時の旅人 序 倉橋尋人の章
「倉橋!」
背後から呼ばれているのは判るけれど、倉橋尋人は足を止めることが出来なかった。
…だって、他人のキスシーンなんか見るのは初めてだったし。
……それが男の人同士ともなれば、テレビでだって観たことがない。
「…っ」
心臓がばくばくしている。
急ぐ足を止めることも出来ない。
逃げ出した自分を、一緒にここまで来てくれた友人が必死に追いかけてきていると判っていても。
「おい倉橋!」
「っ、ぁ!」
腕を掴まれ、強引に引き寄せられた尋人は、勢い余って後方に倒れそうになった。
それをどうにか回避し、足元をふらつかせながら立ち止まると、途端に今度は激しい鼓動が耳を打つ。
「っはぁ…、も、何だよイキナリ…」
「ぇ、だ、だって…」
「そりゃ、驚くのは、判るけど、そんな逃げるみたいに…」
速い動悸と同じく、肩で息をしながら話しかけてくる相手に、尋人は返答の仕様がなかった。
彼の言うとおり、自分は逃げた。
駅近くの公共駐車場、その敷地内でキスしている二人――二人の男性の姿を目にした途端、全身が震え出し、目が離せなくなった。
理由も判らない衝撃に胸を突かれて、その人と目が合って。
…もう一人の男の人がこちらを振り向き、手を振ってきた瞬間、自分がものすごく卑劣なことをしてしまったような気がした。
そうしたら逃げ出さずにはいられなかった。
「まぁ…悪い言い方すりゃ“のぞき”みたいなもんだから、逃げ出したくなるのも判るけどさ。元はと言えばあんな場所でイチャついてるあいつらが悪いんだし」
「…うん」
「それとも……、“男同士”ってのがイヤだった?」
「……」
友人の遠慮がちな問い掛けに、尋人はしばらく考えた後で、静かに左右に首を振った。
男同士がイヤだったわけではない。
…そうではないと思う。
確信など何もないけれど、…ただ、遠慮がちにそれを問うてくれる彼の気遣いは嬉しいと思った。
倉橋尋人は、約一年前までこの街に住んでいたが、ある事情から母の田舎へと引っ越す事になった。
それも、中学三年生の、もうすぐ高校受験という大事な時期にである。
その理由は、尋人が不慮の事故から過去二年間の記憶を失ってしまったこと。
そこには二年分の学力も含まれており、このままでは尋人の後々が心配だ――ならば別の土地でもう一度、中学三年生からやり直してみないかという両親の提案を受けてのもので、完全に二年間の記憶を失っていた尋人は素直にそれを聞き入れた。
当時の自分には両親の説明を疑う必要も、理由もなかったし、何も解らないからそうするしかなかった。
だが、時が経つにつれて記憶を失くした心に生じ始めた違和感。
幾重もの喪失感。
消えた時間を取り戻したい――そう思うようになった自分に協力を申し出てくれたのが、転入先の中学校で出会った彼、菊池武人だった。
全学年一学級しかない小さな学校だったけれど、小さいからこそ情報の伝達は早く、一つ年上の転入生、それも過去二年間の記憶を失くしているという身の上は、尋人を孤立させて然るべきものだった。
だがそれを、学校のリーダー的存在であった菊池がフォローした。
尋人を仲間の輪に誘い、年の差など感じさせない、記憶の有無など考えさせない接し方で尋人の“らしさ”を出させた。
この一年、尋人が気持ち穏やかに学校に通い、この春には無事、志望校合格を決められたのも、菊池の助けがなくては実現しなかっただろう。
そうして今、こうして地元に帰ってきた尋人の隣にも彼はいた。
記憶を取り戻したいと願う尋人に、もしかすると衝撃的な事実を突きつけられることも無くは無いし、それを懸念する理由が彼らには有るからだ。
“男同士”という言葉を遠慮がちに口にするのも、そのため。
『六条中流』
それは事故に遭った当時、偶然にも現場に居合わせ、親戚の病院に尋人を搬送させた人の名前。
その後、入院中の尋人の見舞いに来て「幸せになれ」という言葉を残し、去った人。
二年間の記憶を失い、何も覚えていなかった尋人に、自分はただ居合わせただけの野次馬に過ぎないと語った彼は、…ならば何故、最後に「幸せになれ」と告げたのだろう。
