時の旅人 序 辻貴士の章
何かしらの予感があったわけではなかった。
ただ、病院から出る気になれなかっただけだ。
夜勤明けの疲れた体は休息を欲していたけれど、一人の部屋に帰るよりは医師達の休憩室で横になりながら、仲間の他愛ない会話に耳を貸していたかった。
だから、同僚から伝えられた思い掛けない訪問者の名前に、咄嗟の反応が出来なかった。
◇◆◇
「貴士、お客さん」
ソファに横になっていた彼の頭を、分厚いファイルの背で遠慮なく小突きながら言う同僚を、しかめっ面で仰ぎ見た。
「…客?」
「そ。随分と可愛い客だぞ」
「可愛いって…女の子か?」
「男の子二人。一人は見覚えがあるから、おまえの昔の患者じゃないか?」
「昔の患者ねぇ…」
「名前、クラハシヒロトだってよ」
「―――」
クラハシヒロト――倉橋尋人。
その名前に、あの日…、一年半前のあの夜の出来事が一瞬にして蘇える。
院長に至急と呼び出され向かった手術室。
運び込まれてきた少年は傷だらけの身体を血に染めて、呼吸も心音も止まりかけていた。
自ら高所より飛び降りたと聞かされ、こんな幼い少年が自殺するなど、どういう理由かと驚愕したが、その理由は目の前に横たわる体を見れば明らかだった。
…どれほど辛かっただろう。
どんなに泣き叫んだだろう。
そしてどんなに“彼”のことを想っていたのか。
あの日“二人”の涙を見て。
死を選んだ少年と、別れを決意した少年の、二つの涙。
貴士は胸の痛みとともに確信した。
きっと、一生この少年達のことを忘れないと。
「その子、どこ?」
「受付の前で待ってるってよ」
「ありがとう」
早口に告げ、貴士は素早く起き上がると、そのまま教えられた場所へ向かった。
今まで寝転がっていたせいで乱れた白衣を直すことにも気付かぬまま歩を進めていた。
酷い目に遭い、一度は死を選び、誰より想っていた恋人を忘れたことで二度目の生を得た倉橋尋人。
いつか、もう一度会うことが出来るなら、その時には笑顔でいて欲しいと願った。
忘れられてしまった恋人・六条中流と二人、並んで幸せな笑顔を見せてくれたらと。
(…もしかしたら)
以前、尋人から「自分を助けてくれた先輩の連絡先を知りたい」という電話があり、医院長を通して教えたことがある。
六条中流はこの病院の院長、大樹和裕氏の甥にあたり、彼ら二人の関係を少なからず理解していた院長はすぐに応えてくれたのだ。
もし、あの時から二人の交流が戻ったなら、今また、二人の幸せな時間も戻っていることだって有り得る。
記憶喪失は、何かのきっかけで改善する可能性は多分にあるのだ。
だからこそ、願わずにいられなかった。
◇◆◇
「医師」
だが、彼らの姿を目にすると同時、貴士の表情に広がったのは落胆の色。
二人の男の子だと言うから期待したのにと、彼らの来訪を伝えてくれた同僚を恨むのは筋違いだ。
だが思わずにはいられない。
何故、彼の隣に立っているのが六条中流ではないのかと。
「お久しぶりです。…お元気でしたか?」
貴士の内心を知らず、尋人は礼儀正しく頭を下げ、笑顔で声を掛けてくる。
その姿が、医師の心には痛かった。
「…久しぶりだね。君こそ元気だったかい?」
「はい。あの後、身体が痛くなったりもしませんし、…今回は、高校に合格した報告をしたかったんです」
高校合格と聞いて、今度こそ貴士の表情には笑みが浮かんだ。
「合格したんだね、おめでとう。よく頑張ったね」
「ありがとうございます。医師には、どうしても自分で伝えに来たかったので」
「それは嬉しいな」
はにかむような笑みの少年に、貴士も微苦笑で返す。
義理堅いというのか、わずか数週間、この病院の一室で何度か顔を合わせただけの――それも医者と患者という立場上の付き合いでしかない自分に、ここまで気を遣うのは、よく言えば尋人の長所なのだと思う。
だが同時に、それだけのためにこの街に戻ってきたのだとしたら、貴士が素直に喜ぶことは許されない。
いくら憶えていないとはいえ、記憶を失くして離れた土地は、尋人にとってだけでなく、彼の家族や、友人、…そして誰よりも六条中流にとっては、決して歓迎できることではない。
「…、尋人君。もしかしてそれを言う為だけに、わざわざこの街まで?」
