」
彬とは違う理由で、野口は自分の目を疑った。
そんなわけがなかった。
何故、あの少年がここにいる?
この土地を離れ、去っていったはずだ。
友人にあんな顔をさせて、別れを告げたのではなかったか。
「ヒロト君……」
「――野口?」
教え子の呟きに、彬は再度驚き、呼びかけた。
そうして彼の、どこか怒りにさえ似た感情を露にした表情に絶句する。
「野口…」
教師と、卒業し私服で校内にいた元生徒が不自然に足を止め、一点を凝視したまま立ち尽くしている。
その姿は、逆に尋人と菊池の視線を引き寄せた。