何故、最後の最後に、抱き締めてくれたのだろう。
去年の末、ある写真雑誌で六条中流が新人賞を受賞したのを知り、久々にその名を耳にしたとき、理由もなく涙が出た。
…涙しか、出なかった。
それをきっかけに、尋人は決意した。
年が明けて、高校受験に無事合格して春からの進路が決まったら、覚悟を決めて六条中流に会いに行くこと。
そして菊池は、その途中で尋人に何かあった時には自分が支えになると断言した。
『六条中流』
彼が記憶を取り戻す最大の鍵になる。
失った過去から逃げずに立ち向かう――、その強い思いだけで、尋人はこの街に帰って来たのだった。
「あ…それとも、もしかしてさっきの二人、知っている奴らだったとか?」
「え?」
「だってここっておまえの地元だろ? 知り合いがいたって全然おかしくないしさ」
「ぁぁ…」
一瞬、菊池が何を言い出したのか飲み込めず返答に戸惑ったが、先刻の男同士のキスシーンのことを言われているのだと思い当たる。
「…どうかな。もし知っていても、僕には記憶がないし…」
たが、そう言われて思い出そうとすると、最初に目が合った男の人の顔には見覚えのある気がしなくもない。
「なんか倉橋の態度見てたら、ただ驚いたってだけじゃなかったような気がしたからさ」
「…そうかな」
「ああ。だっておまえ、あんまり動揺したりしないじゃん、落ち着いているって言うか、そういうところ大人っぽいしさ」
「そんなことないと思うけど…」
菊池の台詞に、尋人は微苦笑した。
大した事ではなくとも、褒められるのは心がくすぐったくなる。
「僕より菊池君の方が大人っぽいよ。頼りになるし、カッコイイし」
「はぁ?」
イキナリ何だと言いたげに眉を顰める彼の仕草は、照れ隠し。
咳払いを一つして。
「変なこと言い出すなよな、それよりこれからどうするんだ?」と早口に返してきた。
「こっから真っ直ぐ、じいさんの家に行っちまうか? 先に荷物だけ置いてくるとか。寄りたい所があるならそっちでもいいし。…六条中流には、明後日、会いに行くって言ってあるんだろ?」
「…うん」
確認されて、尋人は気弱に頷いた。
菊池の言うとおり、六条中流には明後日の午後に会いたいから都合のいい時間を教えて欲しいという内容の手紙を、一週間以上前に送っていた。
当日までに連絡を貰えれば、こちらが都合を合わせるからと、携帯電話の番号、メールアドレスを添えて。
…だが、六条中流からの連絡はない。
まさか郵便事故が発生して手紙が着いていないのだろうか、とか。
届いていても彼の目に触れていないんじゃないだろうか。
それとも無視されている……? そんな不安ばかりが募る。
それならそれで、住所が判っていれば家を探すことは出来るのだから直接訪ねればいい、家にいないなら玄関前で待っていればいいのだと菊池は強気に言い放った。
到着したその日に会う約束をしなかったのは会う前に少しでも以前の自分自身の情報を得ておこうと思ったからで、菊池もそれに賛成してくれ、その上、こちらに滞在している期間は彼の祖父母の家で寝泊りさせてくれるという。
感謝してもしきれない。
どうしてここまでと思うくらい、菊池は尋人への協力を惜しまなかった。
「…菊池君は優しいね」
「ぁあ?」
また何を言い出すのかと眉を顰めた彼に、尋人は目を細める。
「優しいよ、ものすごく」
「やめろって」
顔を赤くして、目を逸らしながら乱暴な手つきで髪を弄んだ。
「別に優しいわけじゃねぇよ。俺はただ…」
ただ。
…その後の言葉を、菊池は飲み込む。
「?」
どこか居た堪れない表情で唇を噛み締めた彼に、尋人はどうしたのかと尋ねようとしたが、まるで先手を打つような、わざとらしい陽気な声に阻まれた。
「で、これからどうするんだって。どっか行きたい場所は?」
「…」
彼の態度の変わり方が気になりはしたけれど、無理に聞き出したくはない。
「…じゃあ、病院に行ってもいいかな」
「病院?」
「うん。…お世話になった医師に挨拶をしたいんだ」
「オッケー、じゃあその病院の名前は? バスで行くのか?」
「うん、バスで…だいたい十五分くらいかな。大樹総合病院って言うんだ」