時の旅人 序 六条中流の章
「ごめんな…」
真夜中の上空、星を真横に見つめながら六条中流は呟いた。
既に日本を出て数時間、機体は香港を経由し、南アフリカのヨハネスブルクへと向かっていた。
足元には、ただ一つ機内に持ち込んだ鞄。
大事なカメラやパスポートなどの貴重品に混ざって、しわくちゃの手紙が入っていた。
中流はその手紙を取り出し、見下ろす。
あの少年からの手紙は定期的に届いていたけれど、あの日、この手紙を読んだ瞬間、血が逆流するような錯覚に陥った。
……会いに来る。
尋人が、俺に会いに来る…………!
気付いた時には手紙を握り潰してしまっていた。
封筒は足元に落ち、全身が汗を吹く。
怖いと思った。
駄目だ、と心臓が叫んだ。
自分は、二度と尋人に会ってはいけないのだと。
「……情けないよな…、けど、……」
許してくれとは言えない。
謝罪の言葉も、軽すぎて言えない。
ただ、会えば、会わない以上に傷つけることだけは判っているから。
――このバカ! ホント信じらンねぇ! なんでこんなイキナリの出発になるんだ!? アフリカ行くって話は聞いてたけど、それは四月に入ってからだって言ってたじゃねぇか!
機内の狭い空間。
背もたれに身体を預けて目を閉じると、空港に見送りに来た親友の声が蘇えった。
尚也が怒るのも当たり前だ。
ろくな説明もせずに予定を早めた。
だが本当のことを話せば、彼の怒りは今と比べ物にならなかったはず。
何故なら自分は、逃げ出すために日本を離れたのだから。
――だからっ、なんで予定通りじゃなくなったのかって聞いてンだろぉが! 春休み中の俺との約束はどうなる!
悪いことをしたと思う。
だが、理解って欲しいとも言えないから、はぐらかして別れたのだ。
どんな言葉で繕っても、自分にはあの場所から逃げることしか出来なかった。
絶対に会えない場所に居れば会わずに済む。
尋人の手紙を無視するだけでは、…自分の衝動を抑えられる自信がない。
傍に居れば、きっと抱き締めずにいられないから。
「…っ……」
――おまえイキナリ予定変更なんかして、俺に見送りさせない気か?
昨夜、そんな電話を寄越してきたのは、尚也と同じく同級生だった野口健吾。
――そんな緊急事態みたいにさ。ここにいたらマズイ事でも起きそうだな…
そう言って笑っていた。
苦笑いの表情が容易に浮かぶ彼に、実はそうなのだと、白状してしまえば楽になれたかもしれない。
一番付き合いの長い尚也も知らない自分の過去を、全てではなくとも、尋人が中流の恋人であったという一番重要な部分を、クラスでは野口だけが知っていた。
見ていて気付いたのだと言い、二人の仲を応援してくれていた彼は、尋人との別れを決意した時も、事情は知らずとも「本当にいいのか? 大丈夫か?」と気遣ってくれた。
話せば「逃げる」以外の方法を見つけてくれたかもしれない。
だが、なぜ尋人から逃げなきゃならないのかと聞かれたら答えられる言葉がない。
尋人の亡くした記憶の中には、とてつもない恐怖が潜んでいるなどと、どうして話すことが出来るだろう。
…だから、このまま会わずに帰ってくれ…………
「…尋人…」
ひろと。
「……好きだ」
好きだよ、…今だってこんなに。
「尋人……」
ひろと。
「好きだから……っ」
好きなんだ、あの時と変わらず。
いや、あの時よりも。
時間が経つにつれて。
…会えない時間が積み重なっていくように、この想いは深くなるばかりで。
また、その手を取ってしまったら。
触れてしまったら。
今度こそ俺はおまえを殺してしまう――……!
あの日、一年半前の冬の日。
悪いのは中流じゃないと誰もが言った。
だが尋人が自ら命を絶とうとしたのは中流を巻き込まない為にだ。
中流の存在が尋人に“死”を選ばせたのだ。
“想い”なら誰にも負けないと思っていたのに“想い”だけでは何も守れないのだと思い知らされた。
尋人の幸せを望むなら、自分の愛し方では叶えられない。
どんなに好きでも。
…好きだからこそ、決してあの日に戻ってはならないんだ。
「……こんな想いをするのは、俺だけでいい…」
辛いのも、苦しいのも、おまえの分まで俺が引き受けるから。
「…だからおまえは、そのままでいい……」
残酷な仕打ちを思い出すこともなく、おまえを苦しめることしか出来ない男のことなど忘れたままで。
おまえはおまえの未来で、幸せになってくれ。
「頼む、尋人………っ」
何と罵られても構わない。
再び、尋人に闇を見せるくらいなら、俺はどうなってもいい。
だから尋人。
どうか。
どうかおまえだけは幸せに――………。