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時の旅人 一

 恋とか、愛とか。

“恋愛”の二文字がこんなにも苦痛なものだとは思わなかった。

 好いた相手の気持ちを欲しいと願うのが恋なら、ただ一人望んだ相手が俺の隣に並ぶことは二度となく。

 特別な相手を大切にしたいという決意が愛なら、俺にはもう、誰かを愛する資格がない。


 ―――……誰よりも大切にしたかった。


 幸せに、ずっと笑っていて欲しかった。

 それが唯一の祈りだったのに、実際には傷つけ、苦しませることしか出来ず。


 俺が、おまえに“死”を選ばせた。


 ……尋人。

 いまは二度目の命を生きる君よ。

 もう後悔しかないけれど。

 もう、遅すぎるかもしれないけれど。

 今度こそ幸せになれるよう祈るから。

 おまえの幸せだけを祈るから。


 だから、尋人―――……。



 ◇◆◇



「…」

 目覚めたばかりの瞼に、襖の向こうから射し込む薄い光りが優しい。

 布団の温もりは、いつもと違い畳の匂いを含んでいる。

 いつもの、自分のベッドで目を覚ます時とは異なる空間に、尋人は我知らず緊張していたのだろう。

 ベッドよりも地面に近い分、意識が覚醒するまでの時間が短縮され、倉橋尋人はそっと身体を起こした。

「……」

 そうして枕元に置いてあった携帯電話に手を伸ばす。

 七時に合わせていたアラームより早く起きてしまった為、画面は通常の待ち受け表示のまま、寝る前の状態と変わりない。

 着信の履歴にすら変化はなかった。

「…先輩」

 ぽつりと呟き、尋人は小さく息を吐く。

 それは、この一週間、毎朝繰り返す動作。

 昨夜こそは連絡があっただろうかと期待し、確認して気持ちが沈む。

 また一日、連絡を待つだけの時間が過ぎるのかと思うと途端に切なくなってくる。

「……六条先輩」

 声にしてその名を呟くと、途端に不安の波が押し寄せ、胸の奥が苦しくなる。

 以前の自分が六条中流とどういう間柄だったかなど判らないが、明日、もし会えなかったらと思うと、怖い。

 会おうとしないなら、家に押し掛ければいいなんて乱暴なことを菊池は言っていたけれど…。

「ぁ…、そうだ菊池君……」

 隣に敷いてあった布団は、誰かが寝ていたとは思えない整頓された状態で放置され、いるはずの友人の姿はない。

「…」

 尋人はしばらく考えた後で立ち上がり、その部屋を出た。

 昨夜、案内されたとおりに廊下を進み、家人がいるだろう居間に向かう。

 その向こうから、香ばしい匂いがした。


 珈琲の匂い。

 窓から漏れ入る優しい陽射し。

 家人のいる居間を探して、長い廊下を歩いていた。―――それは、いつのことだったか。


「おはようございます」

 声にしながら居間に入っていくと、菊池の祖父母がすぐに顔を向け、

「おはよう」と声を掛けてくれる。

「慣れない部屋で、ゆっくり休めましたか?」

「はい」

 尋人が笑んで応えると、座椅子に座って新聞を広げていたり、台所に立って朝食の用意をしていた老夫婦も嬉しそうに微笑んだ。

「武人はゴンの散歩に出ているんですよ。もう少ししたら帰って来ますから、待っていて下さいね」

 この家で飼っている犬の散歩に出ているのだと教えてくれた彼女は、そうして朝食の用意を再開した。

「…」

 菊池がいないのに、自分一人、この部屋で彼の帰りを待つのは、少なからず居心地が悪くて、外で菊池の帰りを待ちたいと告げると、二人も尋人の気持ちを察したのか、この時期は花が咲くにはまだ早いけれど、主人の自慢の庭を見てやって頂戴と言ってくれた。

「ありがとうございます」

 そうして居間を出る尋人を、老夫婦は穏やかな表情で見送ってくれた。


 玄関を出、言われた庭に回って見ると、おそらく主人の趣味なのだろう、木製の棚に綺麗に並べられた、たくさんの盆栽。

 春になればそれらを見事に彩るだろう花の木々が庭の四方に植えられている。

 辛夷に躑躅、桜、皐月。

 あと二月もすれば、どんな美しい光景になることか。

「春になったら、また連れて来てもらおうかな…」

 花が咲く頃、もう一度この町に。

 それはきっと難しいことではない。

 尋人が四月から通う事になるのは、自宅から多少離れた町の私立高校で、ここ松浦市に近い場所だ。

 同じ高校に合格した菊池が、春からは祖父母と一緒に暮らすことも考えているくらいだから、帰りに立ち寄らせてもらえばいい。

 最も、地元まで帰るにはどちらも交通の便が不自由なため、泊りがけになってしまわなくもないのだけれど。


 ――何なら一緒に寮に入るか?