危惧し、問いかけた貴士に、一度はすぐに首を振った尋人だったが、開き掛けた口が言葉を発するには至らず、その視線は隣に佇む少年に向けられた。
「…」
「…言っておいた方がいいんじゃないか」
ポツリと少年が言う。
その表情に確かな気遣いを見て取り、貴士は知る。
この少年も、尋人を心から心配しているのだと。
「…」
自分勝手な思い込みで、随分と失礼な態度を取ってしまったことを恥じながら、その少年に向かった。
「挨拶が送れて申し訳なかった。私は尋人君の担当医だった辻貴士と言います。…君は、尋人君の新しい学校のお友達ですか」
「菊池武人といいます」
ペコリと頭を下げ、真っ直ぐ見返してくる瞳には迷いがない。
「君は、…今の尋人君の支えなのかな」
「少しでも支えてやれればいいなと思ってます」
はっきりとした返答に笑い返す。
あぁ尋人君は大丈夫だなと思った。
例えば、もしも尋人が。
「僕……、僕、記憶を取り戻したいんです」
尋人が、それを望んだとしても。
真実を知る事になったとしても、この少年は尋人を支えるだろうという確信にも近い予感が生まれる。
「――…、記憶を……」
「はい…でも一人じゃ怖くて…、そしたら彼が、一緒に来てくれるって…」
「尋人君…」
少年の決意に――本心では期待していたことでも、実際にその言葉を彼自身の口から語られるのを、貴士は複雑な思いで受け止めた。
この少年が六条中流のことを思い出すのは喜ばしくとも、記憶を失くすまでの経緯を知ることは、とてつもない衝撃を伴うに違いない。
辛い時、苦しい時。
誰か支えられる人物が傍に居られるなら、それに越したことはない。
「…記憶を、追いかける事にしたんだね」
確認するように告げる貴士に、尋人は強く頷いた。
その瞳に迷いはない。
この少年は、きっと閉ざされた記憶の扉を押し開くだろう。
「…尋人君。もし記憶を取り戻していく過程で困ったことや…、身体に問題が出てきたときには、遠慮なくここにおいで」
「せんせい…」
「君は今でも私の患者だ。医者が必要になったら私を呼びなさい。いいかい?」
精一杯の穏やかな口調、優しい笑みで告げる貴士に、尋人はわずかに目を見開いた後で、顔を歪めた。
まるで今にも泣き出しそうな表情に、確かに宿るのは感謝の思い。
「ありがとうございます…、医師にそう言ってもらえて、すごく心強いです」
心から嬉しそうな顔をする尋人の隣で、菊池も安堵したように目元を和ませ、再び頭を下げた。
彼もまた、心から尋人のことを案じているのだと思うと、やはり貴士の心には複雑な感情が渦巻く。
願うのは尋人の笑顔。
…かつての恋人を思い出し、その隣で笑んでくれること。
その気持ちは変わらないのに、…何故だろう。心には影が落ちたようだった。
◇◆◇
尋人と菊池武人が病院を去って数時間。
空はすっかり暗くなり、道行く人の姿も皆無に等しい時間帯。
車で自宅に帰ろうとしていた貴士は、その手で携帯電話を弄んでいた。
画面を見下ろしては、それを閉じ。
メモリから弟の名前を呼び出しては、クリアにし。
“時枝彬”
両親の離婚が理由で姓は異なるが、血の繋がった実の弟である彼は、この春まで六条中流のクラス担任だった。
倉橋尋人が、友人と共にこの町に帰ってきていることを六条中流は知っているのだろうか。
…知っていて、会う覚悟は出来ているのだろうか。
「……」
それを確認したところで、自分にはどうすることも出来ない。
無責任に関わってしまえば、自分がどう思っていようが彼らの重荷にしかならないだろう。
ましてや、彬や、彼の恋人であり中流の親友である本居尚也が、これらの事情を知っているとも限らず、不用意な発言が爆弾になる可能性だってあるのだ。
「…黙って見守るだけか」
彼らのことを思うならば、そうすることしか出来ない。
記憶を追うも、運命に立ち向かうも。
…そして未来を掴むのも彼ら自身。
彼らの選択だけしかない。
「尋人君…」
あの日、あの夜の光景が脳裏を駆け抜ける。
傷つき絶望した尋人の姿。
心砕かれた中流の姿。――恋人を手放すと決めた彼は、どれだけの覚悟を強いられただろう。
どうか幸せに。
どうか幸せに。
携帯電話を握り締め、貴士は切に祈った。