 以前、春からの通学に一時間以上掛かる話をしていたとき、菊池がそんなことを言い出した。

 地元から松浦市までバスで四十分、松浦市から電車に乗り換え高校最寄りの駅までが十五分。

 そこから更にバスで二十分行き、下車した後、五分ほど歩けばようやく学校に到着だ。

 そのような辺境の地にありながらも入学希望者が絶えないのは、欧米スタイルを取り入れた独特の学習システムと、それを反映したように、学業レベルの高さが近隣の高校と比べて優秀だという事実があるからだ。

 そのため、学校側はどんな遠方からの希望者も受け入れられるよう、校舎の傍に男子女子それぞれの学生寮を設け、希望者の入寮を歓迎しているのである。

 通学に片道一時間半となれば寮に入る理由は十二分にあるわけだが、尋人にはそう出来ない理由がある。

 おそらく記憶喪失も要因の一つ。

 母親が、それを許さないのだ。

「そんな遠くの高校を受験しなくても…」と渋る両親に、どうしてもこの高校に通いたいと望んだ尋人へ提示された条件が「自宅からの通学」だった。

 寮に入ることだけは、絶対に認められなかったのだ。

「……」

 尋人は朝早い空を見上げ、この街に行って来ると告げた時の両親の顔を思い出す。

 記憶を取り戻す為に…とは言わなかった。

 春から通う高校で使う教科書や制服、そういったものを揃えるのと同時に交通機関にも慣れるためと説明して、ようやく三日間の外泊許可を得た。

 もし、記憶を取り戻したいと告げたら、両親はどんな顔をしただろう。

 ただの一度も、尋人の失くした記憶を惜しむようなことを口にしない二人は、…頑張って思い出しなさいとは、決して言ってくれないだろう。

「…記憶を取り戻せたら、その理由も全部判るのかな…」

 記憶を失くした原因が解かったら、知りたいと思うこと、全てを得られるのか。

「…」

 ポケットに入れた携帯電話は、まったく変化を見せない。

 あの人は、明日になったら会ってくれるのだろうか……?

「ぁ、倉橋?」

「!」

 不安に沈みかけていた尋人を、良いタイミングで愛犬の散歩から戻ってきた菊池が救い上げる。

「はよ。まだゆっくり休んでいても良かったんだぜ?」

「うん…。なんか、目が覚めちゃったから……おはよ」

 にこっ、と無理に笑顔を作っているのが明らかな尋人の様子を見て取り、菊池は表情を歪ませた。

 それは、相手に気付かせることのない些細な変化。

 胸に生じるわずかな痛み。

「…、まぁたオマエ、後ろ向きなコト考えて落ち込んでたんだろ」

 故意的にわざとらしい声を上げて、尋人の髪を掻き乱す。

「毎回言ってンじゃん、会おうとしないなら家まで押し掛ければいいんだって! おまえと六条中流は絶対に会えるよ」

 絶対に会わせてやる、この自分が。

 その瞳から、二度と哀しい涙が流れることのないように。

「だから悩むなよ、な?」

「……ん」

 力強く言い切ると、尋人もはっきりと頷く。

 自分の為にここまで真剣になってくれる菊池の気持ちを裏切ることの無いよう、きっと大丈夫だと自分自身に言い聞かせながら。

「じゃ、今日はどうする? 六条中流に会う前に二年間の自分の情報を集めるってのは聞いたけど、具体的にどこらへん回るか決めてあるのか?」

 愛犬の紐を、庭の所定の位置に結び直しながら問われて、尋人は「学校に行きたいんだ」と告げた。

「もう卒業式は終わっているから先輩はいないと思うけど、元の同級生はまだ学校にいるはずだから」

「あぁ、なるほど」

 二人は中学校の卒業式を終えて既に春休みへと入っているが、尋人の元同級生達は、まだ三学期の途中。

 高校一年生の三学期なのだ。

 彼の失くした二年間を知っているだろう友人達は、学校に行けば必ず会える。

「転校前に挨拶も出来なかったから、会ったら驚かれるかもしれないけど…、でも、自分を知るためには彼らに会うのが一番だと思うんだ」

「だな」

 菊池も了解し、その日の最初の行き先は決まった。

 私立榊学園。

 それは全ての始まりの場所―――。




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